『夢の遠近法――山尾悠子初期作品選』山尾悠子【2】


ああ、美しい。そうとしか言いようがない作品ばかり書いているんですよ、山尾悠子は。今回読んだ2編も、非常に濃密で圧倒されっぱなし。さて、どう語ったらいいものやら…。


「ムーンゲート」
この作品集のなかでは一番長くて、短編というよりは中編くらいのサイズ。それにふさわしい、非常に読みごたえのある作品です。
物語は、川船が領主の館を目指すところから始まります。最初の場面をちょっと長めに引用しましょう。

靄の季節のある朝まだき、船は〈千の鐘楼(しょうろう)の都〉に到着した。
なかば崩壊しかけた水上都市は、早朝の脆弱(ぜいじゃく)な陽光を受けて、水面に不眠の影を落としていた。睡眠不足の頭を寝床に埋めたまま、半覚醒のなかで昨夜の疲労のあとを反芻(はんすう)している、年老いた大都。長い年月の間、地盤の沈下と水の浸食との絶間ない抗争を続けたあげく、都はすべての抵抗を放棄し、怠惰の淵に身を沈めていた。
月の季節が去り、再び長い靄の季節をむかえようとしている今、一年中上空を覆っている厚い靄の層が下降してくる前触れとして、針の林のような尖塔(せんとう)群が薄い暈(かさ)を着はじめている。船がその中へと侵入していくにつれて、朝の眠りをかき乱された水鳥の群れの、水を蹴って飛びたっていく羽音が、あたりに満ちた。
――領主の館へ。
東の大門から都に入った船は、船長の命令で都を東西に横断して流れる大水路に漕ぎ入った。
長びくいくさに疲弊して、なかば廃墟と化した無人地帯がしばらく続く。そのうちに、水路を行きかう小船の数が徐々に多くなりはひめ、やがて行く手から、群衆のざわめきが水面を伝わってくる。無数の平底船がもやって水上の朝市をひらいている円形広場に船が入っていった時、朝を告げる寺院の鐘の音が、湿った空気を震わせて殷々(いんいん)と響いてきた。
広場の一角で声があがった。
と同時に、その頭上にそびえる伽藍(がらん)の鐘楼が、ほとんど音をたてずに崩れはじめた。石造りの尖塔全体がゆっくりと崩壊し、夥しい水柱をたてて瓦礫(がれき)が広場の水面を割る。垂直に落下していく石壁の中に、青銅の大鐘とひとりの僧侶の姿が一瞬見えたが、またたく間に水煙の中に消えていった。
広場の群衆は、影絵芝居を見るような眼つきで、この無言劇をあおぎ見ていた。が、やがて水音が徐々に静まっていくと、たちまち関心を失って、そそくさと仕事に戻っていく。

舞台はまたしても架空の都市。〈千の鐘楼の都〉と名付けられたこの都市は水没しつつあり、老朽化といくさによって疲弊しきっている。この廃れっぷりがたまりません。「千の鐘楼」というくらいですからかつては無数に林立していたであろう尖塔は、今や崩落するに任せられている。それどころか、たとえそこに僧侶が巻き込まれていようとも人々は無関心です。
都市を、眠りの浅い年寄りに例えているところがいいですね。あとは衰退していくだけであり、それを受け入れて怠惰に横たわるのみ。都の名前となっている鐘楼が崩落していくように、この都市もまた「音をたてず」「ゆっくりと」滅びへ向かっているのでしょう。
それから「水」の描写にも魅かれます。水は影を映し、水は音を運ぶ。川から水路へ、そして円形広場の水上朝市へ。水鳥が水音を立て、瓦礫は水柱と水煙を上げます。そして何より「長い靄の季節」です。靄が下降し都市をすっぽりと覆う季節。水分を含んだ空気をまとわりつかせ、世界がしっとりと濡れている。この横溢する「水」のイメージに、やられてしまいます。
主人公は領主の娘、水蛇。これ、名前ですからね。しかも水がらみ。そしてもう一人、見知らぬ川上の土地から流されてきた少年、銀眼。水蛇は、銀眼が「月の門」の出身に違いないと見抜き、彼を船の漕ぎ手としてそばに仕えさせます。月の門とは川上にある伝説の地の名前で、そこにある湖で夜毎月が水中から登ってくると言われている。水蛇はことあるごとに、銀眼に「月の門」について訪ねます。「月の門にいたのなら、月のことを覚えているだろう」と。

――月だよ、言葉がわかるかい。この光が月の光なんだよ。
水蛇は腕をひろげて周囲を示した。小船を取りまく傾いた列柱の間を濃いガスが流れて、薄い微光の中に、濃淡の縞模様を浮きあがらせている。
――違う。こんな光では、なかった。
銀眼は、考え考え答えた。
――もっと濃い、強い光。肌ざわりのなめらかな……水のような光。
(中略)
――空気も、こんなに暖かくはなかった。ずっと冷たくて、乾いていて、何の匂いもなかった。
一心に喋りつづける銀眼の言葉を、水蛇は器用に鳥をさばきながら聞いていた。
――水も同じこと。この都では、何もかも暖かすぎて、匂いが濃くて、邪魔なものが混じりすぎている。
――住んでいる人間は?
――都の人間は、皮膚の色も濃いし、血や肉が熱すぎる。それに、面倒なことを考えすぎる……。

「濃い」光? 光の「肌ざわり」? 「水のような光」? 僕らが光について表現する際には使わない言い回しですね。なんだか謎めいています。ただわかるのは、銀眼からすればこの都市は「暖かすぎる」ということ。そして、不純物が混じりすぎている。熟れて腐っているようなイメージかな。一方、月の門へ強い関心を持っている水蛇もまた、この都の退廃ぶりに違和感を覚えているんでしょうね。領主の娘でありながら、「面倒なことを考えすぎる」者たちに、きっぱりと背を向けて暮らしていることからも、それは窺えます。
やがて「靄の季節の祭り」の日がやってきます。いろいろと事情があったりもするんですが、その騒ぎに乗じて水蛇と銀眼は都を出ることになる。

水路のわかれ目ごとに、水蛇が叫んだ。銀眼は眼がくらんで、夢中になって漕ぎ続けた。
水路には夥しい小船があふれていた。船べりはいちめんに羊歯の葉と鳥の羽毛で飾りたてられ、無数の松明(たいまつ)がその上で炎をあげている。人々は、水鳥の白い羽毛や、茶に緑と朱の斑点のある夜鳥の尾羽を混ぜて編んだ羊歯の冠を頭にかざり、胡弓を手にして、陰気で単調な旋律をかなでていた。時おり、あちこちの寺院の尖塔で、貝殻がぼうぼうと吹き鳴らされる。そして船べりを叩いて拍子をとる、無数の茶色の手。
混雑の激しい路地を縫って、東の大門へ通じる大水路に近づくにつれて、空気中の火薬の匂いが強くなった。何かの破裂する音が続けざまに響き、石の棟々が一瞬逆光を浴びて黒い輪郭を浮かびあがらせる。
最後の角を曲がったとたん、顔面に強烈な白光を浴びて、銀眼は思わず顔を覆った。
大水路を埋めつくす船の灯が、領主の館をめざして流れを漕ぎくだっていく。そのあい間を縫って、仕掛け花火の火の筋が水面を縦横に走り抜け、あちこちで唐突に破裂していた。柔らかい爆音とともに、水面すれすれで、球型の光塵(こうじん)が大鐘ほどの大きさに膨れあがる。靄の中に光の粉をまき散らす花火を避けようとして、あちこちで小船同士が船腹をぶつけあい、そのたびに罵声(ばせい)が飛んだ。

非常にテンションの高い描写で、ぞくぞくしますね。映画でいうとカット割りが細かい、という感じでしょうか。細かな描写の積み重ねから、祭りの喧噪がびりびりと伝わってくる。たくさんの音がしています。胡弓、貝殻、船べりを叩く音、爆発音、船のぶつかる音、罵声…。さらに、犇めく視覚的なイメージ。羊歯と鳥の羽毛の飾り、松明、茶色い手、花火の光と浮かびあがる黒い影…。
まるで靄の中から次々に現われるように、こうした音やイメージが列挙されていく。そこに感じられるのは、祭りの楽しさというよりも、不穏さやいかがわしさです。狂騒というか、「邪魔なものが混じりすぎている」退廃感が火薬の匂いのように漂っている。銀眼の漕ぐ船は、それらを必死ですり抜けていきます。
都を出た水蛇と銀眼の目指す先は、当然、月の門です。川を上り日が経つにつれて、どんどん空気が冷たくなってくる。「暖かすぎる」都から、冷たい上流へ。そしてようやくたどり着いた月の門は、切り立った崖に囲まれた滝壺の周りの集落でした。そこで、水蛇たちの到着を待っていた長老は、二人のために崖の上の小屋を準備しておいたと言います。この場面が、またえらく美しいんだ。

ほとんど垂直に切りたった断崖の片隅には、岩を切りだして穿(うが)たれたジグザグの石段が、頂上まで細々と続いている。崖の根方から見あげると、天の高みまでうねうねと続いているように見えるこの数千層の階段を、前夜、水蛇と銀眼は村人に導かれて登っていったのだ。滝の吹き出している黒い口が真横に見えるあたりまで登ってくると、眼下の集落の屋根屋根は、滝壺の水煙りにかすんでほとんど識別できなくなった。時おり、毀(こぼ)たれた石の破片がからからと乾いた音をたてて、はるかな闇の深みへと逆落としに落ちこんでいく。その音だけが、異様にいつまでも一行の耳の奥に尾を曵(ひ)いて残った。
崖の上にひろがる湖の水は、氷点ぎりぎりの冷たさだった。その冷水に覆われた遠浅を二百歩ほど沖へ進んだところに、高床式の簡素な小屋が、水面に影を落としていた。中には、西に向いた扉のほかに吹き抜け窓が東側にひとつあるだけで、床の中央に炉が切られている。その炉に火を起こして、ふたりは最初の一夜を過ごしたのだった。

うっとり。滝壺のまわりの集落から切り離された崖の上に湖があり、その遠浅の中に小屋がぽつんと建っている。なんて静謐な光景なんでしょう。ここに至っても水のイメージであふれているわけですが、千の鐘楼のやかましさとは対照的。まさに冷たくて匂いがなくて不純物のない世界です。波立つことのないこの巨大な湖の遥か沖、その水中から月が登る、と長老は言います。
川下には澱んで緩慢に崩れていく世界があり、川の源流には月の生まれる静謐な世界がある。しかし、あまりに美しく静的なこの世界もまた不吉な気がします。不純物のない完璧な世界は、調和が乱れることを許さないように思えるからです。そこでは、わずかな異物、わずかな瑕がカタストロフを招いてしまう。それは純粋な分、急激で強大な滅びの力となる。
さあ、クライマックスです。読んだときにびっくりして欲しいのでこれ以上の展開には触れませんが、すごいことが起こるんですよ。それも、山尾悠子の描写力があってこそ可能な展開。前に出てきた「水のような光」や「水中から昇る月」も、比喩じゃなくて文字通りに読めばよかったということがわかる。そればかりか、一気にあふれ出すイメージの奔流にあっけにとられ、「え、そんなことになっちゃうわけ?」とあっぷあっぷしながら着いていくのに必死。というか、もう流れに身を任せるしかありません。
かくして物語は終わりを告げます。様々な水が描かれてきましたが、エピローグ的に添えられた最後の場面では、水は穏やかに凪いでいます。でも、水底には世界の名残が揺らめいている。ああ、なんという余韻でしょうか。堪能しました。


「遠近法」
これは山尾悠子の代表作ですね。むかーし読んだときも非常に印象深かった作品。《腸詰宇宙》というまったく架空の世界の構造が、断章形式で描かれています。まず、最初の二つの断章を紹介しましょう。

《腸詰宇宙》(とその世界の住人は呼んでいる)は、基底と頂上の存在しない円筒型の塔の内部に存在している。その中央部は空洞になっており、空洞を囲む内壁には無数の環状の回廊がある。回廊は一定の間隔を置いて、円筒の内部に無限に存在する。どの層の回廊も完全に一致した構造を持っており、この秩序は、塔の上下いずれの方向にむかって仔細に検討していっても、変化することはない。

回廊および円筒の内壁(宇宙の内壁)は、すべて、古びて表面の摩滅した濃灰色の石組みで構築されている。回廊には、ひとつの層につき約百人前後の人間が住んでおり、彼らは一生をこの石造りの宇宙の中で過ごす。回廊と回廊の間は、欄干(らんかん)から垂らされた縄梯子(なわばしご)によって連絡されているが、長い年月を補修されないまま放置されているために腐りかけたものが多く、層の間同士の交流が行われることは滅多にない。

はい、想像してみてください。こういう作品は、読む側もイマジネーションを総動員しなきゃいけません。塔の内側にある回廊が何層にも渡って無限に続いている世界。便宜上「塔」と言ってますけど、「基底と頂上の存在しない」とあるように単なる円筒状の宇宙と考えたほうがわかりやすいかもしれません。それに、これが塔かどうかは中に暮らす人たちにはわかりようがない。ただただ上にも下にも同じような回廊が連なっているばかり。
では、この世界で人々はどのように暮らしているのでしょうか? ある意味、思考実験のようなものですが、僕はこういう実験は大好物です。山尾悠子は世界の法則の断片を積み重ねていくことによって、それこそ建築のようにこの《腸詰宇宙》を組み立てていきます。

《腸詰宇宙》において、人々の視覚は遠近法の魔術によって支配されている。
朝、自分の回廊の石床の上で眼ざめた人々が最初に眼にするのは、奈落を隔てた同階の回廊の反対側――その欄干越しに、起きだした人間たちの姿が小さく蠢いている様子である。奈落に浮遊するおびただしい埃(ほこり)が朝の曖昧な光の中に浮かびあがり、それを透かして見る向かいの回廊の奥には、夜の空気の名残が澱(おり)のように沈殿している。
毎朝の日課に従って、人々は欄干のきわにぞろぞろ出てくる。回廊群の狭い面積に比べて、圧倒的に巨大な空洞の空間には、人々のざわめきが奥深く反響し、圧縮された群衆の熱気が犇(ひしめ)いている。欄干から身を乗りだして奈落を見渡せば、そこに展(ひら)けるのは眩暈(めまい)をひきおこす大光景――石の大建築の持つ、虚無的な意志が極限にまで達せられた大俯瞰(ふかん)図だった。無限に積みかさねられた石の回廊群とその欄干に蝟集(いしゅう)した蟻の群のような群衆の姿。世界は上方と下方にむかって涯(は)てしなく存在し、合わせ鏡の反映像めいた尻すぼまりの繰り返しの像を無限に増殖させている。この幻想的な遠近法の魔術に魅入られて、欄干を越えて投身していく無数の人影が、毎朝のように人々の眼を驚かせる。
そしてはるか上方の、合わせ鏡の反映像の極点に、微細な光の点が出現するのを人々は見る。異様な光量を増しながら光球は見るみる大きくなり、やがて人々の前に威圧的な量感を持つその姿を見せはじめる。日に一度、奈落を垂直に上から下へ通過していくその天体を、人々は太陽と呼んでいる。

朝の光景です。朝の光に舞う埃、そして響き渡る人々のざわめき。この円筒型の宇宙の特徴は、内側に空洞を抱えていることだというのがよくわかる描写です。そしてもう一つの特徴が、上下のみに連なる世界だということ。つまり、遠いか近いかしかない世界なんですよ。「遠近法」というタイトルはここからきています。しかも、どの階層の人々も朝になると欄干に集まるという同じ行動を取る。これを眺めたときの、えも言われぬ無限感はまさしく「合わせ鏡」です。
やがて、最初は小さな光の点だったものが上から降りてきて、近づくにつれて巨大な球となり目の前を通り過ぎていく。「その天体を、人々は太陽と呼んでいる」にシビレます。ここに至るまでは建築物の中の話のようにも読めたんですが、そうじゃなくてやっぱり「宇宙」を描いていたんだとわかる。ああ、くらくらします。
このあとも、この世界の法則が次々に語られていきます。「月の領する夜の時間は、交合と死の儀式の行なわれる時間だった」「この上下対称性をきわだたせるためか、床側の欄干とまったく同じつくりの欄干が、人々の頭の上、天上の側に、逆様に取りつけられていた」「雲は天体と同じく高みから降下してくるが、その出現はまったく気まぐれでいかなる法則性も持たず」うんぬんかんぬん。そのたびに、世界の解像度が増していく。何度も言うようですが、こういうの大好きです。
ところでこの作品は、作者が「彼」と呼ぶ人物から聞かされた未完の小説の草稿、という形式で書かれています。しかも、アイディアのヒントになったのはジウリオ・ロマーノによるテー宮殿の天井画だと語る「彼」に、作者は《腸詰宇宙》とボルヘスの「バベルの図書館」の類似を指摘します。ということで早速、画像検索。ロマーノの天井画を見てみました。なるほどね。《腸詰宇宙》で上方を見上げるとこんな感じになるんでしょうね。ボルヘスの「バベルの図書館」は確かに似ていますが、ボルヘスが設計図を眺める魅力だとしたら、山尾悠子の方は実際の建築物をさまよう魅力、という気がします。
それにしても、なぜこの作品は、他者による未完の草稿というややこしい構造になっているんでしょうか? 山尾悠子は、繰り返し「架空の世界を言葉で構築する」ということを試みている作家です。それを世界の側から見れば、「世界は書かれることによって存在する」ということになります。もっと言っちゃうと、僕らが暮らすこの世界も誰かに書かれたがために存在している、と考えることだってできます。だとしたら、この世界を舞台にした小説はすべて誰かが書いた言葉をなぞっている、ということになるんじゃないかと。そうなるともはや、作者が誰かということは大きな問題ではなくなります。
って、自分でもよくわからないまま書いているので、なんだか生煮えの考察で申し訳ありませんが、「架空の世界を言葉で構築する」というのは、存在しないものを無理矢理自分の中からひねり出すのではなく、他者の言葉によって存在しているものをていねいに描写することかもしれないなあ、と考えたりするわけです。意識的にせよ無意識にせよ偶然にせよ、「彼」が天井画やボルヘスをなぞってしまっているように。
さて、この作品の後半では、《腸詰宇宙》の人々が、世界の涯はどうなっているのか、世界の成り立ちはどんなものだったのか、世界の外には何があるのかを探求します。これらのエピソードは、どれもすごく面白いです。しかし、彼らのその試みはことごとく失敗に終わります。世界の全体像を彼らは知ることができないんですよ。世界の仕組みを見通せない者にとって、世界はそこにあるから存在している、としか言いようがありません。あるからあるのだ、そうなっているからそうなのだ、と。
一方、この草稿の外の世界では、作者の前から「彼」が消滅してしまいます。テーブルに残されたのは、この「遠近法」の原稿のみ。つまり、《腸詰宇宙》を残して書き手は消えてしまったということです。結局、書かれたものが世界のすべてなんです。なぜなら、そこに書かれているからこそ世界はあるのだから。


ということで、今日はここ(P168)まで。山尾悠子の幻視力に圧倒されっぱなしです。ちなみに、山尾悠子には「遠近法」と同じ世界を舞台にした作品、「遠近法・補遺」と「火の発見」があります。後者は『歪み真珠』という作品集で読みました。前者は未読。こちらもいつか読んでみたいな。