『告白』町田康【5】


「ハッピーとバッドの間を輾転反側」した翌朝。

翌朝。早いうちに寝床から出てきた熊太郎は土間にいた平次に挨拶をした。
「おはようさんでござります」うぷぷ。土間で口を漱(すす)いでいた平次は驚いて噎せた。
「なんや、熊やないか。びっくりさせやがって。おはようさん」
「おはようさんでござります」熊太郎は重ねて挨拶をした。
「けったいな言いようさらしゃがる。こない早よから起きてきてどなしたんじゃ」
「なあんちゅうことないねけど、ちょっと行て参じます」
「ほんま、けったいな口きくなあ。いったい全体どないしたんじゃ……、て、いてまいやがった。おい。豊、聞いたか。行て参じますちゅいよったで」
「きんのの晩からこっちほんまけったいでんな」
訝る両親を尻目に熊太郎は早朝の村に飛び出していった。

このやりとりは、まるで落語ですね。あの熊太郎が、こんな丁寧な言葉づかいをするなんて、という可笑しさ。さらに、それを見た両親があっけにとられてる様の可笑しさ。
熊太郎がけったいなことになってるのは、富のことで浮かれているからです。早朝から出掛けるのも、外を歩いているうちに富にばったり出会えるんじゃないかと期待してのこと。まあ、そんな時間に富が歩いているわけないじゃないんですが。熊太郎のこういうところ、憎めないですね。まるで中学男子のような初心さ。
一方、葛木モヘアと思われた人物は、そっくりだけど別人、松永熊次郎という人物だとわかります。なーんだ、拍子抜け。とは言うものの、この「熊次郎」って名前は気になりますね。熊太郎と一字違い。熊次郎は、熊太郎同様、博奕を打って酒飲んでというやくざ者のようです。と、似てるといえば似てなくもない二人なんですが、熊太郎は葛木モヘアそっくりの熊次郎に臆してしまい、いいようにコケにされます。
そうこうしてるうちに、熊太郎は、富の嫁入りの話を耳にする。ショック! 結局、富とじゃらじゃらすることを夢見ていたのは、熊太郎のひとり相撲だったというわけです。

富が嫁に行く。
聞いた瞬間、熊太郎は全身が、かっ、と熱くなるように感じ、それから、急速に四肢が冷たくなって痺れ、目が痛くなったうえ大量のふけが出た。鳩尾、胃のあたりに、気が狂った文士が自作の俳句を喚き散らしながら、大麦の粉をまき散らしているような嫌な感覚があった。頭のなかに竜巻が四十ほど同時発生し、いろんなゴミやがらくたを巻きあげつつ暴れ回っているような気がした。そのせいか、舌が縺(もつ)れうまく喋れない。手が中風の人のようにべらべらになって、飯を口に運ぶことはできない。心臓が鼓動を拍(う)つ度に大噴火が起きているような心持ちがした。悲しみの溶岩流、絶望の土石流が血管を駆け巡った。

ずいぶんと大げさな書き方ですが、ぶわっとふけが出るほど衝撃だったんでしょう。それにしても、竜巻や火山の比喩はいいとして、「気が狂った文士」のくだりはメチャクチャですね。自作の俳句? 大麦の粉? いったい、どんな状況なんだ? ただただうっとおしいようなカンに触るような、イヤーな気分が伝わってきます。
絶望した熊太郎は飲んだくれ、目を背けて通り過ぎる村人に心の中で毒づきます。

こうして朝から酒を飲んでいる俺。堕落、淪落(りんらく)しているこの俺をみて、そんな顔してござる。熊次郎は敗北のなかに鳴る人間のぎりぎりの音を聞かなかった。おまえらもそうだ。その音がどんな音か教えてやろうか? それは、きゅう、という音さ。樽の栓を抜いたみたいな音。はっ。ばかばかしい。そんな音がなにになるというのだ。なんにもならんさ。でも、勝負といって、勝つことの残酷さをお前らは知っているか。勝つ者があるということは負ける者があるということだ。だからみんなで勝とうなどというのは空念仏で、がつがつ勝とうとする者があれば必ず、それに踏みにじられる敗者がある。(中略)俺が犠牲にならなければ他の誰かが犠牲になったに違いないのだ。その犠牲者は、おまえや、おまえ。いま俺の前を顔をしかめて通ったおまえかも知れなかったのだ。にもかかわらず、あいつはアホだ、と俺を馬鹿にしくさる。(中略)俺はおまえら全員の代わりにたったひとりで負けたってんにゃんけ。なんでそれがわからんのじゃ、ぼけ。

ドキッとします。だって、まるで勝ち組/負け組に二分された現代の話みたいじゃないですか。これは逆ギレというか、甘ったれた理屈、身勝手な理屈かもしれません。でも、こういう鬱屈した気分を抱えている人は大勢いるんじゃないかな。つい最近のイヤな通り魔事件を思い出させたりもして。
敗北の音が、何とも間の抜けた「きゅう」って音だというところが、悲しいです。派手に殴り合って負けるとか、そういう感じじゃないんですよね。空気が抜けるように、しぼんでいく。そんな音。いつの間にか世の中からはじかれてしまい、どうにもこうにもならなくなっている。そんな負け方です。
世の中からこぼれ落ちていく人を見て、「あんな風になるなんて信じられない」みたいなことを言う人ががいます。「努力が足りないんだ」とか。でもね、そんな勝ってる人間の言葉を聞くより、熊太郎の言葉のほうが僕にとっては響きます。何故なら、僕もいつか負けるかもしれないから。勝者は、自分たちもいつかは負けるときがくるかもしれないということから目を逸らし、敗者を別物として扱うことで安心してるんです。熊太郎が怒っているのは、そこです。「おまえや、おまえ」って呼びかけは、僕ら読者すべてに向けられています。


明治24年、熊太郎34歳。この頃には、酒、婦女、賭博、喧嘩と、いっぱしのチンピラになっています。かつてつるんでいた駒太郎らは百姓のおっさんになり、熊太郎とはもはや接点がなくなってしまっている。要するに熊太郎は、村ではすっかり浮いた存在ということです。

これはフリーターと大学生がロックバンドを組んだときと状況が似ている。フリーターはバンドを一定程度、続くものだと認識、自らの人生と深く関係づけている。ところが大学生の方はそうではなく、バンドは社会的な活動ではなく学生生活の一環であり、就職して社会に出ればそんなことはやっていられないと考えている。
そしてフリーターは学生と別れてバンド活動を続け、学生は就職して社会人となる。
それでも最初のうちはたまに会って酒を飲み、近況を報告し合ったりする。ところが十年も経つうちに行き来もなくなり、偶然顔を合わせてももはやそもそもまったく知らなかった人と同じくらいか、或いはそれ以上に話題もなく、それどころか話す言葉から顔つきまでまったく隔たってしまって簡単な挨拶すらままならなくなるのである。
そしてこの場合、寂しいのはどちらかというと、そのままバンドを続けたフリーターである。

友人と十年ぶりに会ってみると、話すことがなくなっているという経験は、僕にもあります。最初は進む方向がちょっと違っただけなのに、いつしかそれぞれの道の開きが大きくなっていくんですよ。
そこに、「ロックバンド」というファクターをもってくるところが、町田康らしいです。バンドマンならではの、リアリティがあります。特に、フリーターのほうが寂しいというところ。好きでバンドをやっているっていうのに、取り残されたように感じてしまうというのが、切ないです。そして、熊太郎は、このフリーターのような寂しさを抱えていたと。
そんな熊太郎は、ひょんなことから、弥五郎と再会します。弥五郎は、かつて賭場で大暴れしたとき、熊太郎が結果的に助けることになった少年です。あれから十年、弥五郎はすっかり大きくなって、極道者になってます。

十年の歳月はまだ少年であった谷弥五郎を逞(たくま)しい青年に変えていた。そして十年の間に熊太郎はどうしようもないのらくら者になった。熊太郎は思った。
あの頃であれば俺はまだ引き返せた。けどもうあかん。あの子供がこんなに成長してしまうほどに時が経ったのだものな。はは。そらあかんはずや。しかし、あのときはあのときで俺はもうあかんと思っていたのやがな。くほほ。あのときは実はまだまだ頑張れた。それを頑張らなかった。

うわっ、ここキた。やるせない、やるせないですよ。あのときは、まだ引き返せた。でも、もうダメだと思って頑張らなかった。そうこうしているうちに、道はどんどん逸れていって、社会との距離が開いていってしまった。それを10年後に気づいても、どうしようもないじゃないですか。いや、どうしようもなくはない。今だってまだ間に合うかもしれない。今やれ、すぐやれ。でも、熊太郎は、そう思えないんですよ。「あのときはまだ間に合った」とは、常に後から振り返って思うことなんです。それじゃあ、ダメです。ダメだけど、その気持ちはわからなくはない。
例えば、今からまったく別の職種に転職しようと思うと、「そりゃあムリだよ」って気持ちになります。でも、やってやれないことはない。やらないだけなんです。面倒だから。そして、年を経るごとに、その面倒臭さはどんどん大きくなっていく。
もうちょっと卑近な例を挙げれば、片づけがそうです。こんなに散らかっちゃったら、片づけるのムリだなあと放っておくと、どんどん部屋がゴミ溜めのようになっていきます。そして、1年後に気づくわけです。こんなことになっちゃったら、もう片づけられないよ。ああ、1年前のあのときに片づけておけば、よかった。
こうした自堕落な気持ちは、よくわかる。でもそれじゃあダメだというのも、よくわかる。わかっちゃいるけどできないというのも、よくわかる。でも、そんなことを言ってたら始まらないというのも、よくわかる。ああ、僕も熊太郎のようにぐるぐるしてますね。
弥五郎は、かつて熊太郎に助けられたことを恩に着て、熊太郎を兄貴分として慕います。「わいを助けてくれたんはあんただけや」。二人は兄弟の盃を交わします。

男持つなら熊太郎弥五郎と昭和の御代まで名を残すと河内音頭に歌われた義兄弟の契りが結ばれたのである。

巻末の参考文献を見ると、この小説、「河内十人斬り」という河内音頭をベースにしているようです。文献というか、音頭なので音源。それにしても、「十人斬り」って、おだやかじゃないですね。


ということで、今日はここ(P312)まで。
熊太郎に「おまえや、おまえ」って言われて、改めて気づかされましたが、僕も熊太郎同様、ダメ人間のようです。