『告白』町田康【7】


熊太郎は、年を経るごとにしょうもない大人になっていきます。子供の頃は、人よりちょっと自意識過剰のかわいげのないガキだったのが、だんだんろくでなしに育っていくというか。でも、それと反比例して、熊太郎の不器用さがいつしか憎めないものに思えてくる。もっと言っちゃえば、熊太郎のことが好きになってくるんですよ。確かにしょうもないダメ人間なんですが、でも、気持ちはわかるじゃないですか。世の中となじめない、思いを上手く言葉にできない、そのせいでますますわけのわからないことになって、ドツボにはまっていく。ちょっとでもそんな経験があるなら、熊太郎のことを、単なる頭のおかしなぼんくらだとは思えないはずです。
そんな熊太郎に、二度目の恋が訪れるというのが、ここへきての展開。


森本縫という少女が登場します。年は17、最近めっきり女らしくなって、村の男たちを夢中にさせているとか。村の若者たちは縫に好かれようと、妙にくねくねして「湖に口づけして、大空に飛んでいきたいにゃんかあ」などと、メルヘンチックなことを口走ったりするようになります。それを笑っていた熊太郎ですが、が、縫の姿を一目見た瞬間、あらら、恋に落ちてしまいます。
以降、恋に悶える熊太郎の様子が次々描かれていきます。内省して頭がいっぱいいっぱいになってしまうがゆえに、おかしな行動に出るという熊太郎のいつものパターンが、さらに加速していきます。
いかに縫の気を引くかを考えては、悶々とする熊太郎。困った縫を助けることで、気を引くことができるんじゃないかと考える。暴漢に襲われたところ助けるとか、ドラマによくあるパターン。でも、現実には、そうそう上手くいくはずがありません。

熊太郎はさらに、突然、牛が四十頭ばかり走り出て来てあたりを滅茶苦茶ににしてしまう。突然、爆弾が降って来てそこらへんのものがすべて爆発炎上する。川が逆流して波の上で五色の猿がかんかんのうを歌い踊っている。空から下駄や三味線が雨霰と降ってきて、地上で砕けてその破片が全部、鰯になってぴちぴち跳ねるといった状況を考え、そんな状況で縫を救い出すという筋立てを考えたが、筋立てが複雑になればなるほど、綻びもまた目立つと思うにいたった。
そこまで考えぬと分からぬのであろうか。

最後の一文が可笑しい。おなじみ、作者のツッコミですね。確かにちょっと考えればわかりそうなものですが、恋のせいで冷静な判断ができなくなっているんでしょう。そもそも熊太郎には暴走気味なところがありますが、ここまでくるとイメージする場面が特殊すぎるというか、ムチャクチャです。どっからこういう発想が出てくるんでしょう? 川は逆流しないし、下駄・三味線は降るわけがない。五色の猿ってのもわからないし、何故、破片が鰯になるのかもさっぱりです。かんかんのうは、落語「らくだ」にも出てくる踊りですよね。どんな踊りかわかりませんが、わかったところでバカバカしいことには変わりない。
ところが意外なことに、熊太郎の恋は成就してしまうんです。二人は、逢引を重ねるようになります。有頂天になる熊太郎。

縫のあの声、あの目、あの髮、あの腕、あの手、あの香り。それらに自分はいつでも降れることができるのだ。そう思っただけで熊太郎は嬉しくてたまらず、足をばたばたさせつつ、両肘を脇腹につけ、肘から先をくにゃくにゃ動かしながら蛇のような目つきで左右を睥睨(へいげい)、ひゃーあー、ひゃーあー、ひゃらららー、と歌いながら座敷をぐるぐる歩き回るのであった。いったいなにをしているのかというと、これは熊太郎が考案した踊りで、一見したところまったく嬉しそうに見えないのだけれども、当人のなかでは爆発するような歓喜が渦巻いていて、その嬉しさをあえて表現しないという克己力を自分が持っているというのは、自分が猛烈に幸福であり、精神に余裕があるからそういうことができるのだ、ということを感じるということそれ自体がまた幸福、という具合にどこまでいっても幸福の皮膜で覆われるという複雑精妙な心の動きを表現した踊りなのであった。
しかし、その踊りは熊太郎自身のためのもので、熊太郎はこの踊りを他人に披露するつもりはないし、ましてや、こんな恥ずかしい姿をもし縫に見られたなら自分は自決するだろうと思っていた。

何やってんだか…。明らかにはしゃぎすぎです。「精神に余裕がある」なんて、まったく嘘っ八。そんな冷静なもんじゃないでしょ。浮かれてあっぷあっぷしてるようにしか思えない。試しに、この踊りやってみてください。僕はやってみました。みましたが、はっきり言って、バカ以外の何者にも見えません。でも、それもこれも恋の成せる技。恋は、人をこういうわけのわからない行動に駆り立てたりするんですよ。テンションがあがってメロメロの詩を書いたり、むやみやたらにストレッチを始めたり、鏡に向かって何故かモノマネの練習をしたり…。踊りは確かに嬉しそうに見えませんが、このシーンからは熊太郎の喜びが伝わってきます。
ところが、熊太郎はそのうち、縫が本当に自分のことを好いているのかが、気になり始めます。「好きだっていってるけど、本当のところはどうなんだろ?」っていう、ありがちな悩み。難儀なことです。

「なんでそんなこと思うの」
「しゃあかて、しゃあないけ。最近、いっこも下駄出てひんし、俺がおまとこの近くまで行ても顔もめさひんし、どない考えても俺を避けとるとしか思わらひん」
「それはあなたの惑乱よ。私はすぐ近くにあなたがいることが分かっていて、あなたが生きてることも知ってるから、会っても会わなくても私には同じこと」
神秘的な瞳をして不可解なことを言う縫に熊太郎はたまらないような気持ちになり、「なんかしとんじゃこら」と怒鳴り、それから縫を抱きすくめた。
縫はくすくす笑い、熊太郎の顔を見上げて言った。
「私は変わらずあなたが好き」
熊太郎は訳が分からぬまま軽くわなないた。
夜が更けていった。外は雪。内は。

いいシーンです。縫の言ってることはよくわかりませんが、それでも「私は変わらずあなたが好き」の一言で、水に流れてしまう。「外は雪。内は」のあとに省略された言葉が、何とも言えない余韻を感じさせます。映画でよくありますよね、今まで部屋の二人を映していたカメラが窓の外を映し、そのまますーっと外へ出ていく。今頃部屋の内側で二人は…、ってやつです。
と、このように恋に浮かれる熊太郎ですが、そこへ、二人の恋路を阻む者が現われます。あいつです、あいつ、松永熊次郎。ホント、憎たらしいヤツですね。例によって、熊太郎をバカにして陥れようとする。困った熊太郎は、弥五郎に助けを求めます。弥五郎は、なんて情けない兄貴分だと、いい加減熊太郎に愛想をつかしかけます。でも、結局、見捨てられないんだな、熊太郎のことを。

弥五郎はすべての経緯を話す熊太郎の顔を見ながら、わしはこの人のこういうとこが好きなんや、と思っていたのであった。
子供の頃から他人のなかで育った弥五郎は人間が自らの卑小な欲望を満足させるためにあらゆる嘘をつくということをよく知っていた。
しかるに熊太郎はそのような嘘をまるでつかず、苦しそうな顔で正直に打ち明けている。
弥五郎は、弱きを扶け強気を挫くというが、この人の場合は、自分を挫いてる、しかもその自分は弱い。でも自分を挫くときの姿勢は無茶苦茶強気や。ということは、いったいこれは弱いのか、強いのかどういうことやね? わけ分からんわ、と思った。

誰のことも挫かないかわりに、「自分を挫いてる」っていうのは、なるほどと思います。以前の「俺はおまえら全員の代わりにたったひとりで負けたってんにゃんけ」という、熊太郎心の叫びを思い出します。別に正義感からそうしているわけじゃなくて、その才覚も度胸もないだけなんですけどね。でも、熊次郎のような悪らつな人間よりも、ずっとずっと愛すべき人物じゃないですか。弥五郎の周りには、これまで多かれ少なかれ熊次郎のような大人しかいませんでした。少年時代から、大人たちのそういう汚さをたっぷり味わってきたからこそ、「わしはこの人のこういうとこが好きなんや」となるわけです。熊太郎、好かれてるじゃないですか。縫にも、弥五郎にも。そして、読んでる僕にも。
いろいろあって、熊太郎と縫の二人は晴れて、所帯をもつことになります。時は、明治25年5月。


ということで、今日はここ(P482)まで。残り、約200ページ。読むのが止められない感じになってきました。ペースアップしていきますよー。