『告白』町田康【3】


それにしても、熊太郎って男は突っ込みどころが多すぎ。そりゃあ作者でなくても、「あかんではないか」って言いたくなりますよ。今回は、城戸熊太郎、賭場で大暴れの巻です。


駒太郎の牛を弁償代は30円。そこで文無しの熊太郎は、以前葛木ドールを殺した御陵から盗んできた宝玉を古道具屋に売って、ひとまず2円50銭を手に入れます。金を持ってご機嫌になった熊太郎からは、思わず鼻歌が出る。

「丸い玉子も切りよで四角ギツチヨンチヨン。ものも言ひよで角が立つ。オヤマカドツコイギツチヨンチヨン。安い牛から睾丸とればギツチヨンチヨンドールや小鬼の花盛り。オヤマカドツコイギツチヨンチヨン。全員うどんにいたしますギツチヨンチヨン。言うた尻から蕎麦饅頭。オヤマカドツコイギツチヨンチヨン」

何ですか、この歌は? 最後のところなんか、さっぱりわけがわからない。「全員うどんにいたします」って、何故にいつも、うどん押しなんでしょうね。なんでしょうねのギツチヨンチヨン。
そんな熊太郎に、「合羽の清やん」という男が声をかける。この男、賭場の胴元「正味の節ちゃん」という男と組んで、丁半博奕でカモれそうな客を賭場に連れてくる役なんですよ。熊太郎は金を持ってそうだということで目をつけられたわけです。でも、熊太郎は、そんなことには気づかず、清やんの顔のことばかり気にしている。この合羽の清やん、名前の通り河童に似てるんです。

熊太郎は、なんたら河童に似た男だ、と思い、それから果たしてこれはわざとやっているのだろうか。それとも本当に生まれつき河童に似ているのだろうか、と考えた。
わざわざ角刈りにして、しかも天辺を剃っているとしたらこれは完全にわざとやっていることである。もともと自分の顔に河童の素質があるのを知って、どうせだったら完全な河童にしてやろう、と思ってやっているのであり、その場合は、いやあ、あなた河童に似てますねぇ、と言うのが礼儀である。しかしもしこれがわざとではなく、頭の天辺に毛がないのは禿で、当人がただでさえ河童に似ているのを気にしているのに、そのうえ頭まで禿げ、ますます河童のそものになってしまったとくよくよしているところへ、にやにや笑い、いやああなた河童に似てますねぇ、と言ったらどうなるであろうか。気を悪くするに決まっているし、悪くすれば清やんは博徒、懐にのんでいるに違いないドスを抜いて斬りかかって来るかも知れない。まあ、あえてそのことには触れないという手もあるにはあるが、これほど河童に似た男に会い、そのことには触れないというのはあまりにも不自然というか、逆に白々しい。

河童河童と、どんだけ「河童」を連呼するんだか…。よっぽど河童が気になるんでしょう。わざとだろうが生まれつきだろうが、河童に似てようが似てなからろうが、どうでもいいじゃないですか。多少気にはなるけど、放っておけばいい。こういう場合、何も言わずうやむやにしてしまうのが大人のやり口です。でも思弁的な熊太郎は、どうでもいいことまであれこれうだうだと考えてしまうんですよ。
賭場では、熊太郎はボロ勝ちして一気に負けるという、ありがちな展開を見せます。そもそもカモにされてるわけだし、そうじゃなくても博奕なんてものは、負けるようにできてるんですが、熊太郎はその簡単な事実に気づかない。作者に「あほである」と突っ込まれる始末。
ところが、14、5歳の子供がその賭場へやってきたせいで、騒動が勃発。この子供を賭場の大人たちがよってたかって袋叩きにして、彼の持っている10円を巻き上げようとする。それを見ているうちに、熊太郎はドール殺しのことを思い出し、不快な気持ちになってきます。横溢する暴力の空気に、当てられてしまう。
この大混乱をよそに、熊太郎の脳裏には妙なイメージが浮かんでは消えていきます。目の前のその光景と熊太郎の脳内と行動とかが、おかしな具合にズレてるんですよ。子供を殴るのを止めに入ろうとして、賭場にいた百姓に「おまえ、一人だけ蹴らへんにゃったら銭、わけたらへんど」と言われた熊太郎の反応。

熊太郎は男の口がなにかの魚に似ていると思った。
あれはなんという魚だっただろうかと思った。
俺はなんであの魚を知っているのか。そうだ。子供の頃、父親に連れられて魚釣りに行ったときに釣れた魚だ。口のぼそっとして馬鹿みたいな魚。俺は本当はもっとしゅっとした、いけてる感じの魚が釣りたかった。しかし釣れるのは口のぼさっとした魚ばかりだった。しかし父親は魚がなんもでも釣れるのが嬉しいらしく、ぎゃはぎゃは笑って口のぼさっとした魚を釣っていた。そんな父親の口のあたりがみるとぼさっとしていた。そしていまこの男の口がぼさっとしているのはいったいどういう因果の巡りあわせだろうか。おそらくなんの巡りあわせでもあるまい。しかしそれにつけてもこの男はそんなぼさっとした口でなんというせせこましいことを言うのであろうか。十円をみなで分けるから子供を蹴れだと? おれがあの岩室でどれほど怖かったか。どれほど厭な気持ちだったかこの男は分かっているのか。崩壊しながら呪いを発散させてまとわりついてくる人体というものがどんなものなのかこいつは分かっているのか。あんな恐怖を一円かそこらで贖(あがな)えると思っているのか。口のぼさっとした魚で。それだったらせめて十円だ。

河童の次は魚ですか。しかも、「口のぼさっとした魚」て…。前回読んだミルハウザーならもっと詳細に描写するんでしょうけど、熊太郎の把握はざっくりとしてますね。「もっとしゅっとした、いけてる感じの魚」ってのも、何だかよくわからない。よくわかりませんが、熊太郎は取り憑かれたかのように、この「ぼさっと」を繰り返す。もしかして「ぼさっと」って、言いたいだけじゃないの? いやいや、頭がぐるぐるしてるんでしょう。話は脱線し、飛びまくり、妙な地点に着地する。「それだったら十円だ」って、どっちがせせこましいんだかわからない。
さらに、その百姓にエルボーを食らわされたときのぐるぐるした反応もすごい。

視野に閃光が走ると同時に激烈な痛みを感じた熊太郎の脳裏に、酢醤油(すじょうゆ)、という言葉が浮かんだ。ガラス小瓶に入った酢醤油が森を疾走する。ひとつではない。何百ものガラス小瓶だ。何百ものガラス小瓶に入った酢醤油が中空に浮かび森を走る。森というものは木が密生しているから無茶苦茶な速さで空を飛んでいる酢醤油の瓶は当然、木に激突して割れる。割れたガラスは月の光にきらきら輝きながら下草の這う闇のような森の地面に落ちていく。そして周囲には酸っぱい匂いがたちこめる。かすかに甘い匂いを含んだ酸っぱい匂いがたちこめる。匂いは四囲に漂い、まだ割れないガラス瓶は匂いのなかをなお疾走し、一瞬後には割れてきらきら輝くのだ。一方、木の幹はというとなにしろ中味が酢醤油だからねとねとになってしまって木の方では気色悪いなあと思っている。雨が降ってこのねとねとを洗い流してくれないかなあ、と思っている。ねとねとは気色わるい。しかし雨はけっして降らぬのだ。
と思う熊太郎の手が血でねとねとだった。

今度は、酢醤油。それにしても、脳裏に浮かぶイメージが空飛ぶ酢醤油ってのは、ぶっ飛んでます。「茶渋が落ちるの」どころじゃない、わけのわからなさ。この描写は、熊太郎の中でイメージを喚起される様を一緒にたどっているような印象があります。まず言葉が浮かび、次に映像が浮かび、続いて匂いが浮かび、最後は最後には木の気持ちになってその感触を想像する。ねとねとねとねと。

熊太郎は、俺はこの場で滅亡してやろう、と思って叫んだ。
「どうせ俺はひとり殺しとんね、ここで死んでも構うことあるかい。かかってこんかい、口ぼさのあほんだら」
叫んで熊太郎は内心で、あっ、と思った。熊太郎はいまの瞬間、自分の思想と言語が合一したことを知ったのである。思ったことがそのままダイレクトに言葉になった幸福感に熊太郎は酔った。しかし熊太郎はこうも思った。
俺の思想と言語が合一するとき俺は死ぬる。滅亡する。そもそもは横溢する暴力の気配を嫌悪する感情に端を発した騒動であった。それが結果的に暴力を生む。豆を煮るのに豆殻を焚く。暴力の気配から逃れるために暴力を行使、その暴力がさらなる暴力を生む。因果なことだ。
などと詠嘆している暇はなかった。
「いてまえ」誰かが叫んですぐに拳が飛んできた。

せっかく思いと言葉がぴったり合ったっていうのに、それについてあれこれ思弁的に考え始めちゃう。惜しいなあ。それが、思いと言葉と行動がバラバラになる原因なのに。そんなことやってるから、ぶん殴られるんですよ。
それはともかく、ここはちょっと大事なところかもしれません。「思想と言語が合一するとき」、熊太郎は「滅亡する」。どうなったってええわい、と思ったとき、言葉が自然に喋れるようになる。これに似た気持ちは、僕もわからなくはない。嫌われたくないっていう気持ちを振り捨てて、どう思われてもいいやって思った途端、自然に振る舞えるようになる、とかね。
「こう言ったらどう思われるだろう?」なんて考えると、喋れなくなってしまう。言葉を発することについて考え出すと、自然に言葉を発することができなくなるのかもしれません。自己言及の罠に囚われて、思考はぐるぐる回るばかり。

俺は今後の人生においてもう二度と、見栄を張ったりええ恰好をしたりするのはやめる。博奕も全部、勝ち逃げでいったる。というのはええけど、いったい俺はどうするわけ? 駒太郎の二十円どうするわけ? どうにもならないじゃないの。って俺なに東京弁しゃべっとんね。俺、だれ? なんかぞわぞわするなあ。

熊太郎は家路をたどりながら、そんなことを考えます。「俺なに東京弁しゃべっとんね」が可笑しい。自分で自分に突っ込みを入れるというのも、自己言及の多い熊太郎の特徴です。自分に突っ込みを入れられるのは、知性の証。それでも、ダメ人間なことには変わりないんですが。
家に着いた熊太郎は高熱を出し、ダメ人間なりに自分の行く末を考えます。もうすぐ24歳。「そろそろ心を入れ替えて両親に楽をさせてやろう」なんてことを思います。でも大丈夫かなあ、できるかなあ。


ということで、今日はここ(P180)までギツチヨンチヨン。町田康のくり返しの多い文体は、熊太郎のぐるぐる回る脳内を見ているようでかなり可笑しいです。