『告白』町田康【6】


この小説の冒頭で、熊太郎は「明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた」とありました。そのあと時間を遡り、熊太郎の少年時代・青年時代が描かれていくわけですが、ついに熊太郎も34歳。冒頭で紹介された年齢を追い越してしまいました。「熊太郎は引き返し不能な地点まで来ていた」。ということは、やっぱり30歳が人生をやり直す境目だったのかもしれません。でももう、あかんではないか、とは言いません。見届けてやろうじゃないか、熊太郎の行く末を、という気分。


さて、前回登場した熊次郎ですが、今や、熊太郎にとっては不愉快な存在になっています。葛木モヘアに似ているからというのもありますが、理由はどうもそれだけじゃないみたい。

熊太郎は遊蕩に身を持ち崩し、村から完全に遊離していた。熊太郎は幼友達であった駒太郎や小出らは自分を畏怖しつつもどこか馬鹿にしている、下に見ているのを感じていた。
そして遊蕩が原因で宇治から戻ったという松永熊次郎もまた、実直な者が多い村にあって熊太郎と同じく、賭場に出入りし、昼酒を飲んだ。ところがそんなことをしながら松永熊次郎は、父親の松永傳次郎と共同して、手広く農地を経営し、その収支はいたって順調であるらしく、村民はみな松永家の内福を噂した。
熊次郎は村民とも尋常に交際し、村の寄合などにも顔を出していたし、傳次郎は村内の有力者でその子弟である熊次郎には年上の駒太郎たちも一目置いている風だった。
熊太郎はそこが納得いかなかった。
同じく遊蕩に耽りながらその一方で生業(なりわい)は大をなしている。そんなんありか、と熊太郎は思った。
俺などはみなに馬鹿にされ親不孝をし、富は他家へ嫁に行くし、滝谷不動で助けた泥鰌(どじょう)は鳥に食われてしまう、そんな思いをしてもう土俵際いっぱい、徳俵に足がかかったみたいなところで極道している。しかるに、なんですか、あの熊次郎は? なにを余裕かましているのですか? はあっ? パルドン? と思ったのである。

ひがみと言えばひがみですが、そんな気持ちになるのもムリはない。やってることは同じなのに、熊次郎のほうが要領がいいんですよ。こすっからいと言ってもいい。しかもお金持ちのぼんぼんです。そりゃあ、熊太郎としては面白くない。「パルドン?」と問い掛けたくもなります。何で英語やねんって話ですが。
さらにそれだけではなく、熊次郎はどうも熊太郎のことをバカにしているらしい。熊太郎はそれが気に入らない。気に入らないけど、熊次郎に何となく引け目を感じてしまっていて、強い態度に出られない。それをいいことに、熊次郎はさらに尊大な態度を取る。まったくもって、イヤなヤツです。
一方、弥五郎は、チンピラとはいえ好感が持てます。熊太郎より腕っぷしも野性的なカンも勝ってるのに、熊次郎のように見下したりしない。熊太郎を「兄哥」と呼び、なついてくる。はみだし者同士気が合うというか、いいコンビです。

しかし、そういえば不思議なのは俺はいま弥五郎相手に賭博者の心理という精妙複雑なことをちゃんと言葉で話すことができた。村の者が相手であれば絶対に無理だっただろう。というか、俺がこんな吉野川の河原で懐中に一文の銭もなく、盗んだ酒飲んで野宿するてな因果なことになったのは、子供の時分から思いと言葉が一筋につながらぬという特殊の事情が主たる理由であるのに弥五郎にだけは忌憚なく思ったことが話せたのはなぜだろう。
そんなことを考えた熊太郎が弥五郎の姿をみやると弥五郎はさきほどまで話をしていたのにもかかわらずもう口を開いて眠っていた。着物の襟が大きくくつろいで腹当てが丸出しになっている。

無防備に眠ってる弥五郎、何か、かわいいですね。「浮浪児キャラ」というのかな。たくましくて、直線的で、どこか人なつっこい。どれも熊太郎にはないものですが、弥五郎のこの種の無邪気さはちょっと魅力的です。
そんな弥五郎だから、熊太郎の言うことを理解しようとして、真面目に耳を傾けます。すると熊太郎も、落ちついて話すことができ、相手の反応を見ながら伝わりそうな言葉を選ぶことができる。熊太郎が思いを伝えることができたのは、そのせいじゃないかと思います。理解してくれようとする人がいるってのは、熊太郎のような人間にとっては、とても重要なことだなんですよ。
では逆に、こんな場合はどうでしょう。熊太郎と弥五郎が連れ立って、奈良の遊廓で豪遊する場面。金を持っていると見て、薄っぺらいお世辞を言う遣り手婆が出てきます。

もちろん熊太郎も人間である。自分の歓心を買おうとして愛想を言っている人間に対して腹を立てるということは基本的にはない。しかし、この津金翠(つがねみどり)という遣り手婆の世辞はきわめていい加減であった。
「兄さん方、どこからお越しです」と聞くので、「わいら二人とも河内もんや」と答えると、「あら河内ですか。まさしく文化の発信地から……」などと陳腐なキャッチコピーのような台詞を歌うように言うのである。
最初、熊太郎は、いったい河内のどこが文化の発信地じゃ、と思い、けったいなことをいうおばはんだが、まあ一生懸命、世辞を言っているのだろうと思って聞き流した。
しかし、次第に津金翠が一生懸命に世辞を言っているのではなく、まったく自動的にぺらぺらよい加減なことを言っているということが分かってきた。
台の物をとれば、「まさに食通のお二人にぴったりの……」と言い、弥五郎の着物を見て、「まさしく一分の隙もない着こなしと身だしなみ……」と褒め、それぞれの相方が決まると、「めくるめく官能と快楽の夜がまさにこれから?」と意味不明なことを言った。

これは、ムッときますね。たまにいるでしょ、雑誌の見出しみたいな決まり文句を口にするタイプの人。何故、腹が立つかといえば、深く考えず「自動的」に喋っているからです。「この程度のことを言っときゃいいだろう」って、会話なめてるんですよ。だから、何を言っても聞かないし伝わらない。聞く気がないなら黙っとけ、と思います。弥五郎の真摯な態度とは、正反対ですね。
挙げ句の果てに、「お二人の行く手には輝かしい未来が……」とか、「歌うように」言うんですよ。何も言ってないに等しい、ぬるいJ-POPのようなフレーズ。イヤになります。僕からすれば、村の娘を前にして、「蛇がにゅうめんを飲み込む」とかなんとかあがりまくって意味不明のことを口走る熊太郎のほうが、ずっといい。だって、必死で伝えようとしてるから。意味がわからなくても、伝えたいって気持ちはわかるじゃないですか。
さて、この遊廓で、熊太郎たちは、熊次郎の弟、寅吉と出会います。この寅吉の喋り方もかなり特徴的です。無一文の寅吉の分まで払ってやった熊太郎に礼を述べるシーン。

「どうもすみませんでした。このご恩は死ぬまで忘れません。お借りしたお金は一生かかっても返そうかな」
「はあ?」
「え。ですからね、ご恩は忘れません、とこない申し上げた」
「そら、わかったる。その後、なんちゅたんやな」
「お借りしたお金は一生かかっても返そうかな」
「ちょう待て。その返そうかなてなんやね。普通は、一生かかっても返しますちゅうんちゃうけ?」
「まあ、普通はそうかも知れないね」
「知れないね、てなんちゅう口きくね。ほた、聞くけどおまは普通とちゃうのんかい」
「まあ、普通ですけどね。ただ、普通というのはどこまでいっても普通であってやはり面白くないでしょ。面白くないのはやはり面白くないので面白くするためにちょっと変えてみたんですよ」
谷弥五郎が言った。
「それっておちょくってるということとどこがちゃうね」
「どこも違いませんよ」
「兄哥、どつきまわしてええかなあ」
「兄哥、どつきまわされてええかなあ」
「掛け合いやな」

ふざけてます。まるで、新喜劇みたいなノリ。でも不思議なことに、熊太郎は腹が立たないんですね。寅吉は普通と違う面白いことを言いたいわけです。それは、津金翠のような自動的なフレーズとは真逆の発想なんですね。これも、一種のサービス精神というか、人なつっこさです。
そして熊太郎は、この寅吉の妙な喋り方に「自分と似たなにかを見いだし」、兄・熊次郎の「実利的実際的な生き方とは正反対の生き方」を感じます。「実利的実際的な」面から見たら、熊太郎の脳内に渦巻く思索だって、無意味というか役に立たないものです。だから、「実利的実際的な」ものを求める相手に伝えようとすると、言葉はもつれ絡まりわけのわからないことになります。
ふざけ倒している寅吉の底に、それに似た何か切実なものを感じたということじゃないかな。この感覚は、よくわかります。実利だけでやってたら、窮屈でしょうがない。そこから逃れる手段としての、おふざけ。ユーモアがないとやってらんないんですよ。


このあと、熊太郎は、熊次郎にそそのかされて、とある造り酒屋で大暴れすることになります。ここ、すごく面白くて、読んでいてテンションがあがります。ただ、結局は熊次郎にハメられて、ひどい目にあうんですが…。
まあ、それは読んでのお楽しみってことで、詳しく書くのはやめておきましょう。その代わり、熊太郎の面白シーンをいくつか紹介します。「笑い」がないと、やってらんないわけですし。

口の間には帳場格子、結界を引き回してあって、その奥の長押には読めない漢字を書いた扁額(へんがく)が掛けてある。熊太郎はあれはなんと書いてあるのだろうかと考えた。
猿春味噌汁飲腹痛。猿が春に味噌汁飲んで腹痛、みたいなことが書いてあるのだろうか。んなわけないか。

ここ数日、熊太郎はそんなことばかりしていた。
道を歩いていて突然、暴れ込んだときの自分の台詞を思い出し、「あ。うーん」と呻き、両手で顔を覆って畦道にうずくまったりした。或いは、大きな声で「えべらぼんぼん」などと意味不明のことを口走るなどした。
そうすることによって一瞬、恥ずかしさ、きまりの悪さをごまかすことができたのである。

弥五郎が、「大阪であんだけ遊んでくすぼった家、帰んのん切ないから、一杯飲んでいけへんけ」と言った。
どっぷり暗い熊太郎は一も二もない。
熊太郎は言った。
「それって素敵」

「猿春味噌汁飲腹痛」? 「えべらぼんぼん」? わけがわかりません。この小説、こういう脱線部分がいちいち面白いですね。最後の引用は、ようやく熊次郎絡みのトラブルを解決したあとの場面です。どんより落ち込んでいる熊太郎ですが、酒に誘われて呟くセリフが可笑しい。「それって素敵」。文末にハートマークが付きそうな口調。
熊太郎のセリフは、このように、いろんな口調が混じります。突如挿入されるその意外な口調に、読者はついついズッコケる。「パルドン?」て…、という具合に。でもこれは一方で、熊太郎の内面のややこしさを示しているようにも思えます。熊太郎は、自分の考えを「河内の百姓言葉で現すことができない」。直線的な一つの語り口では、思ってることを伝えきれないんですよ。
「それって素敵」。まあ、弥五郎にだけは、伝わるみたいですけどね。


ということで、今日はここ(P423)。かなり進みましたね。だいぶはしょって書いちゃいましたが、全体の3/5くらいまできたんじゃないかな。この調子で、このままぐいぐいいけちゃいそうです。