『告白』町田康【2】


「文体のリズム」って簡単に言っちゃったりするわけですが、町田康の場合のそれは、決してなめらかなリズムじゃないんですね。明治の初期を舞台にしていながら現代的な言い回しが出てきたり、客観的な記述が続いたと思ったら急に作者の独白になったり、ところどこにくだけた河内弁が混じったりと、ある種ごった煮というか、チャンポンというかそういう類のものです。それが、ぎくしゃくした痙攣も含んだ緩急自在のグルーヴィーなリズムを生んでいるんですよ。しかも笑える。ただ可笑しなことを言ってるだけじゃなくて、その間のハズし方が絶妙。これも、やっぱりリズム感覚の賜物でしょう。


ということで、続きいきます。
村を出た熊太郎たちは、一言主(ひとことぬし)という神様を祀った神社の脇を通りかかります。本筋にはあまり関係なさそうなんですが、この一言主についての説明が面白い。

そもそも一言主という神様からして不気味な神様で、顔が醜くて悪事も一言、善事も一言で言い放つ、言離(ことさか)の神である。この世のすべてのことを一言で言い放つ。善いことも一言で言う。悪いことも一言で言う。言離というのはなんのことか分からぬが言葉で物事を離つ、世の中のすべてのことをばらばらで単純な言葉に分解してしまうようなイメージがある。突然現れてすべての問題を一言で解決してしまう。
これは救いに似てけっして救いではない。
「ええっと、蕎麦とうどんとどっちにしようかなあ」と悩んでいる人の前に突然現れて一言、「蕎麦」と言い放って去っていく。そこまではっきり言われるともはや悩むことすらできず、やむなく蕎麦にするのだけれども理由も知らされずにただ蕎麦と断言されたのだから釈然としない気分が残る。だからといって、「うるさい。俺はうどんにする」と言って無理にうどんを食べても、やはり蕎麦の方がよかったのだろうか、という思いがつきまとってうまくない。
人をそんな気分にさせておいてその理由も動機も明らかにしない一言主は不気味な存在である。

何だかぐだぐだした文章です。「言離の神である」って言いながら、「なんのことか分からぬが」って放り投げちゃうのはどうなんでしょう? 「救いに似てけっして救いではない」と大仰に出ておきながら、具体例が「蕎麦か、うどんか」っていうちまちました問題だってのも、ちょっと拍子抜けです。そして何より、文章にくり返しが多くてくどい。わかったから一言で言ってよ、って言いたくなります。
でも、町田康はわざとこういう文章を書いてるんだと思います。なぜなら、この小説が、なかなか割り切れない熊太郎の内面を描こうとしているから。一言だけのご神託じゃ、熊太郎のぐだぐだした思索を捉えきれない。救えないし、掬い取れない。あーでもないこーでもないとぐるぐる回りながら、蕎麦かうどんかでくよくよしながら、物語は続きます。
さて、熊太郎たちは、奇っ怪な容貌の兄弟と出くわします。そして、墳墓となっている岩室に一人連れ込まれた熊太郎は、彼らにさんざん脅かされ殺されそうになります。河内音頭を歌ったら許してやると言われ、必死で歌ったら今度は、この状況でそれだけ歌えるってことはなめてるに違いないと言われる。まあ、イチャモンですね。それにまた、この兄弟の名前がふざけてるんですよ。葛木モヘアと葛木ドール。何かいわれがあるのかもしれませんが、やけにファンシーな名前じゃないですか。
結局、熊太郎は、我が身を守るために反撃。ドールの頭を殴ったら、そこから顔が膨らんでゆき、ついには何と大量の水を飛び散らせながらその頭が爆発します。このあたりは、かなりシュールな展開です。

胸から足にかけてドールの水を浴びた熊太郎は思わず、「うわっ、気持ち悪っ」と声をあげたが、同時にひやっとした。自分で大変なことにしておいてまるで他人事のように、うわ気持ち悪っ、などといったのでは葛木ドールが気分を害するのではないかと思ったのである。しかしドールはそれどころではない様子だった。広大な顔面の一部が破れた袋のようになって垂れ下り、そこから水が滴っていた。
痛いのか苦しいのか、ドールは目を閉じ、ピアノを弾く盲人のように両手を前につきだし仰向けた首を左右に振っている。熊太郎は、今度こそドールは怒っただろうと思った。

熊太郎は、「直線的な力の行使が非常に苦手」なんですよ。肉体言語に訴えるのを潔しとしないというか。でもそれにしたって、反応がいちいちズレてます。そりゃあ、頭から噴き出した得体のしれない液体を浴びたりしたら、誰だって気持ち悪いですよ。でも、殺されたら元も子もないんだから、今はそれどころじゃないでしょ。さらに、相手が気を悪くしないかとびくびくしてるあたりも、この状況下にはふさわしくありません。相手は自分を殺そうとしてたんですよ。今さら、どう思われたっていいじゃないですか。
笑えるのは、後段の「ピアノを弾く盲人のように」ってくだり。これ、スティービー・ワンダーでしょ。ふざけた比喩だなあ。舞台は明治時代だってのに、ムチャクチャです。
結局、熊太郎は、葛木ドールを殺してしまい、誰にも知られないよう、その場を逃げ出します。あーあ、やっちゃった…。


時代は下って、熊太郎は23歳になります。

明治十四年。二十三歳になった熊太郎は完全な極道者になり果てていた。
生業を抛棄(ほうき)して博奕(ばくち)場に入りびたる。昼から酒を飲むなど遊蕩(ゆうとう)に身を持ち崩して、その生活態度たるやふざけきっていた。
あかんではないか。

はい、また出ました。「あかんではないか」。あかんということは熊太郎もわかってはいるんですが、それでもドール殺しがいつか発覚するに違いないと思うと、自暴自棄になって遊蕩三昧にふけってしまう。身勝手な理屈というか、ねじれた論理ではあるけれど、一応、意味もなく極道をやってるわけじゃないんですね。世の中なかなか、「あかんではないか」の一言では割り切れません。
あるとき熊太郎は、かつての悪ガキ仲間駒太郎が道の向こうから牛を連れてやって来るのに行き合います。駒太郎は、これから牛を「ようじょこ」に連れて行くところだとか。熊太郎は、初めて聞く「ようじょこ」という言葉に戸惑います。「ようじょこ」とは、「養生講」と書き、牛の爪を切ることだそうです。どうやら村の百姓たちが普通に使っている言葉のようですが、他人と自然な会話ができない熊太郎は、そうした言葉を知る機会がないんですよ。そして熊太郎は、それもこれも自分が極度に思弁的な思考をするからだと考えている。

ほらね。と熊太郎は思った。
駒太郎はまず頭で早くようじょこに行きたいなあ、と思った。そして早く行きたそうな顔をした。そして言葉で、「早くようじょこに行きたい」と言った。つまり駒太郎においては、思いと言葉がひとすじに繋(つな)がっている。思いと言葉と行動が一致している。ところが俺の場合、それが一致しない。なぜ一致しないかというと、これは最近ぼんやり分かってきたことだが、俺が極度に思弁的、思索的だからで、つまり俺がいまこうして考えていることそれを俺は河内の百姓の言葉で現すことができない。つまり俺の思弁というのは出口のない建物に閉じ込められている人のようなもので建物のなかをうろつき回るしかない。つまり思いが言葉になっていかないということで、俺が思っていること考えていることは村の人らには絶対に伝わらないと言うことだ。例えばちょっと言ってみようか。
「駒やん」
「なんや」
「わしな」
「うん」
「頭ン中に思てることをな、口で言お思てもな、その言う言葉がな自分でいっこも思いつけへんね」
「それ分かるわ。わしもそんなことようあんね」
ほらね。俺の意図がまったく伝わってない。だから俺の思いと言葉と行動はいつもばらばらだ。思ったことが言葉にならぬから言葉でのやり取りの結果としての行動はそもそも企図したものではなく、思いからすればとんでもない脇道だし、或いは、言葉の代替物、口で言えぬ代わりに行動で示した場合、そもそもの言おうとしていること自体が二重三重に屈曲した内容なので、行動も他から見れば、鉄瓶の上に草履(ぞうり)を置くとか、飯茶碗を両手に持って苦し気な踊りを踊るといった訳の分からぬこととなって、日本語を英語に翻訳したのをフランス語に翻訳したのをスワヒリ語に翻訳したのを京都弁に翻訳したみたいなことになって、ますます本来の思いからかけ離れていくのだ。

熊太郎のうだうだとしたモノローグを紹介しようと思うと、どうしても引用が長くなっちゃいますね。思考がぐるぐるしてるから、一文が妙に長かったりブツ切れだったりするし。
ここで熊太郎は面白いことを言っています。熊太郎の頭の中でうねる思索は、「河内の百姓の言葉で現すことができない」。確かに熊太郎のモノローグは、カギカッコの中の会話文とはずいぶんと違います。ドがつくような関西弁の会話のあと、標準語で「ほらね」と受ける、内心の声の絶妙なタイミング。笑えます。
笑えますが、伝える言葉を持たないというのは、ある意味不幸なことです。言ってもムダだっていう気分になったっておかしくない。ある考えを、そんなこと思いもよらない相手に伝えるのは、ほとんど不可能じゃないかという気がするときがあります。また、そういう相手に限って、「お前の気持ちはよくわかる」とかなんとか安易に共感してくれたりして。俺がぐねぐね考えたことをろくに考えもせずに肯定されても困るんだよ、というベースの部分は結局何にも伝わらないことに、さらに絶望を深めたりするわけです。ひょっとして、「バカの壁」ってこういうのを言うんでしょうか? 読んだことないんでわかりませんが。
あと、思春期のもやもやとかいらいらを、「論理的な大人の言葉で現すことができない」のにも似てますね。自分の気持ちが伝わりっこないと思ってるから、大人と口をきかなくなる。そんなとき、何故か物分かりのいい顔をした大人が近づいてくるんですよ。でも、根本的なところで、「大人は分かってくれない」。熊太郎のように「ほらね」と言いたくもなりますよ。
それでも気持ちを無理に説明しようとすると、伝わらないことに焦って、ますますおかしな方向に行ってしまう。結局、自然な会話ができず、「飯茶碗を両手に持って苦し気な踊りを踊る」みたいなことになるわけです。僕も、そういう気持ちになることがないわけじゃないし、そういう状態になりやすそうな知人の顔もいくつか思い浮かびます。でもこういう気持ちって、わからない人にはまったく理解できないんですよね。そういう人から見れば、熊太郎は単なるおかしな人と映ります。

そして大抵の場合、他人の内面など分かるはずがないから熊太郎はアホの無能だと思われていたのである。或いはもっと分かりやすく言うと、熊太郎は言葉のまったく分からない国に突然迷い込んだ人のようなものであった。
もちろん言葉が通じる国に行けば普通人として、というかそれ以上に知性的な人である。
ところが相手の言っていることはおぼろげに分かるものの、自分の考えを伝えるということがまるでできぬため日常生活すら満足に送ることができず、その国の人は、うどんの注文ひとつまともにできぬ白痴という烙印を押すのである。自分よりアホな人間に白痴と断定されるほど情け無いことはない。

ガキ大将として恐れられていたかつての熊太郎ですが、すっかり「面倒臭い人」「わけわからん人」って思われていたんですね。あわれだなあ。あと、関係ないですが、またもや「うどんの注文」が出てきますね。一言主を有り難がる人には、「うどんの注文ひとつまともにできぬ」悩みは、到底理解できないでしょうね。
このあとあれやこれやがあって、熊太郎は、駒太郎の牛をようじょこへ連れて行くこととなります。ようじょこ場は人と牛でごった返していて、その「げしゃげしゃ」した様子は、なかなか面白い。活気溢れる場の空気が伝わってきます。ところがそこで、熊太郎はトラブルに巻き込まれ、預かった牛を川へ流してしまいます。駒太郎は激怒。熊太郎の言い分には耳を貸そうとせず、弁償しろと言うばかり。そして、熊太郎は、「牛の代はきっちり全額、弁済する」「しかしおまえらは将来、別のものを俺に払わんとあかんようになるやろ」と、つぶやきます。

十一年後、熊太郎の予言は現実のこととなる。
しかしこの時点で自分の言ったことの意味が分からない熊太郎は、ああは言ったものの牛の代金をいったいどうやって工面しようかとくよくよしていた。
金剛山の上空に黒雲がたちこめて驟雨(しゅうう)。

この場面は、こんな思わせぶりな形で終わります。「黒雲がたちこめて驟雨」、チョンと拍子木が鳴って暗転みたいな。


ということで、今日はここ(P127)まで。何だかえらく長々と書いちゃいました。
熊太郎はダメな男だと思いますが、そのダメの根底にある「言葉が伝わらないもどかしさ」は、共感できますね。身につまされるというか。