『シガレット』ハリー・マシューズ【3】


間が空いちゃいましたが、一気に4章分いきます。だんだんパズルのピースが埋まってきましたよ。


「アランとオーウェン 一九六三年六月―七月」
6〜7月ってことは、フィービが入院している間の出来事ですね。この章で登場するのは、フィービの父オーウェンといっとう最初の章に出てきた浮気男アランです。でも、その前に、冒頭部分で前章でほのめかされていた名前がバラバラと出てきます。
フィービの兄・ルイスの友人であるモリスが亡くなり、彼が生命保険の受取人をプリシラに指定していたことが発覚します。モリスの姉・アイリーンは、そのことをまったく聞かされていなかったことに驚く。ちなみにプリシラは、保険業を営むアランの娘です。なんかややこしくなってきていますが、なんだかんだ言ってみんなつながってるわけですよ。モリスが何者なのか、プリシラとどういう関係にあるのかは、まだわかりませんが、すぐに次の章でわかるのでここは我慢。
情報が後出しで出てくることで、今まで見えていた絵とは違う絵が浮かび上がってくる。それが、この作品の面白さです。例えば、このあと「ハイヒール」というあだ名の女性も出てきますが、あだ名というのがミソです。作者はここではわざと本名を伏せているんですよ。で、読者はこれまでに登場したあの人物じゃないかとなんとなくアタリをつけたりしながら読む。そういう企みがあちこちに仕掛けられています。
さて、アランとオーウェンの話です。エリザベスの肖像画が盗まれたと、アランが画廊を経営するアイリーンに連絡し、それを聞かされたオーウェンはアランに疑いを持ちます。フィービとの関係に疲れたオーウェンは、それから逃れるように執拗な調査を続け、やがてアランの過去の詐欺事件へとたどり着く。さすが、やり手のビジネスマンだけのことはありますね。

彼は知恵比べでアランに勝つこと以上の欲求を感じ始めた。目の前にいる金持ちで名声のある同業者は、保険業務に携わりながら何年もそのシステムを悪用し、今もまた、うまく逃げ切ったと満悦の体(てい)でにやついている。腹が立ってきたオーウェンは、単にアランの正体を暴くだけという当初の計画を捨てた。価値観の問題だ。自分にはアランに相応の罰を与える道徳的資格がある、という考えに、彼はまったく疑いを抱かなかった。

「知恵比べでアランに勝つ」ってのは、どっちが上か見せつけてやるってことでしょ。オーウェンは、つくづくこういう発想でしか行動できないんだなと思います。これは、フィービにやり込められている間の出来事。娘との関係で自分の立ち場が揺らいでいるせいで、他の獲物をつかまえたという印象です。しかも、「罰を与える」って何様でしょうか。「道徳的資格がある」なんて言ってるけど、オーウェンだって詐欺行為を働いたことがあるんですよ。なのに、そのことは棚に上げちゃってるわけです。「という考えに、彼はまったく疑いを抱かなかった」とありますが、これは裏を返せば「その考えが正しいかどうかは疑わしい」ということです。

アランは自分を一人前の男ではなく、幼い子供と見なしていた――夢想の中の彼は、様々な子供らしいばかげた不運を切り抜けていく子供だった。彼は屈辱的な負けを喫したのが悔しかった。たった一枚の絵と一人のインチキな損害査定人のために、どうしてこんな辱めを受けなければならないのか。いったい何があった? クッキーの瓶をちょっと覗いただけなのに、食器棚ごと手前に倒れてきたようなこのざまだ。彼がアイリーンに電話し、罪のない嘘をついたのは、アイリーンがその話をモードに伝えると期待していたからだ。話を聞いたらモードは、それを信じて、あるいは嘘に気付いてぞっとするだろう。いずれにしても、彼女は彼の所にやって来ることになり、また一緒に暮らす生活を取り戻すことができただろう。この戦略は別の、もっとおとなしい、子供時代のいたずらを思い起こさせた――母親の気を惹くためにしばしば仕掛けたいたずらを。新しい靴が片方「なくなった」というのがお決まりの手だった。それをやれば叱られ、罰せられるが、忘れられた子供ではなくなる。しかし今回は、一人の探偵が予告もなく靴屋からやって来て、牢に入れると彼を脅した。訳が分からない。

食器棚ごと倒れてきたってのは、面白い比喩ですね。まさしくそんな感じ。過去の詐欺事件はそりゃあ大きな問題ですが、エリザベスの肖像画はそれとは関係がありません。僕は子供の頃、ふざけて友達の教科書を隠したことがあったんですが、それが学級会で大問題になったということがありました。「授業が始まったらすぐ返すつもりだったのに、泥棒だと思われちゃう」とけっこうショックだったんですよ。決して誉められたことをしたとは思っちゃいませんが、今なら先生もあんな大ごとにすることはなかったのになあと、思えるんですけどね。
実際、エリザベスの肖像画もアランが隠しただけで実は盗まれてなんかいないんですが、その理由はたいしたものではありません。エリザベスとの浮気のせいで別居中の妻モードに、戻ってきて欲しいというところから出た、非常に子供じみた行動。前回、人は誰でも「しでかす」ものだと書きましたが、これもその一例ですね。それが何の意味があるのかよくわからないままに、バカげたことをやらかしちゃうんですよ。
結局、アランはオーウェンに追いつめられ、エリザベスの肖像画を譲ることになったわけです。


「ルイスとモリス 一九六二年九月―一九六三年五月」
フィービの兄として何度も名前の出てきたルイス。彼が問題を起こしたことが、これまでの章でほのめかされてきましたが、何をやらかしたのかが明らかになります。でも、その前にルイスとモリスの出会いから。
モリスは美術評論家で、ルイスは彼の書いた文章を読んで衝撃を受けます。妹に書いた手紙でそのことを語っているんですが、やたらと興奮しているのが可笑しい。「モリス・ロムセン登場、ジャジャーン!」。まさに、そんな風に鳴り物入りで目の前に現われたという印象だったのでしょう。とは言うものの、モリスの文章のどこがいいのか、僕にはさっぱりわかりませんでした。例えば、モリスはこんなことを書いています。「われわれの始原の天国は、ワギナの荒れ狂う空だ」。何ですか、この気取った意味不明の言い回しは。鼻につくなあ。
そして、ルイスはフィービとウォルターを介してモリスに直接会うことに。ルイスは「先生」とか呼んじゃって、もうすっかりモリスに夢中です。その一方でモリスの態度はかなり尊大で、才気あふれる若者のようでもあり、見栄っ張りのペテン師のようでもあります。

モリスは意地悪をすることで、青年の熱意に水を差してやりたいというあらがいがたい欲望を感じた。モリスは意地悪をすることで喜びを得た。ルイスは進んで服従した。彼はそうされて喜んでいた。モリスはそれに気付かなかった。経験豊富な彼でもまだ、罰を受けて本当に喜ぶ人間がいるとはにわかに信じられず、罰を与えようとする自分の欲望を倒錯的と考えていた。

イヤなヤツだなあと思いますが、ルイスはそうは思わない。ルイスは同性愛者であり、かつ「罰を受けて本当に喜ぶ人間」、かなりハードなマゾヒストなんですよ。なんと、ホンモノの釘で十字架にはりつけにされたりするんですよ! 想像するだにえぐいんですが、ルイスにとってはそれが快楽に結びついている。かくして、このあとルイスとモリスのSM的な恋愛が描かれていきます。

ルイスはすぐにある弱点を告白した(それを好みと呼ぶ人もいるかもしれないが)。彼は意識がもうろうとした状態で言った。「好きなことをしていい、でも縛らないで。動けなかったら頭がおかしくなりそうだ」。モリスが肘掛け椅子をそばに寄せた。「ルイーザ、君の頭はどのみち狂ってる。でも、どういう意味なのか、ぜひ確かめさせてもらおう」。

ダチョウ倶楽部が「絶対押すなよ」って言ったらそれは「押してくれ」って意味だし、SMで「やめて」言ったら「もっとやって」の意味、「縛らないで」は、縛られたいという「告白」なんですよ。つまり、ルイスは拘束されるとエクスタシーを感じるタイプというわけです。モリスはそれに応えて、行為に及ぶたびに様々な方法で彼を拘束します。これから読む人のために詳しくは書きませんが、そのいちいちがまたえぐいんだ。人間の性や快楽への探究心って、奥深いなあと変なところで感心してしまいます。
しかし、モリスは心臓病を患っていて、なんとプレイの最中に発作を起こして死んでしまう。しかも、ルイスは愛する人を助けようにも拘束されたまんま。これは、大スキャンダルですね。昔、自分で亀甲縛りをしてオナニーをしていた男性がうっかり首が絞まってしまい死亡したという事件があったんですが、僕はそれを思い出してしまいました。どちらも何ともマヌケなんですが、人間の本質に根ざしたマヌケさというか、「しでかす生き物」としての人間の哀愁みたいなものを感じます。
拘束中のルイスを罵倒し責め立てていたモリスの、最後の言葉はこうです。「真実をはっきりさせておこう。僕は君がいと――……」。ルイスはこれを「僕は君がいとわしい」と解釈する。でも、原文がどうなっているのかはわかりませんが、これ二重の意味があるんじゃないかな。「僕は君がいとおしい」かもしれないでしょ。いや、どっちでも大して変わらないのかもしれません。「やめて」が「もっとやって」を意味するように、「いとわしい」とは「いとおしい」を意味しているんじゃないかと。


「ルイスとウォルター 一九六二年六月―一九六三年六月」
この章は、モリスの死後の話になります。失意のどん底にあるルイスは、ウォルターに友人としての精神的な助けを求める。しかし、その間に割って入るのが、またしても出てきたプリシラです。何なんでしょうか、彼女は? モリスとビジネス・パートナーだったという話も出てきたりして、ここへきてかなり食い込んできました。
プリシラは、美術史の論文でエリザベスの肖像画を扱ったことからウォルターに取り入っていくんですが、作者によるプリシラ評はかなり辛辣です。「プリシラは鋭い知性をもっていた。しかし、二十二歳の彼女の興味は、分析よりも人生の経験談の方へ引き寄せられた――人へ、成功へ、都市へと」「芸術を説明する全ての伝記作家は、自分の願望を事実だということにしてしまう。プリシラは絵を自分の欲求に合致させた」という具合。要するに、作品そのものではなく自分の野心を優先するタイプということです。かくして、作品よりもウォルターに接近し、彼の周りにいる「興味深い人物」の仲間入りをしようと努めます。
しかも、これまたほのめかされるだけですが、プリシラは過去にルイスと何かトラブルがあったらしい。そんなわけで、プリシラはウォルターに、ルイスが「心を病んだ人物だ」という印象をせっせと植え付けます。そのせいで、モリスの死の悲しみを分かち合うべきウォルターは、ルイスを避けるようになってしまう。そんな二人が通りでばったり出くわすシーンが面白い。

彼は翌朝、カーマイン通りとブリーカー通りの交差点で、偶然にウォルターとプリシラに会った。プリシラはその時もまだ上機嫌で、ウォルターは黙って彼女の後ろに立ち、肉をまとった運命(さだめ)を見るようなおびえた目でルイスを見つめた。プリシラの言ったことに返事をしているウォルターを見て、ルイスはその表情に見覚えがあることに気付いた。あれはオーウェンが僕を見るときのいつもの表情だ、と。目の前のカップルに対するルイスの理解が変化し始めた。彼はさっきプリシラに何を言いかけていたのか忘れた。彼の頭皮から汗が噴き出した。

三十七年前、ウォルターは妹のいちばんお気に入りのセルロイドの人形をわざと尻でぺしゃんこにしたことがあった。それ以来、あのときの妹と同じ目で彼を見た人は、今のルイス以外にいなかった。ウォルターはルイスを避ける気がなくなった。彼は思いやりのある、傷つきやすい人間に戻った。ルイスは目に浮かんだ怒りの涙のせいで、その変化に気付かなかった。

互いが互いの目から、別の人物の視線を思い出し、自分がどう思われているのかに気づく。彼をなきものとして扱うようなウォルターの視線にショックを受けたルイスは、憎しみを抱きます。それを感じたウォルターは、自らの過ちに気づくんですがそれはもうルイスには伝わりません。ああ、このあと何か「しでかす」予感がビリビリきますね。


「ルイーザとルイス 一九三八年―一九六三年」
ルイスと母親のルイーザの関係が、彼の少年時代から順を追って描かれていきます。余談ですが、モリスはプレイの最中、ルイスのことを女性名であるルイーザと呼んでいました。セックスの最中に母親と同じ名前で呼ばれるのって、どんな気分なんでしょうか。
引き蘢りがちでほとんど誰にも心を開こうとしないルイス。そんな彼を献身的に支えるルイーザ。彼が何かをやらかすたびに、ルイーザはその尻拭いをしてやります。例えば、彼が少年時代に起こした万引事件。ルイーザはルイスを叱りつけ、こっそり品物を店に返しにいかせます。そして、「二度と盗みはしない、もしも盗んだときはすぐに彼女に言う」という約束をさせます。これで、万引が収まると思うでしょ。でもそうじゃないんですよ。

こうしてルイスは、度重なる盗みの初回に母を巻き込んだ。彼が母と結んだ同名は、オーウェンと、お上品で冷淡な世間と、彼自身の普通の願望に敵対していた。彼は盗みにいっそう熱が入った。最悪の事態が起きれば彼女もその結末を味わうことになる、と彼は知っていた。最悪の事態は時折起きた。そして彼が捕まるたび、ルイーザが律儀に姿を見せ、店の主人や売り場主任や警察官をお世辞で丸め込んだ。母も息子も決して認めなかったが、二人ともこうしたドラマの後に最高の幸福を感じていた。

怖いなあ。母親が自分のために何かすることに喜びを感じる息子と、自分を頼る息子を助けてやることに喜びを感じる母親。まさに、共依存、といった感じです。この関係からは、父親であるオーウェンは閉め出されています。オーウェンオーウェンでフィービにべったりですからね。何でしょう、このイヤーな感じは。関係性の網の目にがんじがらめになっている。
やっかいなのは、同時に二人はこの関係を疎ましくも思っているということ。モリスの死の現場に警官と同時に真っ先に駆けつけたのが、ルイーザでした。そして、そのせいでことをややこしくしてしまったことを、ルイスはなじります。彼の世話をすることで彼女が喜びを感じているということを、ルイスはわかってるんですよ。だったらお前も何とかしろ、って話ですが、彼は他罰的な言葉を口にするばかり。

彼の冷たい言葉がルイーザの中に温かな光を放った。彼が部屋を出ると、彼女は思った。おそらくあの子の言う通りだ。私は今まであの子の力になれなかった。おそらくあの子の言う通り、私はずっと利己的に振る舞ってきた。あの子のことは放っておいた方がいいのではないか? 彼女を突然の喜びで満たしたのは、その可能性――あまりにも明らかで、あまりにも新鮮な可能性――だった。「これで肩の荷が下りる!」彼女は口に出してそう言った。

この気づきが彼女を新しい人生に向かわせます。いや、新しい人生って言っていいのかな? そんな微妙な引っかかりを残してこの章は終わります。


ということで、今日はここ(P231)まで。一応おさらいしておくと、オーウェンとルイーザの子供がルイスとフィービで、アランとモードの子供がプリシラ、モードの妹がポーリーンでその旦那がオリバー、モリスの姉がアイリーンで、ハイヒールが誰かはあとのお楽しみ。