『シガレット』ハリー・マシューズ【4】


読み終えました。途中はちんたら読んでたのに、後半は一気にスパート。なぜエリザベスの肖像画が売られることになったのか、なぜプリシラはモリスの生命保険の受取人になったのか、ハイヒールとは何者なのか、ルイスとプリシラの間に何があったのか、などなど、大きな謎から小さな謎までカードをめくるように次々と明らかになっていきます。その構成の巧みさもさることながら、読み終えてみると、そうした謎解きよりもちょっと違うところに感慨があったりして。
では、6章分だだっといきます。


「アイリーンとウォルター 一九六二年五月―八月」
画商のアイリーンと、才能のある画家ウォルター。アイリーンが画廊でウォルターの作品を扱うようになった経緯が描かれます。ここでやっかいなのは、ウォルターがアイリーンに一目惚れしてしまうこと。彼はこの段階で50代だと思われるんですが、もう中学生みたいに、アイリーンにつきまとう。彼女のほうもいい大人ですからね。時にやんわり、時にきっぱり断るんですが、ウォルターは聞きゃあしません。
面白かったのは、ウォルターがアイリーンをクラシックのコンサートに誘う場面。このコンサート、屋外で絨毯の上に横になって聴くんですよ。当時の上流階級では普通のことなのかな? わかりませんが、ウォルターは音楽を聴きながらもアイリーンのことで頭がいっぱい。あおむけになったまま、夢心地です。そして…。

彼はふとわれに返り、目を開いた。アイリーンが身に着けていたカシミアのショールが彼の腰部にアルプス山脈のような格好で掛けられていた。アイリーンは「怒りの日(ディエス・イレー)」へとなだれ込む演奏者らをじっと見ていた。彼女は左右の指をしっかりと組み、かすかに震える下唇を上下の歯で強く噛んでいた
ウォルターは大きな声でうなった。いったいいつになったら、ズボンの前あきを閉め忘れることがなくなるのだろう。彼は少しの間、短剣かアイスピックが手元にあればすぐにでも自分の胸に突き刺したいと思った。死は容易に手に入りそうにないので、彼は逃げ出すことにした。彼は立ち上がりながらショールを強情な勃起の周りに集め、太陽の照る広場を駆けだし、スキーの回転かアメリカンフットボールのブロークンフィールドのように、居並ぶ人間という障害物を即興の身のこなしでかわした。彼は町に戻り、自分のアトリエにたどり着くまでスピードを緩めなかった。

ぎゃん! これはたまらんですよ。「アルプス山脈」って! 目を開けたあとのウォルターの思考をなぞると、こんな感じでしょうか。ん、腰のあたりに何かあるぞ→ああ、彼女のショールか→山脈みたいだなあ→わ、勃起してるじゃん→つうか、ズボンの前を閉め忘れてるじゃん!→ショールはそれを隠すためのも?→てことは、うわー彼女に気づかれた!→恥ずかしい! いっそ死んでしまいたい! このあとの逃げっぷりはマンガですね。踵から煙りが出そうな勢いです。逃げてどうにかなるもんでもないんですが、ひとまずその場から消えたくなる気持ちはよくわかる。


プリシラとウォルター 一九六二年六月―一九六三年四月」
プリシラがフィービを押しのけウォルターに、ルイスを押しのけモリスに取り入った経緯が描かれます。彼女はこの作品の登場人物の中では最も若い世代に属するんですが、大人たちを上手にたらし込み、ぐいぐいと押の一手で野心を満たしていきます。例えば、ウォルターとの関係を長続きさせるために必要なのは、「ウォルターが抱いている絶好の欲望、彼女の欲望への彼の欲望だとプリシラは確信していた」とあります。すごいよね。つまりウォルターの欲望とは、彼女そのものにあるのではなく、「彼女が彼を欲しがっているという気持ち」にあるのだと。それを、学校を出たての女の子が見抜いちゃってるんですよ。どっちもどっちだという気もしますが、彼女のほうがしたたかです。
さらにプリシラは、画商であるアイリーンを閉め出し、モリスがウォルターの作品の売買を仲介するように差し向けます。

彼女が作品に求めることは多くなかったが(結局、モリスはそれらの絵画を一枚も売らなかった)、作品は時に彼にとって重要な意味を持つ場合が――単に新作だからというのも含め――あった。そうしたとき、プリシラは執拗に彼に迫り、彼の同意を自分の影響力を測る道具兼手段とした。私と約束しなかった? 私のことが信用できない? 私のことを愛していないの? 彼女は一つ一つの勝利によって、ウォルターの人生における自分の地位を少しずつ確かなものと感じた。そして彼女は、その地位を最高位だと証明するかのように、エリザベスの肖像画をモリスに引き渡すようウォルターを説得するという試練を自分に課した。

「彼の同意を自分の影響力を測る道具兼手段とした」とありますが、これは身に覚えのある人、多いんじゃないかな。「私のことを愛していないの?」と言いながら、問題となっているのは愛ではありません。問題は主導権であり、相手の中の自分の地位です。そしてついに、ウォルターにとって最初に描いた人物画であり非常に大切な作品、エリザベスの肖像画を売りに出すという同意を引き出します。肖像画をめぐるドタバタは、そもそもプリシラがきっかけだったのか! と言いつつ、まだひとひねりあるんですが。


「アイリーンとモリス 一九四五年―一九六三年」
姉・アイリーンと弟・モリスの関係が、彼らの思春期までさかのぼって描かれます。モリスの性癖の最初の発露、最初の心臓発作、そして現代美術への目覚め。

彼は哲学的傾向を捨てなかったが、美術作品を文化的な歴史の現れと考えることは減り、個人の活動と見なすことが増えた。彼の態度におけるこの変化は、絵の題材や象徴的価値とは無関係で、一般的な意味における形態にも関わらなかった。彼に関する限り、彼が興味を抱く「個人の活動」は常に外見に現れていた――筆致、肌理、色調。モリスは現代美術に異常な共感を持つようになった――まるで死の脅威によって彼の目から鱗が取れ、現代美術が美術の正体だと気付いたかのように。というのも、現代美術は美術の重心を、本来それがあるべきその媒体の表面に移動しようと全力を傾ける試みだから。

この考え方は、わからなくもないですね。テーマではなく、描かれた「タッチ」こそが画家個人の最たるものだ。美術なるものはすべて、表面にしかない。美術理論とかを勉強すれば、こうしたスタンスを表す言葉がありそうですね。いや、よく知らないのでそれ以上のことは言えないんですが。



「ポーリーンとモード 一九三八年夏」「モードとプリシラ 一九四〇年―一九六三年」
ここから最後の章まで、それまで後景に退いていたモードが前面に出てきます。アランの妻でポーリーンの姉でプリシラの母。そんな肩書きでしかわからなかった彼女の人物像が、ここへきてくっきりと見えてきます。
最初のほうでほのめかされていましたが、モードとポーリーンの姉妹の間にはかつてトラブルがあったんですよ。「ポーリーンとモード」では、その経緯が描かれます。ポーリーンはモードにじくじくとした恨みを抱いています。さあ困った。
次の章は母娘。「モードとプリシラ」では、プリシラの少女時代から、彼女が母・モードの前でとんでもない爆弾情報をぶちまけるところまでが描かれます。モードは娘に激怒。さあたいへん。


「モードとエリザベス 一九六三年七月―九月」
そして最終章。ぐるーっと回って、いっとう最初の章でアランが盗み聞きしたモードとエリザベスが交わした会話の真相が明らかになります。そして、この二人の50代女性は友情を育むことになる。
献身的な妻であり母であるモードを、エリザベスは「もっと楽しみましょう」とばかりに外へと連れ出します。例えば、エリザベスがモードをバーへと誘うシーン。

「私に構わず、お一人でどうぞ」
「昨日とはまた違うわよ」
「昨日の私のざまを見たでしょう。家でなら心置きなく飲める」
「どうして?」
「見知らぬ人たちにじろじろ見られるのが苦手なの」
「それが楽しみの半分なのに。特におしゃれをすれば、見られるのが楽しくなる」
(中略)
「後の半分は? さっき『楽しみの半分』って言ったでしょ?」
「あなたが言ってた通り、じろじろ見ること。じろじろじゃなくても、とにかく見ること。他の人を見るのは楽しいわ。そのために人類はバーを発明した――楽しむために」

これ、洒落たセリフだなあ。バーでの楽しみの半分はじろじろ見られること、そして残りの半分はじろじろ見ること。いかにも人生の楽しみすべてを味わいつくそうとするエリザベスらしい考え方です。美男美女を眺めるのはもちろんのこと、そうじゃなくても面白い。あの人とあの人は付き合ってるのかな? あの人は仕事で何かあったのかな? あの人は遊び人だな。あの人は一見の客だな。とかなんとか。
と同時に、これはこの小説についてのセリフのようにも思えてきます。人の人生をじろじろ見て楽しむために、人類は小説を発明した。そんな風に思えてくる。この作品で描かれている様々なトラブルは、読者にとっては些事でしかありません。肖像画がどうなろうと知ったことかと。でも、それが面白いんですよ。ちょっとしたトラブルにも、背後に様々な思惑があり、すれ違いがあり、偶然のいたずらがある。それを垣間見る楽しみ。さらに別の角度から見ると違う事実が出てくる楽しみ。すべての読者は覗き屋です。

彼女は自分の未来を皆に分け与え、この夜は自分で独り占めした。彼女は願望のとげである星を――今晩は数が少なかったが――見上げた。月明かりが夏の大地を照らし、銀色の葉叢の柱や丘の所々が不規則に浮かんで見えた。モードは地面を踵で押してブランコを後ろに揺らし、その反動で前に揺らした。彼女は脚を曲げたり伸ばしたりしながら、月が見える高さまで揺らすことができるだろうかと考えた。まるで家の向こうに巨大な都市が隠れているかのように、高く揺らせば揺らすほど、屋根のてっぺんから覗く光の靄が強まった。サンダルは足から脱げていた。十分間、彼女の足指の間を穏やかな空気が吹き抜けた。
「できることなら」彼女は屋内に戻ってから言った。「できることなら、夏が終わらなければいいのに。少なくともあと二か月」

いいなあ。こういう描写に僕はグッときてしまいます。夜の庭で一人ブランコを漕ぐおばさん。屋根の向こうににじむ月明かり。足の指の間を抜ける風。彼女の中に、生き生きとした夏の若さがよみがえってくるかのようです。ギスギスしたこの物語の終盤に、こんなに穏やかなシーンがあるとは思いませんでした。
ストーリーに関しては、もうこれ以上は詳しく書かなくてもいいでしょう。このブランコのシーンに象徴されるように、最後にはいくつものトラブルが嘘のように収束に向かいます。ただし、すべてじゃないけどね。この「すべてじゃない」というところが皮肉というか、意地が悪いというか。


そして、最後にエピローグ的な章が付け加えられています。

私は歩きながら、ある問題を考えた。まだ答えの出ていない、唯一の興味深い問題。すなわち、アランがエリザベスに宛てた手紙がどうして第三者の手に渡ったのかという問いだ。

この作品、冒頭にだけ「私」という一人称が登場し、あとはずーっと三人称で書かれていたんですが、最後の最後にまたしても「私」が登場します。この人物が言うように、すべてを読み終えた今も解けない謎がいくつか残っています。全体像はある程度見えるんですが、絵のあちこちがぼやけたり欠けたりしている。注意深く読めば、ヒントがあるのかもしれないし、ないのかもしれません。結局、すべてをくまなく見通すことはできない。でも、他人の人生ってそういうもんだよね。
この「私」が誰なのかというのは伏せておきますが、冒頭でこの人物はこう書いていました。「私は理解したいと思った。いつかこの人たちについて一冊の本を書こう。話を一つにまとめようと思った」。なぜ理解したいと思ったのか? 果たして理解することはできたのか?

そんな状況で私は時々思う。私の中にいる死せる存在の余力こそがそもそも私に生き延びる力を与えているのだと。

「死せる存在」とは、この作品の中で右往左往していた愚かで人間臭い登場人物たちのことかもしれません。


ということで、『シガレット』読了です。