『夢の遠近法――山尾悠子初期作品選』山尾悠子【4】


「夢の棲む街」の天使の描写について、「葛原妙子の短歌にそんな天使が出てきたような」と書きましたが、僕がぼんやり連想した短歌を見つけました。こんな歌です。「天使まざと鳥の羽搏きするなればふと腋臭のごときは漂ふ」。獣じみた天使というところが、山尾悠子と重なります。
ということで、残りの4編です。どれも短い作品ですが、山尾悠子の場合、短いからって薄味になったりはしません。描写・描写・描写を舌なめずりしながら読むことになります。


「傳説」
冒頭から引きます。

憂愁の世界の涯(は)ての涯てまで、累々(るいるい)と滅びた石の都の廃墟で埋まっている。まずはそう思え。
三百六十度の、不安な灰色の大俯瞰(ふかん)図――その何処(どこ)にも動くものがない。天球は一枚のぶ厚い痰(たん)に似た膜、永遠の黄昏(たそがれ)どきである物憂い日蝕のようだ。そして、偏執的な細密画を見るような、地平の涯てまでを執拗に刻みつくした石の大廈高楼(たいかこうろう)群。この世界を領するものは、見捨てられたそれら建築群の豪奢(ごうしゃ)と壮麗、ものわびしい廃墟美。大殺戮(さつりく)の果てたあとの、不吉な静寂。そして沈滞した憂悶の気分、それだけであると思え。

「傳説」は「伝説」の旧字。大仰というか、異様なテンションで終末の光景が描かれます。「世界の涯ての涯て」「不安な灰色の大俯瞰図」「永遠の黄昏」と、もう全歴史とか全世界とか全人類とかそういうレベルの話なんですよ。でも、何でこんなことになったのか。その理由は明らかにはされません。「〜と思え」と強引に言い放たれるばかり。
この「〜と思え」というフレーズが、このあとも随所に挿入されます。これこそ世界が言葉でできている証です。そうだからそうなのだ、という宣言。そのように書かれているのであれば、その世界はそうなっているのだと。一筆で世界を滅ぼし、「偏執的な細密画」のように描写されることで、それが現実のものとなるのです。

この建築群の凹凸がつくる蝟集(いしゅう)地帯、その遠く近くを、ふとスポットライトにも似た濃い赤光の輪が撫(な)でて走ることがある。一瞬の落雷を待つ夜の海原(うなばら)のように、世界は脈々と深く明滅し、そして見ればさらに人がいる。目路の限り、地平までの全部がひとつの円形劇場であるかのように――地表を埋めつくして、人の貌と貌と貌があったと思え。滅びた神々のように超然として、駆け抜ける暗赤色の光芒(こうぼう)に曝(さら)された、その彼らの姿で世界の全部が埋まっていたと思え。

またしても「円形劇場」です。書かれることで世界が生まれるのであれば、本とは劇場のようなものかもしれません。僕らは、訪れるカタストロフを止めることはできず、観客席でそれを固唾を飲んで見守るばかり。舞台で繰り広げられるのは、一組の男女の愛の道行きです。彼らはまるで全人類を代表して、愛し合っているかのようです。そして、全人類を代表して死へと歩みを進めていくのです。


「月齢」
冒頭から引きます。

夜を越えまた越えていくうちに、馬の背は荒い塩の結晶を噴いた。見渡す限り、数世紀の夜の沈黙(しじま)を守る死火山の麓(ふもと)。谺(こだま)持つ月の尾根を過ぎ、乾き果てた大地の一点をほそぼそと旅していく、おれは騎馬の男である。

ひゅーと口笛を吹きたくなるような、カッコいい書き出しですね。「馬の背は荒い塩の結晶を噴いた」なんてシビレる言い回しだし、「おれは騎馬の男である」でチョンと拍子木を鳴らしたくなるような名調子。荒野を行く語り手の、凛とした孤独がひしひしと伝わってきます。
彼が旅しているのは「月の年齢に支配される土地」ということのようです。月は山尾悠子お気に入りのモチーフなんでしょうね。本作品集にも、タイトルに月が出てくる作品が3つ収録されています。中でもこの作品の描写はえらく濃密。修辞に修辞を重ねて、水の中を歩くようにゆっくりとしか読めない類いの文章です。例えば、始まってすぐの月の出の場面。

その夜の月ほど不思議な月をまだ見たことがない。影に濡(ぬ)れた領域に別れ、ほとんど起伏のない大地へと踏み込んだ時、歳(とし)たけた世界の月は行く手、真正面にあって間一髪に地平を離れようとしていた。……その遠い月球を載せた地平からひと続きに、角度のない照射のひかりが此処(ここ)まで届く。おれも馬も廃墟も、真空の中にあるように、恐ろしく長々と孤独の影を曵(ひ)く。高原地方の稀薄な空気に血は薄められ、髪ふり乱した月は眩暈(めまい)の源に似た。そしてひと塊(かたまり)に孤立して佇(たたず)む建築群を眺め、ふと感じたものだ。かつてこのような宵、静けさと共にふつふつと沸きたつ月光の気泡に包まれて、見棄てられた痘痕(あばた)の台地をこうして進んでいったことがあると。馬のひと跳びでその地盤の突端に立った時、唐草モザイクの円屋根(ドーム)が逆光のひかりを零(こぼ)すのをおれは見た。その零れた光の斑(ふ)が、さらに欄間(らんま)の複雑な透かし彫りを透き通らせるのも見た。

「月球を載せた地平」という表現の見せる光景の大きさに、ため息が出てしまいます。まるで、大地が巨大なお盆のようなものに思えてくる。この世界を満たす月光。その表現にも注目です。「角度のない照射のひかり」によって、長い長い影が伸びる。また、ため息。それは、日光によって生じる影と違い、冷え冷えとした孤独の影です。そして、「円屋根が逆光のひかりを零す」。おお、ここもため息。はらはらと落ちてきて、あたりを斑に濡らす光の滴。もう、美しすぎます。
しかも、この地を行くのは語り手と騎馬のみ。濃密な静けさとでも言うべきものが、あたり一面を支配しています。それは、音のない月面のようです。月光に満たされることで、この地は「真空の中にある」「見棄てられた痘痕の台地」、つまり月面の似姿となる。ああ、これ読んでいる僕は今、どこにいるんでしょうか? 自分の部屋にいながらにして、地上にいる気がしない。この不思議な地へとさらわれてしまい、日常など知ったことかという気分になってしまいます。
このあと、グロテスクな展開が待っているんですが、それでも語り手はそのことを忘れて何度もこの地を訪れるのでしょう。月が満ち欠けを繰り返すように。


眠れる美女
冒頭から引きます。

世界の中心に平坦な大陸があり、その中心に白百合の花咲く台地があり、その中心には大理石の石壇とガラスの柩(ひつぎ)、なかにはうら若い美女が眠っております。

ですます調のおとぎ話風文体で語られる、わずか3ページの掌編。「夢の棲む街」や「遠近法」など、山尾悠子作品には、同心円のイメージが頻出します。中でもこの作品は、その構造が明確に表れている。世界の中心の大陸の中心の台地の中心の石壇の中心のガラスの柩。その中心に眠る美女。カメラが世界の中心へとぐーっと寄っていくことで、この同心円構造が強調されています。
そして、同心円はラストに至るまで崩れることはありません。磨き抜かれた構成というか、すべては円の中で起こるんですよ。そこで起こった一部始終を見つめ、またカメラは俯瞰でぐーっと引いていく。しかし、この冒頭の1行と対をなすラスト1行を読むと、世界が反転してしまったような鮮烈な印象があります。このサイズの作品としては完璧なんじゃないかな。
山尾悠子は自作解説で、澁澤龍彦の「もっと幾何学的精神を!」というフレーズを引いています。なるほど、幾何学精神か。山尾悠子の幻想世界が硬質な印象を与えるのは、幾何学精神のおかげかもしれません。柔らかな美女を硬いガラスの柩に閉じ込めて、同心円の檻から出そうとしない。幾何とはなんと残酷なものでしょうか。


「天使論」
大学を舞台にした、これまた3ページの掌編。
大学はこんな風に描写されます。「Seraphita」はフランス語表記っぽいんですが、PCの都合上、英文のアルファベットで引用しています。

その年、麻也子は幾つかのことに熱中した。骨格のくっきりした、彫ったように鋭いFの顔を眺めること、あるいは階段――確かに、このC**館で最も美しいのは階段で、何度スケッチをとっても飽きなかった。二階から踊り場まで降りると、巧緻な彫刻の手摺(てすり)を持つ階段はそこから両翼にわかれ、左右対称に一八〇度のカーブを描きながら鬱然たる玄関ホールに到る。中二階の床から吹き抜けの天井までを占める縦長の大窓、バルコニー、そこへ光を零(こぼ)す樟の木。
また、当時翻訳の手に入りにくかったバルザックのSeraphitaを好奇心のためにぼつぼつ訳し、北欧の神秘哲学の展開に頭が痛くなるとよくその大窓をながめた。両性具有の天使セラフィータ・セラフィートス、畸形(きけい)の天使というイメージがいつのまにかおの階段と窓の光景に重なった。

左右対称という「幾何学的」構造。「両翼にわかれ」カーブする階段。この「両翼」という単語が、天使のイメージを呼び出します。縁語というやつです。バルザックセラフィタが奇形かどうかは知りませんが、「畸形の天使」というとぐるーっと回って「夢の棲む街」にもつながりますね。
山尾悠子によれば、「事実でないことは一行も書いていない」とのことです。とは言うものの、固有名詞が「F」とか「C**館」と記号的に表記されているせいで、「今・ここ」ではないという気配が漂う。記憶の中の学生時代ということでしょうが、望遠鏡を逆さに覗いたような非現実性を帯びています。それが事実であろうがなかろうが、言葉にすることで現実の世界とは別の世界が立ち上がるのです。


以上で『夢の遠近法』は終わりですが、エッセイ4編を収録した小冊子が付録としてついています。このエッセイ群についても触れておきましょう。
「人形の棲処」は、「西洋人形」というイメージから膨らませた妄想を綴ったもの。
「頌春館の話」は、稲垣足穂についてのエッセイに足穂のパスティーシュを加えたもの。
「チキン嬢の家」は、偶然知り合った女性についての思い出。
ラヴクラフトとその偽作集団」は、ラヴクラフトについてのエッセイを導入とした、ラヴクラフトパスティーシュ
どれも、みっしりした描写が楽しめる短編小説のような味わいのエッセイです。やはり、事実を書こうと書くまいと山尾悠子山尾悠子なのだと思った次第。


ということで、『夢の遠近法』読了です。