『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【2】


柴田元幸による擬古文の訳文ですが、漢字で表せるものはできるだけ漢字にする、という方針のようです。「費府」は「フィラデルフィア」、「蘇門答剌」は「スマトラ」とルビが振られています。さらには、「戦斧」は「トマホーク」、「堅麺麭」は「ビスケット」、「転子」は「ローラー」、「股袴」は「ズボン」、もっとふざけた例だと、「座右銘」は「モットー」、「佳調」は「メロディアス」とのルビ。この辺も読みどころでしょう。あと、引用していて気づいたんですが、送り仮名もたぶん昔風になっています。「終わり」と書かずに「終り」と書く。あと、会話文のカギカッコの終わりに「〜。」と句点を打つのも、わざと古風にしてるんだと思います。うーん、凝ってるなあ。


では、続き「4」の章。
いよいよ船出。王立協会の命により、メイスンとディクスンは海馬号に乗り込み、金星の日面通過観測のためスマトラへ向うことになります。この海馬号、「武装帆船(フリゲート)」とは言うものの、何だかみすぼらしい六等艦です。この船に、語り手であるチェリーコーク牧師も乗り合わせていたようですが、出会いのシーンがあるわけでもなくさらっと語られるだけで、牧師はあくまで黒子といった感じ。
ところがあっという間に、航海中の海馬号は、フランス船・ルグラン号の攻撃を受けます。船長に言われるままに船の下の階で海上医療に携わるメイスンとディクスン、そしてチェリーコーク牧師。そのときの様子を、牧師はこう語ります。

接近して来るルグランを為す術もなく見ていると、一秒の数分の一が経つ毎に、死が更に新たなやり方で己の存在を誇示しておるように思えた……。何しろ彼方(あちら)の滑車(ガン=テークル)が軋んだり鳴ったり、転子(ローラー)が甲板を転がったりするのまで聞える程近い訳で、その内に、込め矢の端っこが砲門から突出ておるのまで見えてきたが、弾薬と詰綿が押込まれると共にそれも見えなくなり、更にもっと近付くにつれ、今度は甲高い外国語のぺちゃくちゃが聞えてくる……。
何度も何度も一斉砲撃、その合間に船は間切る、即ち反対側の砲を向ける為に風を斜めに受けて進む訳だ、――轟音が止むと弾を詰め直すゴン、ゴンという音、怪我した者や瀕死の者の叫び、嘔吐、言葉も出ぬ有り様、汗が迸り出る、――そうして又再び一斉砲撃が始まるのだ。発砲が止む度、束の間の望みが訪れる、これで逃げ果(おお)せた、これで終りだ、……だがじきに滑車を動かす音が聞こえて、又も闇の中で甲板が儂等をひっくり返そうとしている気になってくる、がくんと下に揺れたその直後、大砲が来る、儂等にも今や予想が付くようになったある種の振動を伴って来る、――やがてそれももう来なくなると、次は一体何なのかと、みんな怖くて息も出来ずに突っ立っておったよ。

いやあ、なかなかの名調子ですね。船の底のほうにいるから、外の様子は音から想像するしかない。すると船がぐんぐん迫ってきて、滑車の音まで聞こえてくるわけです。これは、ある意味、地獄の響きですね。そうした諸々が、短いセンテンスの積み重ねで、臨場感たっぷりに再現されています。
ところでこの小説、「メイスンとディクスンの物語」をチェリーコーク牧師がルスパーク家の子供たちに語り聞かせる、という形を取っています。地の文は三人称で書かれているんですが、ところどころでチェリーコーク牧師の一人称の語りが「」で挿入される。引用したのはその語りの部分ですが、こんなお話を聞かされたら、子供たちは大喜びでしょうね。
去り行くルグランを追うこともできないほど、叩きのめされた海馬号。メイスン、ディクスン、あとチェリーコーク牧師も、辛うじて助かりますが、30名もの船員が命を落とし、船長も深傷を負ってしまう。メイスンとディクスンは、夜の甲板で何でこんなことになったのかと語り合い、酒を飲む。この二人、何だか酒の話ばっかりしているようですが、気のせいかな。


「5」の章。
メイスンとディクスンは、二人を危険な海域に旅立たせた王立協会へ文句たらたら。まあ、死にかけたんだから無理もありません。わざと「殉教者」に仕立て上げようとしたんじゃないかと、疑心暗鬼に陥ります。その旨を手紙にしたためて王立協会へ訴えたところ、協会からの返信は二人の手紙を厳しく非難するものでした。言外に「我々に楯突く気か?」というニュアンスが込められている。いったいこれを書いたのは誰なんだと、ますますメイスンとディクスンは疑心暗鬼に。


「6」の章。
結局、高圧的な王立協会の命令で二人は再び海に出ることに。という本筋に入る前に、外枠のお話、チェリーコーク牧師とルスパーク家の様子が描かれます。

「ちゃんと大檣転桁索(メーンブレース)も修繕したんだろうな、――やあ、御機嫌よう皆の衆。」音もなく入って来たのはローマックス叔父、石鹸工場での一日を終えた身からは製品の臭気を立ち昇らせ、物腰からは酒飲みの陽気さを撒き散らして、流行らぬ職業に携わる人間に有り勝ちな内気さを追払っている、――何しろ「費府石鹸(フィラデルフィア・ソープ)」といえば亜米利加の植民地中で安物の代名詞。水が触れた途端、否、湿った空気が触れただけでも何とも不快な粘液と化し、そっと握ろうががっちり握ろうが如何なる握りにも捕えられることを拒み、使用前より物が汚くなることもしばしばで、――石鹸と云うより、正しくは反石鹸。そんな叔父が、すっと航程線を描いて、非禁酒を奉ずる客のために強い酒を各種揃えてある戸棚へ向い、選択を熟考する振りを装う。

海馬号の修理の話に、いきなり入ってくる叔父さん。「すっと航程線を描いて」と船つながりの比喩も心憎いです。こんな具合に、チェリーコーク牧師と子供たちのいる部屋には、いろんな人が出入りするんですよ。そして、牧師の話にちょろっちょろっと口を挟んでくる。外は雪景色。あたたかい部屋にふわっと香る石鹸の匂い。
このフィラデルフィア・ソープの話も面白い。「亜米利加の植民地」など時代背景をチラっと匂わせますが、基本的には「この情報いる?」って言いたくなるような、恐らくは本筋とは関係のない話題だと思います。でも、こういう細部が可笑しいんですよ。「石鹸と云うより、正しくは反石鹸」とか笑えます。ダメじゃん、フィラデルフィア・ソープ。
さあ、海馬号の修理も終わり、再び船出です。もっと大きな武装帆船・絢爛号も護衛に加わり、海馬号の船長も変わります。このグラント船長なる人物は、ちょっとやっかいです。

爽やかな天気に鈍々(のろのろ)していても仕方がないとばかり、グラント船長はつい性急(せっかち)に前の船との距離を詰めてしまい、両船の水兵同士が普通の声で世間話に興じられるほど近付くこともしばしばで、やがて絢爛号も堪忍袋の緒を切らし、「標準の間隔を維持せよ、――命令に応じよ、」と海馬号に合図を送って寄こす。暫し熟考の末、グラントは合図を返す、――「あ、はい(オー)。」風上に向うよう指示を出した後、船長室に赴き、収納箱から、奇妙な装飾を施した、バルバドス産との触込みの海賊旗を引っ張り出す。瑞典札遊戯(スウィディッシュ・ラミー)で古参英国海軍船浅墓(アンリフレクティブ)号の航海長からせしめた品である。そして十分に沖へ出た今、船長は上機嫌に船を上手回しさせ、件の黒旗を掲げ、微風を背に全速力で走って、恰も絢爛号を刺さんとするが如き勢いで大波を突進んでゆく。かくなる悪巫山戯(わるふざけ)に、相手の船長は戦闘態勢を採ることで応じる。あれでブレストの方角に偶々帆が見えたから良かったものの、あのままやっていたら何処まで加熱していたことやら。

互いの船で世間話ができるほど近づくというのは、「4」の章の滑車の音が聞こえるエピソードを思い出させます。つまり、それほど危険だということです。しかしそれを注意された船長は、ちょっと間を置いて「あ、はい」と気のない返事。腹立つ態度ですねえ。しかも、せっかく護衛してくれている相手を、海賊船のフリをして脅かすという不真面目っぷり。いたずらっ子ですか?
船は目的地を変更することになったようですが、どこへ向っているのかは明かされません。謎めいた封筒が船長に渡され、これを途中で開けよという指示があるばかり。ほとんどバラエティ番組の罰ゲームのノリです。
メイスンとディクスンは、半ばやけくそで「いざさらば 王立協会」と歌います。奴らが陸でぬくぬくと暮らしてるあいだに、俺たちゃフランス軍がはびこる海に出ていくんだぞ、という内容。そして最後は、こんなフレーズで締めくくられます。

我ら天文観測士 仕事と云われりゃ何でもやりまっせ!

関西弁! 原文はどうなっているのかわかりませんが、柴田訳では浪花のあきんどみたいになってます。おちゃらけなけりゃやってらんないよ、ということでしょうか。労働歌、というかブルースだなあ。
このあとも、船長を筆頭に船員たちのおかしなエピソードが次々と紹介されます。フランス船に恐れをなして一人減り二人減りと逃げていく軍楽隊、一度眠ったら目覚めのときがくるまでは何をしても起きない船乗り、紐の結び方に異様な執着を見せる甲板長などなど。いちいち引用はしませんが、どれも面白い。それにしても、どうして海の男たちは、こうも子供っぽいんでしょう?

かように娯楽の乏しい状態にあっては、赤道線を越えることの展望は、ある種の蜃気楼や海上の幻影に於て見える物体の如く、いつしか異様に肥大し、何週間も前から準備を積む一大行事と化す。上方の大横帆に昇った恐れを知らぬ軽業師達や、針で黒い粉を埋め込んで刺青した百戦錬磨の砲手達が、俄にそわそわばたばた、村の女房連もかくやとばかり、この赤道越えを初めて体験する者達の為の入門儀式の些細な点を巡ってぺちゃらくちゃらやり出し、それ等「赤道越え初体験者(オタマジャクシ)」、――即ちメイスン、ディクスン。そしてチェリーコーク牧師、――が近くに来る度に声を落とす。乗組員達はネプトゥーヌス王とその人魚女王、更には彼等の廷臣を演じるが、取分け人気のある王の赤子の役は、その太鼓腹から赤道の汗が滲み出る、初体験者が這い蹲って接吻するに最も悍(おぞ)ましい者(賭けでは防舷材腹ボーディーンが目下一番人気)に与えられることになっている、――〈屈辱の式〉次第の中で、これはまだ気持ち好い方の営み。

暇な船員たちは、赤道越えの儀式で大はしゃぎ。屈強な男たちが、人魚になったり赤子になったりしてお芝居をするようです。これが、汗ばんだ太鼓腹にキスさせられるという悪趣味なもの。いやだなあ。何やってるんでしょう、海の男たちは。しかも、「これはまだ気持ち好い方の営み」って…。こういうことやらせて大喜びをするあたりにも、男の幼児性みたいなものを感じさせます。ホモソーシャルな感じもありますね。軍隊とかでも、この手の悪ふざけけっこうありそうでしょ。
「オタマジャクシ」っていうのは航海初心者を指してるわけですが、ちょっと精子も連想させますね。太鼓腹にキスをするオタマジャクシは、地球を巡る船であり子宮へ到達する精子でもある。いや、勝手に僕が連想しているだけで、そんなことはどこにも書いてはありませんが。
そんなこんなで、賑やかに船は進んでいきます。


ということで、今日はここ(P86)まで。出航したと思ったら攻撃を受け、助かったと思ったらまた出航。物語もまた、びゅんびゅん飛ばしているようでもあり、遅々として進まないようでもあり。