『空気の名前』アルベルト・ルイ=サンチェス【4】


つづきいきます。


「VIII にせものの夕焼け」の章。

月に一度、真昼に、赤紫色の薄いもやがモガドールの大気を満たした。屋上から見ると、白い壁が不思議な赤い輝きを放っているようだった。町の人々は皆、「にせものの夕焼け」と呼んでいた。十五分以上つづくことはなく、やってきたときと同じようにゆっくりと、砂に描かれた海の鼓動のあとを追って脈打ちながら消えていった。町に入ると、町のあらゆるものと同じ静かな空気を吸いながら、それらのものに触れるか触れないうちにすべてを染めあげた。そのため、恋する男が時間をかけて、確実な手練手管で女をくどき落とすとき、町の人々はその男を「にせものの夕焼け」、「紫色の雲」、「風のなかで薄まっていく血の波」と評してほめたたえるのだった。
赤い雲が家のなかに入ってくると、女たちははっとした。ドアを開けたとき、背中に気配を感じて慌てて振り返ったとき、手のひらを差しだすとその上をすでにもやが這っているとき、自分の唇が腫れぼったくなったように思い、鏡に映すといつもより赤くなっていて、それは明らかに雲のせいであるとき。雲に噛まれたように。

おお、これまた魅力的なイメージ。この赤いもやの正体はよくわかりませんが、砂かなあ? 何にせよ、モガドールではこうした様々な現象がすべて風に関わっている。そして、風は欲望に火をつけるんです。赤い雲に触れた女たちの反応がそれを物語っています。背中に気配を伝え、手のひらを這い、唇を染める。「雲に噛まれたように」という比喩のエロティックなほのめかし。
ファトマもその日、ハンマームの中にある庭でこの「にせものの夕焼け」に遭遇します。そして火がついちゃう。自らの欲望の存在に気づいてしまう。

目を閉じると、自分がぬるぬるした蛇のいる部屋に置き去りにされ、二、三匹がじつにゆっくりと螺旋を描きながら脚を這いのぼってくるところが目に浮かんだ。目を開けると赤いもやだけが見え、ふたたび、しかしいっそう強く、たそがれの湿気が彼女の唇を噛んでいるように感じられた。もはや何が自分のなかにあり何が外にあるのか、彼女にはわからなくなっていた。

螺旋がまた出てきましたね。螺旋は愛撫です。渦を巻きながら少しずつ少しずつ核心に近づいていく。そして、自分の境界が周囲に溶けていく。「何が自分のなかにあり何が外にあるのか」わからない。浴場の湿気に包まれていると、確かにそんな気分になることがあります。もしくは湯船につかっているとき。ぐんにゃりと湯に身を任せていると、お湯の一部になったような気分になる。そして、この自他の境界が溶け出してしまうという状態は、エロティックなものの根源にあると僕は思ってるんですよ。だから、浴場は欲情にうってつけの場所なんです。
それからもう一つ、女性同士の性愛を描いていながら、それが特殊なものとして扱われていないということもポイントだと思います。これは、松浦理英子さんが描いているような「性器に拠らないエロス」ということかもしれません。つまり、男女うんぬんというよりももっと根源的なエロスということです。


「IX 九つの段階」
いよいよ、きました。ファトマとカディヤの邂逅が、9の断章で段階的に描かれます。一歩、また一歩とその瞬間に近づいていくんですが、これがまた時間を引き延ばすような効果を生んでいる。ほんと、じらすなあ。

誰にも見えない儀式用の衣をまとい、ファトマは裸体の鋼色の輝きで雲を切り裂きながら、ハンマームの部屋の内部を満たす濃密な雲を出たり入ったりした。蒸気のふたつの流れのあいだに現われるその姿は、音のない稲妻だ。

なんていう、魅力的な比喩があちこちに出てきます。湯気から湯気へと渡る裸身の稲妻。

湯は意図された強さとリズムで噴水盤に落ちていた。噴水は湯の音楽を奏でるように調律されているのだ。音は丸天井や浴場の隅、採光窓に反響し、まるで別の楽器がそれを奏でているように聞こえた。反響ではなく、新しい声となって。光もまた、手なづけられ、調整され、音となって浴場に入ってきた。湯と同じように扱われ、演奏された。そこでは光も音楽だった。湯と光は、女たちののんびりした話し声、何人かの歌声、ゆっくりと動く身体の線、肌を伝う汗と交錯した。

こんな魅力的な描写も出てきます。反響する湯の音、チラチラと反射する光、女たちの声や姿も含めてハーモニーを奏でている。ああ、この世界に溶けてしまいたい。そして…。

二つの視線が、古い時代に設計された丸天井のアーチのように交差した。

このあと、二人がメイクラブするわけですが、肝心なその瞬間の描写は省略されています。公衆浴場の湯気に隠されているかのようにもやーっと匂わされるだけ。こういうところもニクいなあ。螺旋をぐるぐる描きすぎて、中心が小さな点になってしまったかのようです。結局、エロスはその瞬間にあるんじゃなくて、迂回しながら渦巻く運動のほうにあるってことでしょう。そして、その感覚はファトマの体に刻み込まれてしまいます。


ということで、今日はここ(P87)まで。全体の2/3くらいまできたのかな。これで第1部は終了です。不思議なバランスですが、このあと第2部が始まります。