『名もなき人たちのテーブル』マイケル・オンダーチェ【3】


読み終えてしまいました。第43章以降、急激にミステリー的な展開を見せはじめ、その興味に引っ張られてぐいぐいぐいと。とは言うものの、謎が解決してめでたしめでたしというわけではなく、人生って何だろうというような深い余韻が残ります。


でもその前に、前回の続きから。
船はポートサイドの町に立ち寄り、そこでキャッツ・テーブルのメンバーの一人、自由で陽気なピアニストのマザッパさんが下船してしまいます。彼の中で何があったのかはわかりませんが、去ってしまった。マイケルら少年たちは、いかがわしい話すら目配せするように教えてくれる彼のことが大好きでした。だから、すっかりしょげかえってしまう。

僕は、ミス・ラスケティがマザッパさんの下船で打ちひしがれ、青ざめた顔をしてテーブルに現れるものとばかり思っていた。ところが、旅が続くうちに、彼女は仲間うちでいちばん不思議で、驚くべき存在になっていく。彼女の発言には茶目っ気たっぷりのユーモアが感じられた。僕たちのそばに来て、マザッパさんがいなくなったことを慰めてくれ、自分も寂しいと言った。その「も」という言葉が宝物に思えた。

こういう大人がそばにいることで、彼らはどれだけ救われたことでしょうか。これが、キャッツ・テーブルの素晴らしいところです。「自分も寂しい」というこの「も」だけで、ミス・ラスケティがマイケルたちの寂しさを理解し、彼らを仲間として扱っていることが伝わってきます。こうしたセリフは、「お前たちはどのくらいバカなのか?」という強権的な態度で接してくる船長の口からは、決して出てこないものでしょう。
これ以降、ミス・ラスケティがいかに魅力的な人物かが、徐々に明らかになっていきます。「最近やっとわかったのだが、マザッパさんとミス・ラスケティは、当時ずいぶん若かった。(中略)ふたりとも三十代だったに違いない」。幼い頃は、30代がえらく大人に思えるものです。でも、それを回想しているマイケルは、彼らの年をすでに追い越してしまったのでしょう。だからこそ、彼らが自分のことをどのように扱ってくれていたのかが改めて理解できる。
ミス・ラスケティは、マイケルのことをあれこれ気にかけてくれます。

僕はどこにいてもこんなふうだった。ミス・ラスケティに言われたからだ。「耳と目をしっかり開けておかなきゃだめよ。世の中、何でも勉強なんだから」と。そして、セント・トーマス・カレッジの古い試験問題集を、耳にしたあれこれで埋めつづけた。

実はこの作品には、この「試験問題集」からの抜粋が3カ所に挿入されています。これ、マイケルがノートに書き込んだ「小耳にはさんだ会話メモ」なんですが、あとから振り返ってみるとあのときのことを言ってたいたのかってなセリフがあったりして、非常に興味深い。「本当だよ――ストリキニーネは、噛みさえしなきゃ、飲んでも大丈夫なんだ」、こんなセリフがどんな場面で話されたんだろうと想像してみるのは楽しいですね。
マイケルは当時の自分を振り返り、「耳にしたことを何でもほかのふたりに伝える、グループの九官鳥(マイナ)」と語っていました。小耳に挟んだセリフから、あれこれ想像するのが好きな少年だったのでしょう。ミス・ラスケティのアドバイスは、この世間知らずの少年を案じていると同時に、後に作家になるマイケルにも向けたメッセージのようにも思えてきます。
ということで、マザッパさんを失ってキャッツ・テーブルの面々はすっかり気落ちしてしまいました。そこで、彼らを慰めようと、植物学者のダニエルズさんは食事会を企画します。ダニエルズさんは、自身が船倉に作っている植物園にメンバーを招待する。船の底にある庭! なんて魅力的なイメージ! まるで、ウェス・アンダーソンの映画に出てきそうな、閉鎖空間の中の小宇宙です。

ダニエルズさんに導かれて角を曲がると、目の前に彼の庭が広がり、そして料理がいっぱいに並ぶテーブルがあった。ぶつぶつ言っていた声がぴたっと止まった。どこかで音楽が鳴っている。またしてもミス・クィン・カーディフの蓄音機の出番で、今回は戦争の別の部門で働く荷役のところから拝借してきたのだった。エミリーはレコードの山から、いろいろなSP盤を選びだした。マザッパさんが残していってくれたものもあるそうだ。

オロンセイ号での食事をすべて振り返ったとき、真っ先に思い浮かぶのは、正式な食堂で、船長からはるかに遠い、もっとも恵まれない席で食べたときのことではない。船の奥深く、長方形に照らされた場所での食事だ。タマリンドのジュースが配られたが、おそらく一フィンガー分のアルコールが入っていたに違いない。僕たちのホストがとっておきのたばこをくゆらせると、かがみこんで足首の丈の植物を観察していたミス・ラスケティが、顔を上げて空気の匂いをかいだ。

それから僕たちは、新たな〈キャッツ・テーブル〉で食事を囲んだ。頭上に吊るされた明かりが揺れていた――なぜかその夜は船倉にそよ風が吹いていた。それとも、海のうねりのせいだったのか。僕たちの背後には、ミドリサンゴの葉が暗く茂り、黒ヒョウタンノキが一本生えていた。テーブルには水のボウルが置かれ、花が浮かべてあった。

誰ひとり、せかせかすることのない食事会だった。前に乗りだして光に当たらなければ、みんな影におおわれ、姿も見えなかった。それぞれが夢うつつのように、ゆっくりと動いた。蓄音機のぜんまいが再び巻かれ、インドネシアのライムが回された。
「マザッパさんに」ダニエルズさんがそっと言った。
「サニー・メドウズに」みんなも応じた。

「サニー・メドウズ」とは、マザッパさんの芸名です。レコードの山にも、マザッパさんの名残がある。わずか数週間の船旅で一緒になっただけの相手だけど、みんな穏やかに彼のことを懐かしんでいる。なぜなら、キャッツ・テーブルの仲間だからです。他のテーブルでは、こうはいかないでしょう。
「誰ひとり、せかせかすることのない食事会だった」というのがいいですね。世の中の時間から切り離されているような感覚。船長の席との距離で決まる序列から離れた場所にある、シェルターのような空間。そこでは音楽が流れ、タバコの煙が漂い、ボウルの水がきらめき、時折植物に噴射される霧が体を濡らす。
またしても、僕のツボである、暗がりの中の明かりの描写が印象に残ります。暗い船倉を抜けたところにある、明かりに照らされた空間。頭上の明かりは裸電球みたいなものでしょうか。船の揺れに合わせて、ゆらめいています。それが、キャッツ・テーブルの面々を包み込む、やさしい明かりとやさしい影を生み出しているのです。
この席で、エミリーが連れてきた耳の不自由な少女アスンタが、驚くべき事実を発表します。ここから物語は急速にミステリー的な様相を呈し始める。もちろん、少年たちにその全貌がわかるわけではありません。ただ、それがずーっと引っかかっていたマイケルは、当時のことを回想しながらそこで起きたことを物語として紡いでいく。
大人になった彼の元にどんな手紙が届いたか、誰と話をして誰とは話ができなかったか。そしてそこから、どんな事実が明らかになるのか。それは、これから読む人のお楽しみとして取っておきましょう。ふいに映画監督のダルデンヌ兄弟の名前が出てきて、その辺にも「現在」の空気を感じたりするんですが、それもとりあえず置いておきましょう。ただ当時の船での出来事は、少年たちに、そして従姉のエミリーにも決定的な影響を与えてしまう。例えば、やんちゃで反抗的な友人カシウスにも。

おそらくカシウスは、あの晩、船の上で、子ども時代の残りを失ってしまったのではないか。彼がいつまでもあの場にたたずんでいたことを思いだす。もう僕たちのそばには来ようとせず、紺色に輝く海をじっと見つめていた。

このあと、語り手である大人のマイケルはこう続けます。「カシウスが本を読むのか、それとも読書なんて軽蔑しているのか、見当もつかない。とにかく、この文章は彼のために書くのだ。若き日の、もうひとりの友のために」。これには胸を打たれます。彼はこの小説を、当時船旅を共にした音信不通の友人への手紙だと言うんですよ。また、「ラマディンの穏やかな優しさに学んでいなかったら、今になってカシウスに近づこうとは考えなかっただろう」とも。
わずか3週間の友情を、再び呼び覚まそうとするマイケルの言葉には、僕らはずいぶんと遠くへきてしまったね、というしみじみとした感慨が漂っています。これは、わかるなあ。僕もいい歳ですからね。子供の頃の友人に会うことができたら、何ともいえない感慨を抱くことでしょう。当時と今が二重写しになったような、不思議な感覚を覚えるんじゃないかな。その二重写しのわずかなズレに、何十年もの時間が折り畳まれている。
最終章は、船が目的地であるイギリスの港に到着する場面です。そこで、マイケルはラマディンやカシウスとも、エミリーとも、キャッツ・テーブルの人々とも離ればなれになってしまう。陸地から切り離されていた世界は、またこちら側の時間に沿って慌ただしく動き始める。終わりがくるということのどうしようもなさ。時が流れるということのどうしようもなさ。船旅の終わりはまた、少年期の終わりでもあったのです。


もっと船の旅を続けていたかったけど、小説の終わりもまたやってきます。『名もなき人たちのテーブル』読了です。