『名もなき人たちのテーブル』マイケル・オンダーチェ【4】


小学生くらいの頃かな、「子供会」のキャンプ的なものに何度か参加したことがあります。親と離れて、数名の引率の大人と十数人の子供たちが一週間程度キャンプをする。親が勝手に予約してくるんですが、人見知りな子供だった僕はこれがイヤだったんですよ。知らない子たちの間に入っていくのが不安だし、親から一週間も離れて暮らすのも不安だし、一緒に参加した弟がせめてもの救いといった気分。ところが、子供ってのはたくましいもんで、すぐに慣れちゃうんですね。友達もできて、親の前では決して口にしないような「悪い言葉づかい」で冗談をキャッキャと言い合ったりして。こうなると、一週間なんてあっという間で、最後には「まだ帰りたくなーい」となる。
マイケル・オンダーチェの『名もなき人たちのテーブル』を読んでいて、何十年かぶりにそんなことを思い出してしまいました。いや、当時のことなんてほとんど覚えていないんですが、それでも不安だった気持ちがいつの間に嘘みたいに消えてしまったことは覚えてる。おそらく、マイケルの旅もそんな感じだったのでしょう。最初は恐る恐るだったのに、あっという間に嵐の中で危険な度胸試しをするまでになる。どうしてそんなことが可能だったかといえば、僕の場合と同様で、友達ができたからです。
いつもより駆け足で書いちゃったのであまり触れられなかったんですが、マイケルと共に行動していたふたりの友人、ラマディンとカシウスの存在は、この小説の中で非常に大きな位置を占めています。ラマディンは病弱で、思慮深く心優しい少年です。体の弱さを抱えているおかげでしょうか、自分をいたわるように他人をいたわることができる。カシウスはマイケルたちより1歳年上で、学校では有名な問題児でした。教師をからかい突拍子もないいたずらを仕掛ける、根っからの「反体制」。しかしその敵はあくまで権力を持つ者であって、、決して大人しいラマディンをバカにするようなことはしません。まるで正反対のこの二人と、「マイナ」ことマイケルは船で行動を共にします。
マイケルとは、作者マイケル・オンダーチェと同じ名前ですが、著者は本書の最後にこう記しています。「ときに回想録や自伝を思わせる体裁と背景を用いているが、船長や乗組員、乗船客から語り手に至るまで、すべて架空である」。まあ、「作者=小説における語り手」じゃないなんてことは当たり前なので、そんなに力んで強調しなくてもという気はしますが、確かにオンダーチェ自身の境遇と重なる部分は多いことも事実。ともあれ、この作品の「作家による回想記」というのはポイントでしょう。回想という形式が、この小説に独特の立体感を与えているんですよ。
少年時代のマイケルは船で見聞きし体験したことの意味を、はっきりとは把握していません。ただ「耳と目をしっかり開けて」おいただけです。その様々な体験の意味は、大人になった彼が回想することで立ち現れてくる。例えば、マザッパさんが聞かせてくれた軽口やミス・ラスケティの忠告の意味が、あとからわかってくるように。後半、船で起きた事件の謎が現在と過去のパートを行き来するによって明らかになっていくというのも、その一つですね。
その渦中にいるときはそれと意識できず、あとから振り返ってわかることといえば、「少年期の終わり」もそうでしょう。「あのときに子供時代が終わったんだなと」とわかるのは、その時が過ぎ去ってしばらく経ってからです。子供が大人になるほどの時が流れたということを思うとき、湧きあがってくるあの感慨は何なんでしょうか。それは自分のことに限りません。子供の頃しか知らない相手の大人になった姿を見ると、わけもわからずしみじみしてしまいます。大人になったラマディンやカシウスについて書かれている箇所を読むと、そうした感慨がひたひたと迫ってきます。
マイケルは気づいたのでしょう。あのとき三人の少年は、共に少年期の終わりを迎えたのだと。そして、彼らの行動にはあの船の上での数週間が大きな影響を与えていると。そして、回想することで、再度そこで育んだ友情の意味を見つける。

僕たち三人が三人とも、自分より危なっかしく見える誰かを守りたがったのは、いったいどういうことなんだろう。

少年たちは、それぞれがそれぞれのやり方で、キャッツ・テーブルで学んでいたのです。あの「何の権力もない場所」で。子供のうちから社会の階層をまざまざと見せつけられ、それでもそんなものをものともせずに遊び回ってた彼らもまた、キャッツ・テーブルの一員だったのです。
あのあと僕らは、どんな人生を送ってきたのだろう。ああ、もう一度君と話をしてみたいよ。それは単なる郷愁や悔恨とも違う、山田太一が「生きるかなしみ」と表現するようなものかもしれません。時が、人生が過ぎていくということにまつわる「どうしようもさ」。
目をつぶると、夜の港から出る船の明かりが浮かんできます。


ということで、『名もなき人たちのテーブル』については、これでおしまいです。