『名もなき人たちのテーブル』マイケル・オンダーチェ【2】


前回までのあらすじ、のかわりに前回ささっと通り過ぎちゃった第20章から引用しておきます。客船に乗り込んだ少年たちの日々は、こんな具合だったと。

この船で繰り広げられる日常を把握したいなら、もっとも間違いのない方法は、時間の流れに従って行き来する人の動線を描いてみることだ。人によって色を変え、日々の動きを表せばいい。マザッパさんがお昼に起きてからたどる道や、モラトゥワのアーユヴェーダ医がヘクター卿の世話を離れてぶらぶら歩く道。犬を散歩させるヘイスティさんとインバニオさん。フラビア・プリンスとブリッジ仲間は、〈デリラ・ラウンジ〉へのんびり出入りする。明け方にはオーストラリアの少女がスケートでくるくる滑る。ジャンクラ一座の大きな舞台やちょっとした余興。それに僕たち三人は、はじけた水銀みたいにそこらじゅうを飛びまわる。プールに寄ったら次は卓球台、そのあと舞踏室でマザッパさんのピアノのレッスンを眺めて、ちょっと昼寝をしてから片目のアシスタント・パーサーとおしゃべりし――去り際にはガラスの目玉の観察を怠りなく――そしてフォンセカさんの船室に一時間以上おじゃまする。こうしたでたらめな行動パターンがすべて、カドリール〔四組の男女のカップルが方形に組んで踊る社交ダンス〕のステップのように予想のつくものになった。

人々の日々の動線を描くと、ちょっとした人物相関図や船の地図ができあがる。こういうイメージ好きです。ジャック・タチの映画とか、まさにこんな風に撮られてるでしょ。僕はタチの映画を観るといつも「ダンスのようだ」と思うんですが、オンダーチェも乗客の行動を振り付けられたダンスに例えている。わかる、わかるなあ。


では続きです。
まずは、オロンセイ号で映画上映が行なわれる場面から。甲板にシーツのスクリーンを張っての野外上映。ああ、心躍りますね。この、野外上映ってヤツに僕は弱い。いわゆるツボってやつです。前回「夜に光が灯っている場面」が好きだと書きましたが、野外上映もそのひとつ。しかも、みんなで映画を観るってのは、ある特別な時間を共有することでもあるわけで。
マイケルたち3人の少年にとっては生まれて初めての映画。彼らはかぶりつきに陣取ります。「スピーカーがパチパチとやかましい音をたて、スクリーンにいきなり映像が浮かびあがった。そのまわりを、暮れなずむ紫色の空が取り巻いていた」。もう、これだけでグッときちゃうんですが、もうちょっと引用してみましょう。

星がしだいに消えゆくなか、ゆっくりと進む船の上で、映画は二カ所で上映されていた。一等船室の〈パイプ・アンド・ドラムス・バー〉では三〇分早く始められ、四〇人ほどのきちんとした身なりの乗客たちが静かに鑑賞していた。一巻目が終わると、フィルムを巻き戻して金属の容器に入れ、屋外上映のために甲板の映写機まで運んだ。そのあいだ一等船室の観客は、二巻目を見るのだった。おかげで二カ所の音声が混ざりあって、予想外の混乱が生じた。海風がとどろくので、どちらのスピーカーも音量を最大にしていたから、場面にそぐわない音に攻められつづけた。緊迫したシーンを見ているのに、将校たちの浮かれ騒ぐノリのいい音楽が聴こえてきたりする。それでも、僕たち野外上映組には、夜のピクニックの雰囲気があった。全員にアイスクリームが配られ、一等船室のフィルムが終わってこっちの映写機にセットされるのを待つあいだ、ジャンクラ一座が余興を演じた。巨大な肉切り包丁を使って曲芸しているまさにそのとき、一等船室のスピーカーから、襲いかかるアラブ人たちのすさまじい雄叫びが聞こえてきた。ジャンクラ一座はそんな叫びをこっけいな身ぶりでまねしてみせた。続いてハイデラバード・マインドが進み出て、前の日に誰かさんのなくしたブローチが、映写機のレンズの上にのっていると告げた。こうして、一等船室ではイギリス軍が容赦なく虐殺されるシーンを見ているとき、こちらの観客からは大喝采が湧きあがったのだ。

一等船室と甲板の二カ所で、時間差を設けて上映するというのが面白い。甲板のスクリーンは、いわば映画版のキャッツ・テーブルでしょう。でも、前回も触れたように面白いことは「何の権力もない場所」で起こるんです。「夜のピクニック」とあるように、甲板での野外上映は祝祭的な雰囲気に包まれている。映画のみを静かに鑑賞するのではなく、周囲の環境も含めた「出来事」としての映画体験。そこでは、時間差上映のせいで音声が入り混じることすら、愉快なギャグに変わるのです。
しかし、船に嵐が近づいたため、上映は途中で終了となってしまいます。そしてこのあと、嵐の中でマイケルとカシウスは命がけの経験をすることになる。少年ならではの無鉄砲さではあるんですが、危機一髪です。さらに何章かあとでは、ラマディンが途中の寄港地で見つけた犬を船内に連れ込んだために、事件が起こります。詳しくは書きませんが、泥棒男爵のエピソードも含め、罪や死といったものが少年たちをかすめていく。いきいきとした船旅に、うっすらと影が漂い始めます。
こうした一連の出来事によって混乱を抱えたマイケルは、たまたまオロンセイ号に乗船していた従姉のエミリーを尋ねます。彼女は、やさしくマイケルを慰める。

一瞬、眠ってしまったらしい。エミリーは僕から離れず、片手を反対の肩のうしろに伸ばしてコーヒーのカップを取った。すぐにごくりと飲む音が、彼女の首から僕の耳に伝わってきた。彼女のもう一方の手は、まだ僕の手を握っていた。これまで誰もしたことのない握り方で、たぶん本当には存在しない安心を与えようとしていた。

自分は無防備に世界にさらされている。おそらくマイケルは、そのことに気づいてしまったのでしょう。船の上でのきらめくような自由は、一方で誰からも庇護されず海の上へと放り出されている状態でもある。大人になるっていうのはそういうことかもしれないけど、そのことに足がすくむ。
もちろん、エミリーだってマイケルより年上とはいえまだ少女です。それでもマイケルを慰めようとしている。コーヒーを飲む「ごくり」という音が生々しいですね。空気ではなく体を伝って聞こえてくる音の、思いもよらぬ近さ。それは、スキンシップの近しさでもあります。「たぶん本当には存在しない安心」だとしても、エミリーはマイケルの手を握ることで、何とかそれを伝えようとしている。ああ、キュンとくるじゃないですか。
さて、船はスエズ運河までやってきました。夜、この運河を通り抜ける場面がまたいいんだ。何度も言うようですが、これまた夜と明かりとざわめきと、っていう僕のツボにどんぴしゃり。ありありと情景が浮かぶような描写が、とにかく素晴らしいんですよ。たっぷり引用しましょう。長いぞ。

それは眠らぬ夜だった。
三〇分もしないうちに、船はコンクリートの埠頭に沿ってじりじりと進んでいた。埠頭には木箱が積み上げられて巨大なピラミッドになり、男たちが電気ケーブルを抱えたりカートを押したりしながら、ゆっくりと動くオロンセイ号の横を走っていく。硫黄色の光がところどころに射す下で、緊迫した作業が手早く進められる。どなり声や口笛が響き、その合間に犬の吠える声が聞こえた。ラマディンは、アデンで乗せた自分の犬が岸に戻ろうとしているのだと考えた。僕たち三人は手すりから身を乗り出し、空気を思いきり吸って体内に取りこんだ。その夜は僕たちにとって、旅のもっとも鮮やかな記憶として残ることになる。僕の夢にはときどきあの光景がひょっこり現れるのだ。自分たちは何をしていたわけでもないが、絶間なく変わる世界が船の前を横切っていった。暗闇は変化に富み、暗示に満ちていた。見えないタグボートがいくつも橋台をこするように進む。何台ものクレーンが低く下げられ、通り過ぎざまに僕たちの誰かを釣り上げようと待ちかまえている。外海を二二ノットの速度で走ってきたが、今はノロノロ運転の自転車並みになり、まるで巻物を少しずつひらくようなスピードで、よろめくように進んでいく。
荷物がつぎつぎと前甲板に投げこまれる。ロープを手すりに結わえつけ、それを使って水夫が陸に飛びおりて、通行許可証に署名する。絵画が一枚、船から降ろされるのが見えた。横目でちらっと眺めたら、どうも見覚えがある。一等船室のラウンジにあったもののようだ。なぜ船から絵なんか持ち出すんだろう。目の前で繰り広げられていることがすべてちゃんと法に従っているのか、それとも狂気じみた犯罪なのか、僕にはわからなかった。動きを監視している役人はほんの数人だし、甲板の照明はすべて消され、何もかもがひっそりと進められているのだから。見えるのはブリッジの明るい窓だけ。そこでは相変わらず三つのシルエットが、まるで船を動かすあやつり人形みたいに、水先案内人の命令に従っている。水先案内人は何度か外の甲板に出てきて、闇に向かって口笛を吹き、陸にいる人物に指示を出した。それに応じて口笛が鳴ると、鎖が降ろされて水音が響き、船のへさきが急にがくんと動いて、方向が変わるのだった。ラマディンはまだ犬を探して、船の端から端まで走りまわっていた。カシウスと僕は、へさきの手すりに危なっかしく腰かけ、眼下にとぎれとぎれに広がる絵のような光景をこの目で見ようとした――屋台で食べ物を売る人、たき火のそばで語らう技師たち、ゴミを降ろす作業。あの人たちもこうした出来事もすべて、二度と見ることはないとわかっていた。そして僕たちは、ささやかだが大事なことを理解した。じかに関わらずに通りすぎていく、興味深い他人たちのおかげで、人生は豊かに広がっていくのだ。

荷物の積み降ろしをしながら、船は「まるで巻物を少しずつひらくようなスピードで、よろめくように進んでいく」。ゆううっくりとしたその動きには、夢幻性のようなものが宿っています。埠頭のところどころに明かりが灯され、そこでは人々が忙しく働いている。船から見下ろせば、照らされるいくつもの光景がゆるやかに移ろっていくように感じられたでしょう。なるほど、巻物ね。
船と埠頭との間の距離感も、また夢のようです。男たちの声や口笛、犬の鳴き声などのざわめきを、少年たちはどこか遠いものとして聞いている。目の前を通り過ぎていくざわめきの中にあるのは、「眠らぬ夜」に働く大人の世界です。でも、「自分たちは何をしていたわけでもないが」とあるように、その世界に入っていくには彼らはまだ幼すぎる。そんな遠さ。
最後の一文もいいですね。「じかに関わらずに通りすぎていく、興味深い他人たちのおかげで、人生は豊かに広がっていくのだ」。ここで挙げられている「興味深い他人たち」は、いずれも高い地位についているタイプの人々ではありません。でも、その夜、少年たちの記憶にしっかりと刻まれることになる。もう一度、あのフレーズを思い出しましょう。「面白いこと、有意義なことは、たいてい、何の権力もない場所でひっそりと起こるものなのだ」。
ところで、この作品は大人になったマイケルの回想として描かれていますが、このあたりから、大人になってからの彼の境遇が徐々に明らかになっていきます。ラマディンの妹のマッシと結婚したとかね。さらに、カシウスとラマディンのその後も語られます。果たして、彼らはどんな人生を送りどんな大人になったのか。

人は時として若いうちに、生まれもった本当の自分を見つけることがある。最初はささやかな芽生えにすぎないが、やがて大きく育っていく、そんなものに気づく場合だ。船上での僕のあだ名は?マイナ?だった。本名に近いけれど、宙に一歩を踏み出して、特別な何かを垣間見るような趣があった。鳥が地上を歩くとき、首をかすかに回すような感じだ。しかしそれは当てにならない鳥で、その声はよく響くわりに信用しきれない。当時の僕は、耳にしたことを何でもほかのふたりに伝える、グループの九官鳥(マイナ)だったのではないか。ラマディンがうっかりそう呼んだのだが、カシウスはそれが本名によく似ていると気づき、そのあだ名で呼びはじめた。
僕を?マイナ?と呼ぶのは、オロンセイ号で出会ったふたりの友だけだった。イギリスの学校に入ってからは、もっぱら名字だけで呼ばれた。だから、電話を取って?マイナ?と言われたなら、ふたりのどちらかに決まっている。

あたりを見回し信用ならないことをお喋りする九官鳥というのは、後に作家になるマイケルにふさわしいあだ名と言えるでしょう。あだ名が偶発的に生まれ定着する、その時その場に居合わせたものだけが共有できる親密さというものがあるのでしょう。非常に限られた一時期の、非常に限られた仲間。
「電話を取って?マイナ?と言われたなら」とありますが、実はマイケルはカシウスとは音信不通、しばらくは連絡を取り合っていたラマディンとも疎遠になっていきます。そういうものだといえばそういうものなんですが、人生とは止まることなく過ぎ去っていくものなんですよ。それこそ「巻物を少しずつひらくようなスピードで」。


ということで、今日はここ(P178)まで。第38章まできました。船旅はもう少し続きます。