『夢の遠近法――山尾悠子初期作品選』山尾悠子【1】


夢の遠近法 山尾悠子初期作品選
秋ですね。秋にふさわしい作品を読みたいな。幻想の世界にすっぽり浸れるような、ここじゃないどこかへ連れて行ってくれるような…。ということで、これにします。
『夢の遠近法――山尾悠子初期作品選』山尾悠子
です。
山尾悠子、大好き。初めて読んだのは学生時代。ハヤカワ文庫の『夢の棲む街』でした。そのときはよくわからなかったんですが、薄暗い幻想にどこか惹かれるものを感じてたんですよ。その後、山尾悠子は作品を発表しなくなってしまい、2000年代になって『ラピスラズリ』で突如復活。続いて出版された『歪み真珠』と合わせて、山尾悠子好きだわーという思いを新たにした次第です。ちなみに国書刊行会から分厚い作品集成が出ているんですが、9000円以上もするのでなかなか手が出ません。そんな僕らのために軽量版として出版されたのが、この『夢の遠近法』だそうです。『夢の棲む街』に収録されていた作品4篇を含む全11篇+エッセー4篇。半分以上が初読の作品です。おお、楽しみ。ちなみに、巻末には作者による「自作解説」も付いています。
では、いきましょう。


「夢の棲む街」
山尾悠子が20歳頃に書いた実質的処女作。タイトル通りまったくの架空の街を描いた作品です。では、どんな街なんでしょうか。

街は、浅い漏斗(じょうご)型をしている。
その漏斗の底に当たる劇場前の広場に立ったバクは、夕暮れ時の街、まだ寝静まっていて人影ひとつ見えない街を、すり鉢の内側を底から見上げるようにしてひと目で見渡すことができた。劇場を中心として海星(ひとで)の脚のように放射状に走る無数の街路が、ゆるい傾斜で四方へ徐々にせり上がってゆき、漏斗の縁に当たる部分で唐突に跡切れている。街は、そこで終わりだ。そしてその丸い地平線の上では、魚眼レンズで集めた映像のような半球型の空の、東半分だけが暮れかけている。

漏斗型の街。これだけで、もうシビレる。しかも、中心にある劇場は円形劇場なんですよ。てことは、この劇場もまた漏斗型の構造になっていて、その中心にあるのが舞台ということでしょう。街と劇場が相似形になっているということは、この街もまた劇場のようなものかもしれない。ちなみに、街の半球型の空が覆っているように、この劇場も丸天井で覆われています。ああ、なんてそそる設定なんでしょうか。
主人公は、〈夢喰い虫〉のバク。〈夢喰い虫〉は、昼間のうちに街の噂を集めて夕暮れにそれを街に広めるという仕事をしています。夕暮れに人々は「まだ寝静まって」いるということは、この街では昼夜が逆転しているようです。人々は夢の中で〈夢喰い虫〉が語る噂を聞き、夜になると起きだしてきて活動を始めるのです。しかし、バクは〈夢喰い虫〉の落ちこぼれで、最近ちっとも噂を集められないでいるというところから、この作品は始まります。
とは言うものの、ストーリーよりも次から次へと現れる奇怪で美しいイメージにうっとりする類いの小説ですね、これは。例えば、〈薔薇色の脚〉と呼ばれている脚だけが肥大化した踊り子たちが、劇場からいっせいに脱走したというエピソード。脚が脱走するというイメージに、クラクラしていしまいます。なるほど、脚は踊るだけじゃなくて逃げるときにも役立つんですね。
娼館の屋根裏に押し込められている天使の群れのエピソードも、かなり強烈です。天使といいながら、薄汚れた獣じみた生き物として描かれているんですよ。確か、歌人・葛原妙子の短歌にそんな天使が出てきたような気が…。そして、その先がすごい。

マダムが一匹ずつ指さして詳しく説明してくれたのでバクにもようやく分かったのだが、部屋中の天使たちは一匹残らず、接合して核の一部をやりとりしている最中のゾウリムシのように躰(からだ)の各部分を癒着させあっていたのだった。中には半分以上互いの躰にめりこんでしまって、シャム双生児というより双頭児に近い姿になっているのもあったし、五、六匹が一つの塊(かたまり)になって、すでに個々の区別もつかないほどになっているものもあった。マダムの説明によれば、狭い場所であまり繁殖しすぎたせいだという。

ゾウリムシの比喩は澁澤龍彦のエッセイを連想させますね。雌雄の区別のないところもうっすら天使と重なりますが、マダムは天使にも雌雄はあると考えています。「なけりゃどうやってあんなに殖えたとお思いだい!」。それにしても、番って繁殖するのみならず癒着してしまう天使とは、恐ろしいことを考えるもんです。冒涜的というか、サディスティックというか。
このように、劇場や娼館に関する様々なエピソード、さらに奇怪な街の構造などが、短い章の積み重ねで描かれていきます。この断片を積み重ねるスタイルは、〈夢喰い虫〉の語る噂話のようなものかもしれません。あちこちで囁かれる街の噂。例えば、この街の外には何があるんでしょうか? それは誰も知らないんですが、街を取り巻く円形の平坦な大地がただただ続いている、というのが街の噂です。では、街の外を見に出かけた者はどうなったか。

――夕暮れになると、円形の地平線は炎をあげて燃えた。四方から押しよせる夕闇の中、日蝕時のコロナのように遠くちろちろと炎をあげる真紅(あか)い環の只中(ただなか)にひとり立って、旅人は野火に囲まれた獣の恐怖に捉われる。やがて荒野に夜が降り立ち、遠い炎の帯が徐々に立ち消えていく頃、風を孕(はら)んでわずかにどよめく大気の底で、恐怖にかられた旅人は狂ったように走り始める。いつか方角を見失って夜の平原を走り続けるうちに、ある者は運よく街に帰りつき、ある者はそのまま行方不明になった。

どうですか、この鮮やかなイメージは。こんな景色はどこにもないはずなのに、周囲を取り巻く夕日の炎をありありと思い浮かべることができる。人工的とさえ思えるほど隙のない光景で、こんなものを見ちゃったら、そりゃあ気が狂いそうになって走り出しもするよと。この地平線の先には海があると人々は考えていますが、海にたどり着いたら着いたで怖いんじゃないかな。円形の大地が海に浮かんでいるわけで、その縁まで行ったら宇宙の端を見ちゃったようなショックがあるんじゃないかと。
巻末の自作解説で、山尾悠子は「言葉を用いて架空の世界を構築しかつ崩壊させること」と書いています。確かに、この作品は構築美のようなものを感じさせる。しかし、緻密に構築された人工的な世界は、その完璧さ故に「崩壊」の種を孕んでいます。噂で組み立てられた街は、漏斗の底に溜まった噂で自壊する。カタストロフの種は、世界の中心にある。そう、円形劇場です。ブラボー! 見事すぎます。崩れゆく桟敷席から拍手を贈りたい。


「月蝕」
「夢の棲む街」の次に書かれたという作品。こちらは架空の世界ではなくて、京都の街が舞台になっています。主人公は、京都で一人暮らしをしている大学生の男子・叡里(えいり)。従姉から1日だけ娘の面倒をみてくれと依頼され、しぶしぶ引き受けます。娘の名前は真赭(ますほ)、小学5年生だけどちょっと大人びた雰囲気のある女の子です。かくして、叡里が真赭と過ごした1日の出来事が、ほのかなユーモアと共に描かれていく。このあたりは、森見登美彦の大先輩といった趣きです。
特にユーモラスなのが会話です。「そんなのなら、もっと機嫌のいい声出してらあ。ゼミの爺様(じいさま)教授と顔つきあわせてたの」なんていう会話の呼吸は、70〜80年代の少女マンガを思わせます。「出してらあ」とか「じいさま」とか、当時の学生がこんな言葉遣いをしていたかどうかはわかりませんが、フィクションの中に置かれると生き生きとする類いの言葉遣い。ちょっとした場面ですが、叡里と喫茶店のマスターのこんなやり取りも面白かった。

「ちぇっ、今日はついてないな」
「どうかしたの」
「それがね、親戚の女の子が泊まりに来てさ」
「へえ、艶聞(えんぶん)やんか」
「子供子供。小学生」

「艶聞」ってのは、辞書によれば「男女間のつやっぽいうわさ、色めいたうわさ」だそうです。今まで使ったことない言葉ですが、品のある色っぽさがいいですね。京都弁で「艶聞やんか」と言われると、その出来事にふわーっと薄い紅が差すような感覚があります。
そんなわけで、叡里は真赭を楽しませるために、京都の街をあちこち連れて歩きます。この街の描写が、いきいきとしていてとっても魅力的。例えば、変化球的な描写ですが、こんなのはどうでしょうか?

――それにしても、子供はよく食べた。お寿司を食べたい、というので入った「ひさご」でちらし寿司をぺろりとたいらげたのを手はじめに、映画館でアイスキャンディーとポップコーンを一袋、「ジャワ」で十二歳以上お断りのお子様定食(ジュース・ハムライス・エビフライ・ミートボール・プリン)、次に入った「弥次喜多」で自家製の白玉入り蜜豆を食べたうえにマシュマロ入りのコーヒーアイスクリームを立ち食いした。

子供を連れて行く場所なんてそうはないわけで、食事して映画見てまた食事して、さらにおやつを食べてという、食べ歩きっぷり。店の名前と食べたものを列挙しているだけなんですが、不思議と京都の街を歩いているような気分になりませんか? しかも、特別なものを食べてるわけじゃないんですよ。どこにでもありそうな店のどこにでもありそうなメニュー。だからこそ、それぞれの店構えまでなんとなく想像しちゃったりして、楽しい気分になってきます。
さらに、日が落ちて来るあたりから、京都の街が淡い幻想味を帯びてくる。こういうの大好き! 「先刻まで燃えたつような西日を真横からあびていた大通りは、日が落ちた後もまだ熱気の余燼(よじん)に包まれて、街全体がほの赤い色を帯びている」。こんな文章を読まされたら、もうトリコです。夏の夕暮れのざわざわした感じにやられてしまう。もしくは、こんな場面。

人は健康を害している時にはいつもより五感が鋭くなるものらしい。脈打っている足首の痛みをかかえて歩いていると、街並の色や音や匂いが妙に切実に感じられる。京都に来てから二年半、ほとんど毎日うろついている河原町の大通りだが、いつもの仲間とまったく連絡不能の状態で真赭といっしょに歩いていると、入学当初見慣れない表情をみせていた京都の姿が、無意識のうちに眼の前の風景に重なってきた。靴屋の前を通りすぎる時に感じる冷気の中の革の匂いも、狭苦しい歩道にあふれる雑踏の人いきれも、行きかう路面電車の火花の色や、冷房の強い店内を一歩出た瞬間に身体を包みこむ盆地特有の圧倒的な熱気も、いつもと変わらないはずなのに、京都に来た最初の年に初めて感じた〈京都の夏〉の感覚が、いつの間にか鮮明に蘇(よみがえ)ってきたのである。

いいですねえ。街の様子が「五感」を通して描かれる。靴屋の革の匂いから路面電車のスパークまで、この感覚の鋭さは、ちょっと室生犀星の都市小説を思い出させるものがありますね。いつもの街が初めて見た街のように鮮やかに息づき始める。つまり、ほんのわずかだけ異世界に入り込んでしまったということです。仲間と連絡がまったく取れないというのが、その証拠。なんて魅力的で妖しい〈京都の夏〉でしょうか。
ちょっと不思議なお話として語られるこの作品は、最後もユーモラスな会話で終わります。不思議だけど京都だったらそんなこともあるかもね、と言わんばかり。こうしたのんしゃらんとした学生気分が、この作品の魅力になっています。


ということで、今日はここ(P86)まで。山尾悠子の描く都市は、引き込まれますね。架空の都市でも現実の都市でも。