『名もなき人たちのテーブル』マイケル・オンダーチェ【1】


名もなき人たちのテーブル
半分まで読んだあたりで忙しくて進まなくなっちゃってたんですが、これじゃああかんと思い、読んでる途中で書いてみることにしました。
今回は、装丁がきれいで思わず手に取ってしまったこれ。
『名もなき人たちのテーブル』マイケル・オンダーチェ
です。
オンダーチェはカナダの作家で、学生時代に『ビリー・ザ・キッド全仕事』という変わったタイトルの作品を読んだことがあります。これが、スタイリッシュでカッコよかったんですよ。そのあとに出た『バディ・ボールデンを覚えているか』も、カッコよかった。ところが、映画にもなった『イギリス人の患者』は普通の小説のようになっていて、軽くがっかりした記憶があります。普通の小説として読めばいいものを、「何か期待してたのと違うー」とテキトーに読み飛ばしちゃった。今読めばきっと楽しめると思うんですが、まあ、読書にもタイミングってものがあるんでしょうね。
ということで、僕にとっては4冊目のオンダーチェです。
まず、この書影を見てください。ターコイズブルーのセンターに客船と思しき船のシルエット。そそるでしょ。帯を見ると11歳の少年の3週間に渡る船旅を描いた小説だとか。うん、これはきっと面白いに違いない。
では、いきます。


まず序章がすっごくいい。最高の導入になっています。

その夜、彼は一一歳で、世間のことなど何も知らぬまま、人生で最初にして唯一の船に乗りこんだのだった。まるで海岸に新たに都市が作られ、どんな町や村よりも明るく照らされているような感じがした。足もとだけを見つめてたラップをのぼると――前方には何も存在しなかった――やがて暗い港と海が目の前に広がった。沖のほうにはほかの船の輪郭がいくつも浮かび、明かりを灯しはじめている。彼はひとりぽつんと立って、あたりの匂いを吸いこみ、それから人混みと喧噪のなかを抜けて、陸に面した側へ戻っていった。黄色い光が町をおおっている。自分と、あちらで起こっていることが、早くも壁にさえぎられた気がした。旅客係が食べ物とふるまい酒を配りはじめた。彼はサンドイッチを何切れかつまんでから、自分の船室に降りていき、服を脱いで、狭苦しい寝台にもぐりこんだ。これまでに毛布をかけて寝たのは、一度ヌワラ・エリヤ〔スリランカ中部の高原地帯にある町〕に行ったときだけだった。目が冴えきっている。船室は波よりも下に位置し、舷窓ひとつない。寝台の横にスイッチがあったので押してみると、頭と枕がいきなり円錐型の光に照らされた。

夜に浮かび上がる光が、何度も描写されます。僕は、夜に光が灯っている場面になぜか惹かれてしまうところがあるんですが、この場面もいいですね。まず客船のまばゆい明かりがあり、沖にはポツポツと他の船の明かりがある。陸地側にはぼんやりと町を覆う明かりがあり、船室で寝台にもぐれば枕元の照明の明かりがある。引用部の前には、屋台の電球や硫黄ランタンの光も描写されています。
「海岸に新たに都市が作られ」、というのもいいですね。客船の明かりやざわめきは、ちょっとしたお祭りみたいなものなんでしょう。ともあれ、今まさに港から船が出ていこうとしている。人々が行き交い、いくつもの声が飛び交う。でも、「彼」はそこから隔てられている。これまで暮らしてきた土地を離れ、たったひとりで船に乗り込むことになったのです。そのときの気持ちはいかばかりであったか。作者は、それを明かそうとはしません。「今になってもわからないのだが、なぜ彼はそんな孤独を選んだのだろう」。そして、船は暗い闇の中へと出ていくのです。
序章は三人称で書かれていますが、そのあとは11歳の主人公の一人称となります。オロンセイ号という客船に乗り、スリランカからイギリスに住んでいる母親の元まで旅をする。彼が他の人々と食事をとるのは、船長のテーブルから一番離れたテーブルです。いわゆる下座ですが、これを英語では「キャッツ・テーブル」と言うとか。「もっとも優遇されない立場」という意味で、この作品の原題『The Cat’s Table』もここから取られています。なるほど、『名もなき人たちのテーブル』か。いい邦題ですね。
このテーブルには大人たちの他に、語り手の「僕」と同世代の少年が二人同席していました。心臓が悪く物静かなラマディンと反抗的で活発なカシウス。彼ら3人は友情を深め、この船で様々な経験をします。見聞きするものすべてが新しい。あれもこれも、いろんなことをしたくてたまらない11歳。

けれど、オロンセイ号では、あらゆる秩序から逃れるチャンスがあった。そして僕は、まるで架空の世界のようなこの船上で、新たに生まれ変わった。ここには船の解体業者もいれば、仕立て屋もいる。夜な夜なパーティで、ばかでかい動物のお面をかぶって千鳥足でうろつくおとなたちや、スカートを派手にひるがえして踊る女性たち。ステージではマザッパさんの参加する船上オーケストラが、おそろいのプラム色の衣装をきて音楽を奏でていた。

会いたい友だちがいる少年にとって、睡眠は牢獄だ。僕たちはじりじりと夜を過ごし、朝焼けが船を包むまえに起き出した。世界をもっと探検したくて待ちきれなかった。寝台に横になっていると、ラマディンがそっとドアをたたいて合図を送ってくる。実は合図なんて意味がない――こんな時間にほかの誰が来るだろう。

上等から下等船室への境界を越えて戻ってくるのは、まだ八時にもならないうちだ。僕たちは船の揺れに合わせてよろめくふりをした。今や僕は、この船が左右にゆったりと揺れて踊るワルツが大好きになっていた。それに、遠い存在のフラビア・プリンスと、エミリーを別にすれば、自分がひとりだということ自体が冒険だった。家族への責任もない。どこにでも行けるし、何だってできる。そしてラマディンとカシウスと僕は、すでにある取り決めをしていた。毎日一つ以上、禁じられていることをすべし。今日という日はようやく始まったばかり。僕たちがこの任務を果たすための時間は、まだいくらでもある。

いいですねえ。「あらゆる秩序から逃れるチャンスがあった」「会いたい友だちがいる少年にとって、睡眠は牢獄だ」「毎日一つ以上、禁じられていることをすべし」。もう、冒険心でううずうずしているわけです。この作品は、そうした船旅の日々を短い章を積み重ねて描いていきます。その一つひとつのエピソードが、どれもみずみずしくとっても魅力的。このあたりは、良質の児童文学を思わせます。
例えば、彼らは夜中に鎖につながれて散歩する囚人を目撃します。これほど、少年たちの想像をかきたてるものがあるでしょうか。『トム・ソーヤの冒険』のインジャン・ジョーのエピソードを思い出させます。また、朝方にはオーストラリア人の少女がローラースケートで甲板をぐるぐると疾走していることを知る。これまた、こっそり目撃している少年たちのハートを掴むのに十分すぎる光景です。
キャッツ・テーブルで食事をとるのは、3人の少年の他に、ジャズ・ピアニストのマザッパさん、船の解体業をやっていたネヴィルさん、植物学者のダニエルズさん、言葉を発さない仕立て屋のグネセケラさん、中年女性ミス・ラケスティの面々。さらにこの船には、主人公の「僕」の従姉のエミリーや、彼のお目付け役としてフラビア・プリンスというおばさんも乗船しています。また、「僕」の船室は船の犬舎を任されているヘイスティさんと相部屋となっている。つまりこの船旅は、少年がこれまで出会ったことがないような大人たちと触れ合う旅でもあるわけです。
非常に印象深いのは、語り手の「僕」と同郷のフォンセカさんという人物。文学に精通していて、イギリスで教師になろうとしている。彼は、燃やして使う麻縄やコリアンダー、川の水など故郷スリランカを思い出させる品々をスーツケースに入れて持ち込んでいるとか。知的で控えめなフォンセカさんの船室を、「僕」は度々訪れるようになります。

彼はその後、どうなったのだろう。数年ごとに思い出しては、図書館でフォンセカという名を探してみる。ラマディンがイギリスでしばらく彼と連絡を取りあっていたことは知っている。でも、僕はそうしなかった。困難なとき、フォンセカさんのような人こそが、一途な騎士のように駆けつけつけてくれることも、僕たちが今やまったく同じ道を歩んでいることも、よくわかっていたけれど。そして何かにつけて同じように、詩ではなく教訓を、容赦なく頭にたたきこまなければならなかったはずだということも。僕と同じく、ルイシャム区で安くておいしいインド料理屋を見つけたりもしただろう。セイロン、のちにはスリランカと、青い航空書簡のやりとりもしただろう。vの発音や焦り気味の話しかたのせいで、冷たくされ、侮辱され、気まずい思いもしただろう。そして何より、社会に入っていく難しさを痛感しただろう。それでもやがては船室めいたどこかのアパートに、質素だが落ち着ける場所を見つけたかもしれない。

この作品は、「僕」が少年時代の船での旅を回想しているというスタイルで書かれています。そして、ところどころに現在の話が出てくる。「僕たちが今やまったく同じ道を歩んでいる」というのは、彼が作家になったという意味でしょう。ちなみに、フォンセカさんに主人公が名乗る場面が出てくるので、語り手の名前が「マイケル」ということが判明します。この小説の作者と同じ名前ですね。
マイケルは、異邦人としてイギリスで暮らすということの数々の苦さとささやかな喜びに、フォンセカさんとのかすかな絆を感じている。詩を愛していながら、それよりもまず「教訓」を身につけなければならないというところが切ないです。まず、生きていくこと。生きて暮らしていくこと。その中で、少しずつ自分の居場所を見つけていくこと。
一方で、悪い大人もいるというのが世の常です。このオロンセイ号には、マイケルに泥棒の手伝いをさせるC男爵という人物も乗っています。マイケルは、ちょっとしたスリルとある種の誇らしさでもって、それを遂行する。でも、このエピソードは、これまでの少年らしい冒険譚にうっすらとした影を落とします。彼は、それと気づかず世界の危うさに素裸で触れていたんですよ。大人になって振り返ってみて、初めてその意味がわかるようなやり方で。
キャッツ・テーブルの人々についても、徐々にいろんなことがわかってきます。マザッパさんは、様々な歌や作り話を聞かせてくれます。両親が聞かせてくれないようなどぎつい話もあったりして。ダニエルズさんは、船倉に植物園を作りイギリスに運ぼうとしています。育成ランプに照らされた人工の庭。ミス・ラケスティは、30羽の鳩を船のどこかに乗せて運んでいるらしい。

オロンセイ号におけるうちのテーブルの位置づけは相変わらず最低で、一方、船長のテーブルの連中は、いつも互いにちやほやしあっていた。それは僕がこの旅で学んだ、ちょっとした教訓だった。面白いこと、有意義なことは、たいてい、何の権力もない場所でひっそりと起こるものなのだ。陳腐なお世辞で結びついた主賓席では、永遠の価値を持つようなことはたいして起こらない。すでに力を持つ人々は、自分でつくったお決まりのわだちに沿って歩みつづけるだけなのだ。

これは、沁みるなあ。少年時代に社会のヒエラルキーを肌で感じたマイケルは、権力を持たないことの素晴らしさを学んだのでしょう。彼にとって「永遠の価値」を持っているのは、キャッツ・テーブルでの日々のほうなのです。


ということで、今日はここ(P95)まで。これで21章までで、全体の1/3くらいかな。実はもうちょい先まで読み進めているんですが、長くなってしまったので一休み。またのちほど、出港します。