『告白』町田康【9】


堪能しました。すごくよかった。質量共に町田康会心の作と言ってもいいんじゃないかな。もっと早く読んでおけばよかった。最初にも書きましたが、町田康の小説は、デビュー作『くっすん大黒』から芥川賞をとった『きれぎれ』あたりまでせっせと追いかけてたんですよ。その後、しばらく読んでなかったんですが、久々に読んでみたら、すごいことになってたという感じ。


この作品は、河内音頭にもなった実際の事件、「河内十人斬り」をモチーフにしています。でも、どんな事件だったのか? 「河内十人斬り」について書かれた帯の文章を引用します。

●<河内十人斬り>とは
明治二十六年五月二十五日深夜、雨。河内国赤阪村字水分で百姓の長男として生まれ育った城戸熊太郎は、博奕仲間の谷弥五郎とともに同地の松永傳次郎宅などに乗り込み、傳次郎一家・親族らを次から次へと斬殺・射殺し、その数は十人にも及んだ。被害者の中には自分の妻ばかりか乳幼児も含まれていた。犯行後、熊太郎は金剛山に潜伏、自害した。犯行の動機は、傳次郎の長男には借金を踏み倒され、次男には妻を盗られた、その恨みを晴らすため、といわれている……。熊太郎三十六歳のときであった。

町田康はこの長い小説で、凄惨な連続殺人に至るまでの熊太郎の心理をひたすら描いていくわけですが、実際の熊太郎が本当にこういう人物だったかどうかはわかりません。というか、そんなものは、おそらく誰にもわからない。
わからないとき、人はどうするか。安易な理由づけをしてわかった気になる、自分には理解不能なことだとして無視する、というところでしょうか。近年、不可解な殺人事件が続発していますが、そうした事件を前にしたときのことを考えてみてください。「インターネットの影響」と単一の原因にあっさり押し込めてしまう。「心の闇」と言って、犯人を自分たちとは違う怪物のように扱う。どちらも、僕には違和感があります。
というのも、安易にわかった気になられたり、異物としての排除されたりすることが、熊太郎を追いつめていったんじゃないかという気がするからです。熊太郎は、誰にもわかってもらえないと思っている。だから、誰にもわからないような事件を起こしてしまったんじゃないか。僕は、そんな風に感じました。
熊太郎の考えていることはよくわからない。でも、「わかってもらえない」という気持ちはわかる。共感できる。僕らはそうやって、熊太郎に寄り添いながら、彼の姿を可笑しいような哀しいような気持ちで見守ることになります。そして、いつしか、彼のことが憎めなくなってることに気づきます。
この小説で、熊太郎は悪人として描かれてはいません。ただただダメな人、僕らと同じ卑小な人間として描かれている。そんな彼がドツボにはまり、引き返せないと思い込み、どんどん道を踏み外していく。でも、どうなんでしょ? 僕らだって、熊太郎のはまったようなドツボにいつはまり込むかわからない。そのときに、「もうおしまいだ」って思い込んで、さらにドツボに深くはまり込むことにならないとも限らない。
そうやって、わからなかったはずの熊太郎の気持ちが、じわじわとしみ込んでくるんですよ。実際はどうだったかわからないけど、こうだったかもしれない熊太郎の気持ちが、孤独が、絶望が、虚無が、我がことのように思えてくる。不可解なところはありながらも、でも、わけわかんないことやらかしちゃうことってあるよね、って思えてくる。
「人はなぜ人を殺すのか?」――帯に書かれていた文句です。この問いを通して見ると、明治時代を舞台にしたこの作品には、くっきりと現代が映し出されています。「人はなぜ人を殺すのか?」。この問いに答えるためには、殺す側に立ってみなければなりません。それはとても難しいし、苦しいことかもしれない。町田康は、その地点へと巧みに僕らを導きます。
「物語」っていうのはそういうことだよな、と思います。論理的な分析や情緒でべたべたの感情にはたどり着けない場所へ、文学は連れていってくれる。安易に理解した気になるのではなく、わからないと遠ざけるのでもなく、その出来事に、人物にじっくり寄り添って、じんわりと感じる。そしてそれが、熊太郎への鎮魂となるんじゃないか、という気がします。


もう一つ、町田康の特異な文体にも触れておきましょう。以前から独自の文体を駆使する作家でしたが、この作品では「語り」のごった煮状態というか、チャンポン具合が凄まじい。さらに、バンドマンとしてのリズム感覚と、河内音頭からインスパイアされた語りが相まって、とても饒舌でグルーヴィな文体になっています。
別の言葉でいえば、とても落ち着きがない。妙にくどくどしいと思ったら、急に雑駁になったり、勢いのある河内弁が出てくると思えば、急にバカ丁寧な東京弁になったりする。至るところに作者のツッコミが入り、わけもなくダジャレが飛び出し、独特の擬音語擬態語で彩られ、意味不明の幻想シーンや、芝居がかった情景描写や、現代に置き換えた例え話などが唐突に現われる。熊太郎の心の声には、ときに女学生言葉や英語まで交じります。
この落ち着きのなさは、とても重要だと思います。たぶん、確固たる文体では、わけのわからない世界に迫れないんですよ。混沌とした世の中、混沌とした熊太郎の内面を描くためには、ぐるぐる迷路に入り込み、うねうねと脱線しながら、様々な種類の「語り」を手変え品変え繰り出すしかない。
そのいちいちが可笑しいんですよ。陰惨なはずの物語なのに、読んでるとニヤけてきます。ときには、吹いちゃいます。ユーモアは、町田康の最大の魅力ですね。先ほど、この物語は「熊太郎への鎮魂」となっていると書きましたが、笑いとともにそれを行なっているということに、僕は感動します。このエネルギッシュな笑いは、河内音頭にも通じるものかもしれません。賑やかで落ち着きのないグルーヴ、ごった煮のトボケた笑い。
小説の締めくくりに、河内音頭が登場します。祭りばやしを遠くに聞きながら、長い長い物語の幕が下ろされます。


『告白』、これにておしまい。