『告白』町田康【8】


残り200ページを、一気に読み終えてしまいました。すごかった。傑作。未だ余韻にひたっておりますが、とりあえず前回の続きから。


せっかく縫と所帯を持ったのに、熊太郎はこれまでの生活を改めるわけでもなく、家を留守にしてふらふらとあたりをほっつき歩いてばかり。所帯を持ったからいって、縫とでれでれいちゃいちゃするのが、何となくカッコ悪いと思ってるんですよ。こういう意味のないカッコつけをするところが、相変わらずダメですね。
熊太郎の中には、葛木ドール殺しのこと、縫の気持ちがよくわからないことなどによる、暗いわだかまりがあります。そんな諸々を抱えて神社の前にやって来たところ、熊太郎は妙なものを見る。

熊太郎は、正面の鳥居をみてまったくなにも意識せずに、「はっ、神さんか。馬鹿馬鹿しい」と呟いた。
ちょうどそのとき空中におかしなものが現れた。
現れたのは一辺が一尺くらいな白く輝く正三角形で、鳥居の前の空中を発光しつつ浮遊していた。三角形はひとつではなく、二十か三十はあった。
それぞれの三角形は、一箇所で光を放ちながらわなないていたかと思うと、突然、宙をすべるように斜めに移動した。
移動の速度はきわめて速く、またその動きは急で、まったく予測がつかない。
熊太郎はすぐにこの三角形が神であることを悟った。

不思議なシーンです。三角形の神なんて、聞いたことない。普通に考えれば、これは熊太郎の幻覚です。宙を飛ぶ酢醤油と同じ種類のもの。このあとのシーンには、「太陽の中心から陰茎が垂れ下がって」いるという幻覚も出てきます。でも、なぜ熊太郎は、神様の幻覚を見たんでしょう。心の奥底で神様にすがりたいと思っているのか? それとも、壊れかけてるのか? 正三角形ってのは、図形の中で最もシンプルで明晰な形をしているものですよね。熊太郎のぐちゃぐちゃした内面とは真逆のもの。正三角形のようにきれいにいかないのが人間界なんですが、熊太郎は、神に何を見出しているんでしょうか。
そして、そんな熊太郎は、ついに縫と寅吉の不貞を目撃してしまう。怒り悲しみ絶望した熊太郎は、獅子舞の獅子頭をかぶって二人の前で踊り狂います。これは、哀しい。この期に及んで、直接的な行動に出られない。というか、直接的な行動をしようと思うとわけのわからないことになるんですよ。

獅子のなかで熊太郎は奇妙に混乱していた。
熊太郎の目は獅子頭の内側と世間を半々に見ていた。
獅子頭の内側で熊太郎は誰にも気づかれずに暗闇に蹲って笑ったり怯えたりする世間の様子を覗き見ているような気がしていた。しかし、その世間は獅子である熊太郎をみて笑ったり怯えたりしているのであり、熊太郎はけっして傍観者などではなく、当事者本人なのであった。
ところが獅子頭の内側と外の世界を半々に見ている熊太郎には、外の様子を覗き見ている内側の自分と暴れ狂うという形で外の世界と激しく関係している自分とそれを見て混乱している世間というものが、一筋につながっているように思えず、それぞれがばらばらに存在しているように思えてならなかったのである。獅子として頭をかくかく小刻みに上下させ地を這うように縫に近づいていきつつ熊太郎は思った。
しかし、この感覚は獅子頭をかぶっているゆえの感覚だろうか。確かに獅子頭の内側は闇で外は明るい。その闇に阻まれて俺自身と獅子がひとつながりにならないのかも知れない。けれども俺はいつもこんな闇を意識していた。俺の思弁は闇に遮(さえぎ)られて言葉につながらない。俺の思いは闇に閉じ込められて光のなかに放たれることはない。つまり俺はずっと獅子頭のなかにいて内側の闇、内側の虚無をみて生きてきたのだ。北野田。ところが光しか見ないものには、俺がそんな闇や虚無をみているとは知らないから、俺が暴れ狂うのは、ただ暴れ狂いたいから暴れ狂っているのだと思って俺を馬鹿にしている。違う! 俺が暴れ狂うのはそのような内側の虚無が絶えず視界に入って人間としていたたまれないから暴れ狂うのだ。咆哮するのだ。
うおお。

つまり、自分は今までずっと獅子頭をかぶっていたようなものだと。獅子頭の下の顔は、誰にも伝わりません。思いが言葉となって外へ出ていかない。世の中と関係しているのは獅子頭であって、自分はその世の中からはじかれてしまっている。そのことに、熊太郎は苦悩する。切ないです。「北野田」なんて、まったく意味のないダジャレを交えてしまうところも含め、切ないです。
熊太郎は、妻の縫を寝取られ、松永熊次郎にコケにされ、村人たちに疎んじられ、精神的に追いつめられていく。このあたり、熊太郎にすっかり感情移入している僕としては、とてもつらい。そしてどうにもならなくなった熊太郎は、こう呟きます。

殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。全員殺す。

このリフレインが、延々続く。そして、怒濤のクライマックス、「十人斬り」に雪崩れ込みます。


ここからは100ページは、一気読み。ということで、この先は、もう細かく書かなくてもいいでしょう。
熊太郎と弥五郎による「十人斬り」のシーンは凄まじく狂っていて、もう目が離せません。そして物語がここで終わっていれば、復讐譚としてある種のカタルシスを感じたまま本を閉じることができたかもしれない。でも、終わらないんですよ。
このあと、金剛山に逃げ込む熊太郎たちを追って、警察が右往左往し、事件と無関係な人々は熱に浮かされたように大騒ぎします。しばらくの間、カメラは熊太郎を離れ、周囲で熱狂する人々を描いていく。このあたりは、事件報道を前にした現代の僕らの姿勢なんかも、重なってきます。
そして再び、物語は熊太郎の元へ戻ってきて、例のごとくぐるぐるうねうねとした内面を描き出します。最後の最後まで、ダメな熊太郎。それじゃあ、あかんではないか。何があかんかったのか。それは、やはり熊太郎があかんかったわけですが、そう思うのはとても辛い。
ラスト10ページは息が詰まるようです。ここで、この小説のタイトル『告白』の意味が浮かび上がってくる。ドキッとします。これまで目を背けてきたことを、ぐいっと目の前に突きつけられるような気持ち。熊太郎の最期の言葉には、ぐーっと胸が締めつけられます。やるせない。町田康の放り出した虚無の恐ろしさと滑稽さと哀しさが入り混じって、何だかもう。


ということで、『告白』、読了。もう一度、言いましょう。傑作です。