『増補 夢の遠近法 初期作品選』山尾悠子【1】


増補 夢の遠近法: 初期作品選 (ちくま文庫)
もう2015年ですか。去年は忙しくてあんまり書けなかったなあ。毎年思うんですが、今年はいっぱい読んでいっぱい書きたいなと。
ということで、今回は助走のつもりで、これ。
『増補 夢の遠近法 初期作品選』山尾悠子
です。
1年と少し前、憑かれたように読み耽った山尾悠子の『夢の遠近法』が、つい最近、文庫になったんですよ。しかも、増補版として「パラス・アテネ」と「遠近法・補遺」の2編を追加収録。山尾悠子自身による巻末の「自作解説」も、新たに2編分書き下ろされています。なので、この増補分を読んで、僕が以前書いた『夢の遠近法』の感想に追加しておこうかなと。実はもう読み終えちゃってるので、「読んでる途中で書いてみる」というわけにはいきませんが、まあそれはそれ。
わずか2編ですが、そこは山尾悠子、濃いです。


パラス・アテネ
収録作の中で最も長い、中編サイズの作品。プロローグに当たる冒頭の場面から、もう持っていかれます。

月が西の空に仄白くなりつつある時刻、長い旅の途上にあったその隊商は、まだ夜の残る森の奥で大虐殺のあとに行き当たった。野面(のづら)には血に飽いた豺狼の群がわくわくと背を波うたせて駆け去っていくのが遠望され、振り返れば、辺境の野の果てには落日に似たすさまじい朝焼けがあった。不眠の要塞都市のあげ続ける狼煙(のろし)が地平に薄くたなびいて、その時森の奥処(おくが)に立ちすくむ人間たちの眼には、それはこの世の果ての遠い朝火事かと映ったのだ。
小暗い森の底を縫ってうねうねと続く道沿いに、屍体の群はほぼ一町に渡って散乱し、その数は百数十まで数えられた。荷を略奪された跡があり、また屍には矢傷と獣の爪跡との両方がある。おおよそは、遠い内乱を避けてこの地の都市へと逃げこもうとしていた難民の一行が、昨日辺境に多く出没する野党の類に襲われて全滅し、その後夜のうちに群狼に踏みにじられたものと思われた。――ほとんど日の斑(ふ)も漏れこまない葉ごもりの影へと、人々は松明の焔を走らせながら蹌踉と歩いた。

なんだか血なまぐさい書き出し。「豺狼」という言葉は、初めて見ましたが調べてみたら「やまいぬとおおかみ」のことだそうです。実はこの作品、最初の数ページ読んだだけで、何度も「狼」の文字が出てくることに気づきます。「豺狼」「群狼」が出てくる他に、「狼煙(のろし)」なんて文字にまで狼が入っている。このあとも、直接的には狼を表さない「狼瘡」「狼狽」といった語も見られます。もうもう狼憑きですよ。よろめくことを表す「蹌踉」という単語まで、狼の仲間に思えてきてしまいます。
このあと、森の虐殺現場にひとり無傷で助かった幼児が発見されます。この幼児を、隊商は「土地神」と崇め旅の守り神として連れていくことにします。そういうことになってるらしいんですよ、いつの時代のどこなのかよくわからないこの世界では。この幼児は、発見された地の名前をとって「豺王(さいおう)」と名付けられます。ここで僕はまた、さっきの「豺狼(さいろう)」という言葉を思い出してしまう。わずか一音違い。「王(おう)」と「狼(ろう)」が重なり合い、「狼(おおかみ)」の中に「王(おう)」も「神(かみ)」も含まれている。やまいぬの王を表す「豺王」は、王であり神であるからして狼じゃないかとか、あれこれ考えてしまったり。
この冒頭の場面は4ページほど続きます。その最後の部分がこれ。

狼除けの鋳物の鐘が鳴り、人間たちの足は再び動き始めた。遠音に吠えかわす豺狼の声を耳に、森を抜け平原を行く隊商の先頭で、幼児はひとり仄かに微笑していた。この微笑は、人間たちの眼にはとまらなかったし、その意味を知る者も一人もいなかったに違いない。幼児の姿は、生まれおちて以来この輿の上に暮らしてきた者のように見えた。幼児自身、何故自分の顔に微笑が宿って消えないのか知らなかった。理由のない笑みのためにますます細められた幼児の眼は、ただ行く手の野の果てに湧く雲だけを鏡のように映していたのだったが、しかしこの時、背後の森の真上に残った半欠けの白い月球が、半眼の狼神の片目のように地表を行く人間たちの背をはるかに見送っていたのだ。
それから、十年たつ。

シビレます。「狼除け」「狼神」と、ここでも狼づくし。狼の群れが行をまたぎ、ページを駆け抜けていくかのようです。さらに、幼児の細い眼が半月に重なり、狼神の目となって幼児たちの隊商を見つめる。この眼のイメージの連鎖にうっとり。これですよ、これが山尾悠子の修辞です。「人間たち」という奇妙に距離のある言い方も気になりますね。まるで、狼の目から見ているかのようです。この人間たちの群から、豺王と呼ばれる「幼児」だけがくっきりと区別されている。豺王は人間よりも狼に近い存在だからでしょうか。
そして、最後の一文。「それから、十年たつ」。「たった」じゃなくて「たつ」ね。この切れ味。「たった」なら、起きたことを記述しているだけですが、「たつ」の場合はそう書いたことでそれが起こるという感覚があります。そして、3行ほどあけて次の場面へ。このわずか3行の空白で、十年の月日が流れたのかと思うと、クラっとします。小説というものの、マジカルな力に触れたような気分。
ここまでが、プロローグ。これ以降、土地神である豺王の数奇な運命が語られていきます。豺王を守り神とした旅の一行は都を訪れ、「夏の離宮」と呼ばれる場所で待たされます。

足留めの不安な一日が不安なままに暮れるまで、人々はその不安の源を確かめようとするかのように、顔を合わせると額を翳らせて不穏な噂ばかりを囁きあっていた。十数年来燻(くすぶ)りつづけている内乱の噂、大陸を大きく横切ってこの山間の小王国いも侵入し始めているという天刑病の噂、冬に入ってからますます頻発するようになっている狼の害について。その名のとおり元々は夏の避暑用に前世紀の始め建てられたという夏の離宮では、いくら炉の薪をかきたてても、絶えず隙間風が忍び入ってくる。その中で、人々は昔ここに幽閉されていたはるか先代の狂王の伝説を囁きあい、さらに声を低めて二位について語りあっていた。

「夏の離宮」という魅力的な名前の場所が、寒々とした幽閉場所となるというのがいいですね。それにしても、この情報量の多さ! 噂として語られる、内乱、天刑病、狼、さらに狂王の末裔である「二位」について。これらは、すべてこのあとの展開に関係してきます。
二位とはこの地の領王の三人の子供のうちの一人。他に、「一位」と「三位」がいるわけですが、世継ぎが誰になるかという問題を孕んでいます。二位は機を織る才能の持ち主で、狂人として扱われこの夏の離宮に追いやられているらしい。このあたりから、登場人物がどんどん増えてきてややこしくなっていきます。異人宮という場所には、狼領から送られてきた「正一位」と「従一位」という男女の双子が幽閉されています。「○位」だらけで混乱しそうになるのを整理しながら読んでいくと、まさに機を織るように、様々な物語の糸が絡み合っていく。
そして物語は、領王が催す年越祭の宴へ。「のちに夥しい人死にが出ることとなったこの年越祭の狂気じみた夜、豺王は一位に命じられて玉座の間に伺候した」という一文から、この場面は高いテンションでもって語られていきます。

夕方から吹雪が始まり、日没より早く都には夜が降りていた。日中、吹きすさぶ強風の絶え間には王宮の外から遠く切れぎれに祭儀の鐘の音が聞かれたが、吹雪になった頃からそれも途絶えた。ただ、高い窓から遠く見渡すと、四つ辻ごとに年送りの篝(かがり)火が高く火の粉を飛ばすのが見え、今夜全都が一夜を徹して眼ざめているだろうことが窺われた。何度かは、その火の粉が飛んだのか屋根屋根の稜線の一劃から小さく火の手が上がるのが見え、強風の中にたちまち燃えひろがって半鐘が長く尾を曵いた。

「年越祭」というのがいいですね。雪に包まれた都の人々は、眠らずにそのときを待っているんですよ。そして、火。プロローグの火事のような朝焼けに始まり、松明、炉、灯明などなど、火のイメージがあちこちに出てくるんですが、この場面の屋根を走る火の手も鮮烈です。雪の白さの中に、火の赤が燃え上がる。白と赤の対比は、この作品のテーマにも深く関わっています。

――狼領の血筋につらなる者は、多くは成年に達する年齢で繭籠もるものです。たいていは、春に。短くて三日、長ければ数年かかって繭から新生して現われる……しかし、これほど定まった法則を持たない現象というものはこの世にまたとありますまい。

繭を作り新生する一族。これまた、この作品のキーとなる設定です。新生して姿が変わる者もいれば、変わらない者もいるとか。ともあれ、繭が紡ぐ白い糸はこの作品に「白」を呼び込み、機織りの糸のイメージと呼応しながら、徐々にこの冬の場面を覆っていきます。
さらに、この繭籠もりには「月と狼神と繭が赤くなる時、すなわち創世記の神々が地上から滅びて千年ののちにこの世に現われる破壊神の伝説」というものがあるんですよ。「この神は天から降りるのではなく、地上に人として生まれてのち、赤い繭の中から四つ脚の姿となって出現する」んだそうです。白い繭と赤い繭。白い月と赤い月。雪の都を染める火と血の赤。
と、ここまでで物語の半分。厳しい冬から、場面は春へと移ります。またしても森から始まり、豺王はさらわれたとされる二位を探して、この世を統べる千年帝国の都へと入ります。この帝都では、もうすぐ行なわれる千年祭典で賑わっている。この森→都→祭という流れが、冬の場面ときれいに対比しているところがポイントです。こういう「形式」への指向が山尾悠子だなあと思ったり。

港を望む丘陵からは、夜の海峡を絶えず押し渡っていく船群の、おびただしい檣頭の燈が見渡された。その遠い海面に満ちているであろう帆柱の軋り音(ね)や櫂漕ぐ男たちの叫喚、蓋を打ち割られてゆたかに滾(たぎ)り溢れる酒の繁吹、船腹を打つ潮の音を、丘の上に立つ者たちは幻のように聞いたと思った。海峡の両岸に谺する砕ける波の咆哮のなか、やがて帆に海風を孕んで、船団は大洋をめぐる古代潮流に乗って次々に行き過ぎてゆく。そして季節風の渡る丘を下って、燈火と雑踏の影に満ちた街衢(がいく)に降りたった者たちは、そこにも数知れぬ潮流の幻を見たのだった。四つ辻ごとに足を止めて道の両端を埋める群衆の中、高い輿に乗って煌々(きらぎら)しい帽子の先端や旗先ばかり覗かせてゆったりと過ぎ行く貴人の行列は、暗い潮を渡っていく帆柱の列に似たのだ。数限りなく街に立てられた松明や篝(かがり)の焔は、人の面ばかりを烈々と照らして、その背後には奥の知れない闇を曵く。時にわけもなく入り乱れて、口々に叫びかわしながら街の一端から一端へと駈けすぎていく群衆の頭上に、月は赤く染まってはるかに海峡を照らしていた。

千年祭典の前夜の場面です。この濃密な描写に、ただただうっとり。音と火が交錯する様は、年越祭の導入とよく似ています。ただし、冬の厳しさはここにはありません。何かに憑かれたように浮き足立つ春の喧噪が、この祭を支配しています。海上が陸上が重なり、船と群衆がひしめき合う。そして、頭上へと視線を送れば千年紀を迎え赤い月が上っている。冬の場面が「白」に覆われているとすると、春の場面はもちろん「赤」です。そして冬を引き継ぐように、狼は跋扈し、機織りの音が響き渡ります。
ここから先は、読んでのお楽しみ。二位を追いかける豺王と千年祭典のきらびやかな描写が、猛々しいまでのテンションでカットバックのように描かれていきます。赤い月は赤い繭から破壊神が生まれる証。果たして破壊神とは何者なのか? 千年祭典の花火が上がります。


ということで、「パラス・アテネ」についてはこれでおしまい。著者の解説によると、これは『破壊王』という連作の一作目として構想されたものだとか。続く作品は「火焔圖」「夜半楽」「繭」だそうだ。これらもいずれ読んでみようと思ってます。
長くなっちゃったので、「遠近法・補遺」についてはまた次回。