『シガレット』ハリー・マシューズ【5】


知的快楽というのも読書の楽しみの一つ。「精緻なパズルのごとき構成と仕掛け」と帯にありましたが、それが存分に味わえる作品でした。こうした構成を、作者はある種のアルゴリズムを用いて組み立てたと語っているそうです。どういうアルゴリズムかは見当がつきませんが、このパズルのピースとなるのが、登場人物と時間です。
この小説では、章ごとに異なる二人の人物の関係が描かれ、時間がシャッフルされた状態で展開していきます。ということで、この作品の見取り図を描くためにすべての章タイトルを書き出してみました。年号は見やすくするために算用数字にしています。

  • アランとエリザベス 1963年7月
  • オリバーとエリザベス 1936年夏
  • オリバーとポーリーン 1938年
  • オーウェンとフィービ I 1961年夏―1963年夏
  • オーウェンとフィービ II 1962年―1963年
  • アランとオーウェン 1963年6月―7月
  • ルイスとモリス 1962年9月―1963年5月
  • ルイスとウォルター 1962年6月―1963年6月
  • ルイーザとルイス 1938年―1963年
  • アイリーンとウォルター 1962年5月―8月
  • プリシラとウォルター 1962年6月―1963年4月
  • アイリーンとモリス 1945年―1963年
  • ポーリーンとモード 1938年夏
  • モードとプリシラ 1940年―1963年
  • モードとエリザベス 1963年7月―9月

年代は1936年から1963年まで。実は、主となる話題は1963年の夏に集中していて、そこに至る経緯やら因果関係が過去との往復で見えてくるという仕掛けです。登場人物は13名。ほぼみんな、ある種の上流階級に属しています。狭いサークルの話なんですよ。それぞれの人物像が明らかになっていくにつれ、関係のベクトルが複雑な網目のように入り組んでいく。その結果、Aがとった行動がBに影響を及ぼしそれがCへの反応として現れるなんてことがしばしば起こります。その網の目がこんがらがって団子になるのが1963年の夏、というわけです。
もしくは織物かな。様々な色の糸がもつれているように見えてひっくり返すと刺繍で絵が描かれているような、そんな感覚。こんがらがった糸の束を何じゃこりゃと眺める楽しみと、出来上がった絵を眺める楽しみ、その両方が味わえる。読了したときも書きましたが、その絵はところどころぼやけていたり欠けていたりします。よくわからないところもある。でも、パズルのようにきれいに解けないところが、織物の生地のよれ具合を楽しむようで面白い。
特徴的なのは、どの登場人物からも等距離にあるような文体。まさにパズルのピースを眺めるように、網目を上から俯瞰で眺めるように、誰にも寄り添うことなく突き放したタッチで書かれています。誰のことも好きになれないような、でも嫌いにもなれないような、そんな距離感。そんな文体で、AからBへさらにCへとトラブルが波及していく様が書かれると、誰がよくて誰が悪いとかじゃないよなあという気がしてくる。みんなそれぞれが何かしらに関わっていることになるわけです。この辺は、映画監督ロバート・アルトマンの群像劇を思わせたりしますね。
登場人物たちは時に鼻持ちならない態度をとり、時に愚かで情けない姿を見せる。いや、もっと言っちゃうと、恋、憎しみ、悲しみ、驚き、様々な感情にかられて誰もが何かをやらかしてしまう。この小説の読みどころは、そうした心理が、意地が悪いくらいにみっちりみっちり描かれているところ。実は僕は、パズルの謎解きと同じくらい、いやもっとかな、この「しょうもない人間たちのしょうもないドラマ」という点が面白かった。だって、そういうのわかるじゃないですか。僕だってこれまで何度やらかしてきたことか。さらに、やらかされてきたことか。
作者は、そんな彼らを責めもしなければ擁護もしません。そこに僕は、人ってのはそういうものだ、という人間観を感じます。誰だって「しでかしてしまう」ものなんですよ。それに、しでかす人を見ているのは実に面白い。「他の人を見るのは楽しいわ。そのために人類はバーを発明した」とエリザベスは言っていましたが、この作品の文体はまさにバーで見知らぬ人をじろじろ観察しているかのようです。そう、距離感。
でも、なぜ僕らはそんな風にして他人の人生を覗き見たくなるのでしょう。誰かの人生を覗くという意味では、小説もまた同様です。なぜ僕らは小説に夢中になるのか。エピローグで語られている思索は、その一つの解答のように読めました。いや、解答を無理に出さなくてもいいか。パズルのようには解けないパズル。その手触りを楽しむだけで、今のところは十分です。


ということで、『シガレット』についてはこれでおしまい。再読したら、また違う絵が見えてきそうですけどね。