『空気の名前』アルベルト・ルイ=サンチェス【5】


残り約40ページ。読み終えちゃいました。「1 空気の手のなかで」のパートが80ページあって、第2部にあたるこの「2 名前」が40ページ。不思議なバランスですが、これまで螺旋を描いていた線が、中心にたどり着いたあとふわーっとばらけていく、というような読み心地のパートになっています。
ふう、余韻。


「2 名前」のパートは、「I 窓――ファトマ」「II 魚――アムフルス」「III 網――ムハマンド」「IV 空気――カディヤ」の4つの章から成り、それぞれの人物のその後が描かれています。
2章と3章に登場する、アムフルスとムハマンドは初めて出てくる人物ですが、どちらもファトマをものにしたいと考えています。アムフルスは彼女に欲情し、ムハマンドは彼女と結婚したいと思いつめる。でも、ファトマはカディヤを思って、心ここにあらずですからね。当然、色よい返事がもらえるわけではありません。
僕が面白いなと思ったのは、例によってモガドールの町に関わる部分です。魚の競りが修理のため陸に上げられた船に囲まれた場所で行われている、というような描写とか。ちなみに、アムフルスは魚市場の競り人です。いろんな意味で生臭い人物。彼が酒場で飲んだあと、向かう先も面白いです。

千鳥足と激しく戦いながら、船着き場とは反対側にある桟橋の人目につかない場所に向かった。そこには、その日もそうだったが毎週土曜日、女の市を載せた赤いカンテラの船が来ていた。

隠れるように停泊する、売春宿ならぬ売春船。「にせものの夕焼け」を連想させる赤いカンテラというのが、また妖しくていいですね。土曜日は魚市から女市へ。午前は女湯/午後は男湯というのと同様に、こういう決め事で町のリズムは作られるんですよね。そういえば、このあとには、男湯になったハンマームの描写もちょこっとだけ出てきます。午後のハンマームは、策略の場です。
一方、1章と4章では、ファトマとカディヤそれぞれの出自が語られています。ファトマの不吉な出自に関しては、第1部でもほんのちょっぴり匂わされていたんですが、それがようやく明らかになる。カディヤの数奇な出自は、まるでアラビアンナイトのようでもあります。

ひとつの伝説は多くの口から作られる。ひとりひとりが自分の舌の形に合わせて伝説を完成させ、欲望の形に合わせて記憶し、あるいは忘れる。

そんな風にして、カディヤの半生はモガドールの中央広場にいる老人の口から伝説として語られるようになる。舌の形によって変形させられる物語のカケラ。なんていう官能的で魅力的なイメージでしょう。もちろん、ファトマの物語も同様です。彼女の謎めいた行動は、町の人々の憶測を呼び様々な噂となって拡散していく。それぞれの人たちが、「欲望の形に合わせて記憶し、あるいは忘れる」。
ということで、第2部では、章タイトルになっている4人の人物それぞれの思いが交錯することになる。と言いたいところですが、それが微妙なところですれ違い、結局はばらけていく。塩の薄板が城壁から剥がれ、やがて雲散霧消してしまうように。すべては空気の中にもやーっと広がっていく。
さらに、この第4章に出てくる老人がある人物だとすると、時間軸がねじれているようにも読める。振り返ってみると、第1部のカディヤとの出会いのシーンも、回想シーンなのか現在進行形のシーンなのか曖昧な書き方がされていました。すべては起きてしまったようでもあり、今まさに起こっている。螺旋を描いて進みながらで左右を見渡すと、手が届きそうなところに過去や未来が見える。そんなねじれ。

本の最後の数ページを読みながら、登場人物たちの運命が――小説のなかでその人物がすでに死んでいたとしても――気にかかってならないということが彼女にはよくあった。話の筋そのものや人物の性格、何かの場面やイメージが、後ろに置きざりにされたものを呼び覚まし、それが彼女の内に戻ってくるのだ。

戻ってくる。空気中に消えたはずのものが、ふいに戻ってくる。名前を呼ぶ。空気の名前をそっと口にするとき、あの歓びの時間が戻ってくる。すぐにまた空気の中にもやーっと溶けていってしまうわけですが。

モガドールの午後が終わるころ、ファトマは家路についた。人々が影の新たに延びた部分に自らの疲労を載せるとき、もっとも険しい顔の人さえゆったりした穏やかな表情を浮かべるようにみえた。モガドールの住民はこの遅い時間に、ある種の第二の存在のなかに入っていくように彼女には思えた。それは読み終わった物語の登場人物たちが彼女の内で形をとる存在にあらゆる点でよく似ていた。
彼女自身も、夜とともに家の門をくぐり抜け、その静けさに入っていった。

こうして、この作品は終わります。モガドールの町が、そこに暮らす人々が、そしてファトマもまた、物語の中にゆっくりと溶けてゆき、暗転。


ということで、『空気の名前』読了です。