『夢の遠近法――山尾悠子初期作品選』山尾悠子【3】


前回の「遠近法」について、ちょっと触れておきたいことが出てきちゃったので追記的に書いておきます。
円筒型の宇宙の構造は、この作品の構造とリンクしてると思ったんですよ。断章を重ねるというスタイルは、幾層にも回廊が連なっている《腸詰宇宙》だよねと。さらに、円筒の両端は外の世界へ開かれているらしいがそれを確認した者はいない、というのも、始まりも終わりもない未完の草稿というスタイルの似姿になっているなあと。山尾悠子はその後、「遠近法・補遺」「火の発見」という作品で、さらに断章を重ねていくわけですが、それは遠近法の彼方へ無限に続くばかりで何かしらの結論を導き出すわけではありません。作者は消えてしまい、神が遠近法の彼方から顔を覗かせることは永遠にないのです。
とまあそんな感じで、この「遠近法」までが単行本『夢の棲む街』に収録されていたもの。今回分からは未読作品になります。では、いきましょう。


「童話・支那風小夜曲集」
タイトルに「小夜曲集」とある通り、5つの掌編から成る作品。しかも中国趣味、いわゆる「シノワズリ」というやつです。エキゾチックなものとして中国っぽさを愛でる、といったこの手の作品は、谷崎潤一郎芥川龍之介も書いていますね。あくまで「っぽさ」というのがポイントです。現実の「中国」ではなく、想像の中・童話の中にしかない「支那」のお話なんですよ。
そんなシノワズリが最もよく表れているのが、最初の掌編「帰還」。世界を旅してきた龍が支那の街へと帰ってくる。いきなりドラゴンが登場するというあたり人を食ってますが、その龍が人間に姿を変えて街を歩くシーンが素晴らしい。

人間の姿になって北京の街筋に入っていくと、地上には良質の支那墨のような闇がなま暖かくよどんでいた。龍は花櫚(かりん)の砂糖づけを買って、食べながら通りから通りへと歩いた。ある窓辺には、紫檀(したん)の花台に紅と白の庚申(こうしん)薔薇があふれるほど活けられているのが見えた。熱い紹興酒(しょうこうしゅ)を求めて男たちの集まってくる街筋では、阿片(アヘン)の夢に憑(つ)かれた人間たちの姿が、影絵になって入り乱れている扉口(とぐち)を幾つも見た。何を見ても、龍は幸福だった。砂糖のついた口をあけて夜の大気を吸いこむと、天頂を大きくよぎる銀河の星群が、薄くかすんで眼に入った。

ルビだらけでわずらわしくて申し訳ないですが、漢字だらけなのも中華風味。「良質の支那墨のような闇」ってのがいいなあ。真っ暗じゃなくて濃淡のある闇。そんな街をそぞろ歩けば、「花櫚の砂糖づけ」「紫檀の花台」「阿片の夢」とまるで韻を踏んでいるかのように、味覚・視覚・嗅覚をくすぐるものが次々と現われてきます。畳み掛けるようにくり出されるこれらの描写が、夜の街のざわめきを感じさせる。描写の一つひとつが集まって、幻想の北京の街路を形作っているわけです。そして、ふと夜空を仰げば大銀河。近くから遠くへ、一瞬にして視界がふわーっと広がるという仕掛け。
3つ目の掌編「スープの中の禽(とり)」は、残酷童話といった趣きの作品です。冒頭から引いてみます。

一人の若く貧しい料理人がいて、美しい一羽の家鴨(あひる)を飼っていた。
彼らは、しんじつこまやかな愛情で結ばれていた。調理場の片隅に調えられた、粗末な、しかし清潔な小舎(こや)の中で、昼の間はあひるは料理人が下働きの仕事に追われるのを見守った。しかし夜になって竃(かまど)の火が落とされると、最後の後片付けを済ませた料理人はあひるのところへ行き、小舎から連れだして料亭の庭の泉水に浮かべてやるのだった。あひるの羽根は、薄く油を引いたような艶(つや)を持って真珠母(しんじゅも)いろに輝き、その賢そうな眸(め)は薄黄色い暈(かさ)に縁どられた血石のようだった。仕事がひけて妓(おんな)のところへ出かけていく朋輩(ほうばい)たちは、この愛情を嘲笑ったが、二人だけでいる時彼らは幸福だった。

何でしょうか、この文体の色っぽさは。「しんじつこまやかな愛情で結ばれていた」、「一人の若く貧しい料理人」と「美しい一羽の家鴨」。いかにも童話的な言い回しで始まりますが、その底に生あたたかい夜の空気にも似たエロスが流れている。性を介さない関係特有のアトモスフィアですね。消えゆく竃の火も夜に揺らめく泉水も、不思議と官能的に思えてくる。あひるの羽根の艶や目の色の細かい描写は、まるでやさしい愛撫のようです。
2つ目の掌編「支那の吸血鬼」は中国に棲む吸血鬼の話、4つ目の掌編「貴公子」はフランスと思しき地に連れてこられた纏足の中国人青年の話です。いずれも、ヨーロッパ的なものと中国的なものが対比されている。対比されることで、中国的なるものの奇妙さが際立つのが面白い。吸血鬼よりも支那の娘のほうが、一枚上手だったりするんですよ。
最後の掌編は、「恋物語」というタイトル。刺客としてやってきた男、今まさに殺害しようとしている相手が「病気の子供」だと知り驚きます。「なんと小さくて、なんと絶妙な手首だろう」。あ、魅せられちゃった。実は、この作品で描かれる恋物語とは、刺客と子供の恋なんですよ。なんと危うい恋でしょう。ちなみにこの刺客、「帰還」にもチラっと登場していました。このさりげない円環構造に、思わずにんまりしてしまいます。

桃の林の中で恋してる、春の刺客なの。みんな春の病気なのよ、恋猫は蛾(が)と一緒に月まで飛んでくわ……押さえてよ、浮きあがってくわ、あたしまで飛んでいかせちゃ駄目よ。

これは、朦朧としながら子供が口にするセリフ。「みんな春の病気なのよ」、恋して鳴く猫も灯りに誘われる蛾も、春の病気にかかっている。それは恋の病であり、恋とは熱に浮かされて見た夢です。というか、僕にはこの5つの掌編自体が春の病の中で浮かんでは消えていく夢のように思えます。いいなあ。いつまでもとろとろとこんな夢を見ていたい。しかし、この夢は病が癒えれば消えてしまうはかない幻にすぎません。

春の一夜の恋物語は、こうして誰からも忘れ去られることになった。

この最後の一行で、支那の夜の夢はふっとかき消されてしまいます。鮮やかな幕切れ。シビレるなあ。


「透明族に関するエスキス」
エスキスとは「素描」とか「下絵」という意味。タイトル通り、AからFまでの6つの場面で「透明族」なるものがスケッチされます。とは言うものの、本文には「透明族」という言葉は出てきません。それどころか、「透明族」が何なのかということも一切語られません。スケッチですからね。名付けや意味付けを欠落させたまま、ただ描写されるのみ。この、ありもしないものをひたすらに描写する、ということこそ山尾悠子の真骨頂です。
舞台は、「そこはたとえば、初秋の高原の観光都市のような場所であってもいい」とされる街。建物は「階数や様式をきびしく統一され」、通りに面した「深くて小さい」窓を持ち、垂直の砂岩の壁面が「隙なく軒をつらねて」おり、石畳の街路は「正しく碁盤状に街を走っている」。ああ、なんて人工的なんでしょう。何度も描写されるこの街の構造を脳裏に浮かべながら読み進めると、七階の窓と同じ高さの風の通り道に「それ」は現われます。

それはひとつの独立したものではない。かたまりあってはいるが、何個か何十個かのものが、空中をわずかに浮き沈みする動きを個々に持っている。そうして不規則な動きで互いに位置を入れかえながら、ほぼ一団になって風に流されてきつつあるのだ。それはほとんど透明体であるといってもよかった。それらの集団のからだは、背景である家並の砂岩の壁面をほとんど透かせて見せているのだ。それでも、何匹かのからだがひとかたまりに重なりあうときには、さすがに光を通す率がいくらか低まるらしい。それに光線の角度によっては、輪郭の鋭い線が毛の先ほどの細さでくっきり刻みだされて、胎児のかたちに丸めた手足や皺(しわ)の誇張された顔面が、視覚に浮かびあがったりもする。――それら集団のからだを透過して路面に生じている影は、影というにはあまりにもあわく不安定で、ほとんど陽炎(かげろう)のつくる影のゆらめきにも似ている。それは通りを動いていきながら、わらわらと乱れて道幅いっぱいにひろがりだし、前後十数メートルほどにも拡散したかと思うとまた風に巻かれたのか、ひとかまりに小さくなったりした。

目に見えないものを描写の力で現前化させる。それだけのために費やされる言葉の、虚しい美しさにくらくらします。流れる風の動きを捉え、わずかな光の濃淡を捉え、あわあわとした影のゆらめきを捉える。言葉によるスケッチ。重なり合うと透明度が落ちるというのが、面白いですね。言われてみればそんなこともありそうな気がしますが、ここまで書く人はそうそういないんじゃないかな。見えないものが見える瞬間を描くためには、目を凝らさないとならない。そんな風にして、自ら想像したものを想像の中で凝視する。そして、わずかな透明度の変化を発見するわけです。
それにしても、「透明族」って勝手にカゲロウの羽根を持った妖精みたいなものをイメージしてたんですが、まったく違いました。胎児のように丸まった「透明な侏儒(こびと)」の群れ、なんですよ。これまた、意外なビジョンです。しかも、何かに強くぶつかると「ゴム風船の腹が裂けるように」はじけて、「黄濁した粘液」と化すんですよ。気色悪いなあ。このグロテスクな奇想は、デビュー作「夢の棲む街」を思わせます。
規則正しくデザインされた街を、ゆらゆらと流されていく透明なものたち。彼らに意志があるのかないのかよくわかりませんが、風に流されていくばかりの存在のようです。それは、花粉や綿毛のような自然現象を思わせます。黄砂とかね。そして、風が止む夜になると、このこびとたちはゆっくり降下してくる。

――夜の底に、気配が起きる。
気配だけの、空気の感触のような音がそこにある。
水素入りの風船玉よりも軽く、息を殺したようなひそやかさで、敷き石の表面になにかがはずむ。
大きく大きく弧を描いてはずんだからだは、信じられないような長さの時間を置いて、また次の地点へと降りてくる。
羽根で触れたほどの気配の音がする。

気配、か。何かにかすかに触れたり、何かが目の端をよぎったり、何かがそこにいるような気がする。そんな気配が街路を満たします。引用部で描写されているのは、視覚が閉ざされた夜だからこそ感じることができるかすかな音の気配です。場面が変われば、スケッチの筆も変わる。目に見えないものに目を凝らすのではなく、山尾悠子はここでは耳を澄ませているのでしょう。
こびとが鞠のように弾むというのも面白い。風に乗るくらいだから、えらく軽いんでしょう。だから、ちょっとの衝撃で大きく弾み、ゆーっくり時間をかけてまた降りてくる。こうした描写から感じられるのは、それが透明にも関わらず具体的に質量を持った存在だということ。見えないはずのものが存在感が、ひしひしと伝わってくる。
最後の場面は、けっこう派手な展開になります。とは言え、相手は「透明族」です。この街で起こったことは、目には見えないのでしょうね。


「私はその男にハンザ街で出会った」
文中でも言及されていますが、エドガー・アラン・ポーのような幻想怪奇譚です。冒頭部がすごくカッコいい。

私はその男に黄昏(たそがれ)のハンザ街で出会った。灰色の外套(がいとう)に青い帽子をつけた若い男だ。点燈の時刻の迫る街には茎を折った菊の香が流れていた。互いの眼に星ほどの燈(ひ)をともしあうようにしてわれわれの視線は出会ったのだ。

夕闇の時刻です。黄昏、点燈とイメージをつないで、「互いの眼に星ほどの燈をともしあうように」という美しい比喩に至る流れが素晴らしい。背後に流れるのは菊の香り。「菊」というのがまた意味深ですが、考え過ぎかな。
街には名前が与えられているのに、登場人物「私」と「その男」には名前がありません。「その男」なんて思わせぶりに言われると「何者だ?」という気になりますが、謎の人物なのは「私」も同様です。「その男」はまだしも男だということがわかりますが、「私」という一人称では性別すらわかりません。そして、「私」は誰だ、ということを突き詰めていくと、ポーの作品でもおなじみのあのテーマに行き当たります。
このあとも、「私はその男にハンザ街で出会った」というフレーズがくり返し変奏されます。このリフレインが、何か切迫したものを感じさせるんですよ。そしてそれは、こんな神経を研ぎ澄ましたようなイメージへと結晶します。

それでも月は空のどこかの高みにあって、この夜の蒼(あお)さの光源となっている筈だった。高い家並みの稜線から斜めに射す月光の蒼さは、鉱物の切り口の固さだ。指が触れて切れないように、私は影の領域を注意深く選んで歩いた。

月光で指を切る! この冷え冷えとした幻想!
そしてこの作品は、最後もこのフレーズで締めくくられます。「そのようにして私はその男にハンザ街で出会ったのだ」。円環が閉じる。


ということで、今日はここ(P242)まで。残り4編。どれも非常に短い作品なのですぐ読めちゃいそうですが、それはそれでもったいないような気が。