『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【1】


トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(上) (Thomas Pynchon Complete Collection)
トマス・ピンチョン全小説 メイスン&ディクスン(下) (Thomas Pynchon Complete Collection)

メガノベルっていうのかな。質量共に分厚い小説を、このブログでは積極的に読んでいこうと思っていたんですが、ここのところ短編集が続いちゃってました。なので、予告した通り、久々に大長編いきますよ。
ということで、上下巻のこれ。
『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン
です。
ピンチョンは、昔、『競売ナンバー49の叫び』と『スロー・ラーナー』を読んだことがあります。でも、「ピンチョン読むならやっぱメガノベルっしょ」という気持ちがずっとあったんですよね。ただ、ハードルが高そうだなあということで、これまで手を出せませんでした。
とそうこうするうちに、今年に入って新潮社から「トマス・ピンチョン全小説」という全集の刊行がスタート。その第一段として出たのが、1997年の作品『メイスン&ディクスン』です。訳は柴田元幸だし、「読みやすいピンチョン」という触れ込みなのでこれはいい機会かもしれないと、チャレンジすることにしました。
そう、まさにチャレンジ。12月の慌ただしい時期に手をつけるので、どこまで更新できるかわかりませんし、そもそもこの小説を読み切れるのか自信はありませんが、えいやっと読みはじめたいと思います。
では、「第一部 緯度と出発(たびだち)」から。まさに旅立ちの気分です。えいやっ。


「1」の章。冒頭からいきます。

雪玉がすうっと弧を描いて飛び、納屋の壁に雪の星を鏤め、帽子はデラウェアの川から吹付ける風の中へと飛ばされる、――橇を家に入れて、滑走部(ランナー)は丹念に拭いて脂を塗り、靴を奥の廊下に仕舞ってから、靴下を履いた足で広々とした台所へ下りてゆけば、朝からざわざわ忙しないことこの上なく、各種各様の釜や煮込(シチュー)鍋の蓋がコトコト鳴る音も合間に挟まって、薄皮焼菓(パイ)の香料、皮を剥いた果物、牛脂(スエット)、熱した砂糖等々の香りが振り撒かれる、――子供等は一瞬たりともじっとしておらず、捏ね物を入れた鍋に匙(スプーン)を突っ込みぴしゃぴしゃと調子好く叩く隙にこっそり味見してから、この雪深い待降節アドヴェント)のあいだ毎日午後そうしてきたように、家の裏手の心地よい部屋へ向う。

こんな風にして、この小説は幕を開けます。読点にたどり着くまでが一文だとすると、引用したこれがまるまる一文ということになります。早速、読みづらいなあ。
とは言うものの、なかなか魅力的な導入ですね。雪玉と一緒に、「すうっと」小説世界へと誘われる。季節はクリスマスのちょっと前、まさしく今の時期ですね。小説内の季節と、読んでいる現在の季節がリンクするのって、なぜだかちょっと嬉しくなりますね。
冒頭のこのシーンでは、そんな冬の情景が、素早いペンタッチでスケッチされていきます。「一瞬たりともじっとして」いない子供らの足どりそのままに、屋外から室内へ、廊下から台所へ、そして家の裏手へと、場面が移り変わっていく。カメラがどんどん移動していくような、この落ち着きのなさが面白いです。さらに、弧を描いて飛ぶ雪玉という視覚的なシーンから始まり、聴覚、嗅覚、味覚、触覚めいたものまで、五感が総動員されている。非常に情報量が多いんですよ。この文章自体が「ざわざわ忙しない」。
時は1786年、場所はフィラデルフィアのルスパーク家。「家の裏手の心地よい部屋」に住んでいるのは、世界中を旅してきて今はルスパーク家に居候中の親戚、チェリーコーク牧師という人物です。チェリーコーク牧師は、ルスパーク家の子供たちを楽しませるという条件の下、この家に住まわせてもらってるんですよ。なので、子供たちは毎日、午後になるとこの伯父さんの部屋に向い旅の話をせがむというわけです。

「もう二十年前になる、」牧師は思い起す、「儂等みんなで、アルゲニー山脈を登り詰め、オハイオの地を見霽(みはる)かしておった、――実に美しい眺めであった、ありゃあ神の啓示と云っていい、遥か地平線までずうっと草原が続いておるのだ――メイスンとディクスン、それにマクレーン一家、ダービーとコープ、いやダービーは六六年には居らんな、――だがバーンズ爺さんも居ったし、あの悪党の若僧トム・ハインズも……みんな何処へ行ってしまったのか、――戦争に行った者も、断固戦いを拒んだ者もおるし、儲けた奴もおれば、一切合切失くしてしまった奴もおる。何人かはケンタッキーに行ったし、何人かは、――哀れメイスンも今やそうだが、――塵に返った。
戦争のほんの数年前のことだ――儂等があの地でやっておったのは、勇敢な、儂には理解出来ようもない科学を巡る、鯔(とど)の詰りは無意味な営みであった、――儂等は荒野のど真ん中に真っ直ぐな線を引いておったのだ、幅八碼(ヤード)の線を、真西に向って、二つの領主権を分ける為にな、世がまだ封建制であった頃に下賜された、僅か八年後には独立戦争によって無効となってしまう権利を分ける為に。」

チェリーコーク牧師がこれから語ろうとしているのは、どうやら「メイスンとディクスンの物語」のようです。「荒野のど真ん中に真っ直ぐな線を引いておった」というのは、「メイソン・ディクソン線」と呼ばれるもののことでしょう。と言ってはみたものの、それが何なのかは僕もよくわかっていません。なので、Wikiでちょろっと調べてみたりして。まあ、この先、「メイソン・ディクソン線」についてはさんざん語られることになるんでしょうから、ひとまず置いておきます。
さあ、チェリーコーク牧師のお話が始まりますよ。英国海軍武装帆船(フリゲート)に乗ってロンドンを離れ、チェリーコーク牧師は東を目指すことに。というところで、第1章はおしまい。


「2」の章は、わずか3ページ。
グリニッジ王立天文台助手のチャールズ・メイスンと、ダラム州のジェレマイア・ディクスンとの往復書簡が紹介されます。手紙によると、どうやら「金星の日面通過観測を目的として予定されて居ります蘇門答刺(スマトラ)行」に、ディクスンがメイスンの補佐として任命されたらしい。


「3」の章。このあたりから、物語は動き始めます。
この章は、チェリーコーク牧師が語る、メイスンとディクスンの初対面のシーンから始まります。スマトラに出航する前にロンドンで顔を合わせる二人。メイスンは天文学者、ディクスンは測量士ってことでいいのかな。
お互いのことをよく知らない二人は、噛み合っているようないないような、ぎくしゃくとした会話を交わします。

メイスンは厳めしく頷いている。「私、さぞ盆暗(ぼんくら)に見えるだろうなあ。」
「これで最悪ってことでしたら、なぁに、どうっとことありませんや。火酒(ウィスキー)がなくならん限りね。」
「それと葡萄酒(ワイン)も。」
「葡萄酒。」今度はディクスンが眉間に皺を寄せる番。今回は何をしくじったかとメイスンは自問する。「『葡萄か麦か、掛持ちは御法度』って大叔父のジョージに一度ならず云われましたよ、――『蔓(つる)と穀(こく)、両方やったら翌朝は御用心。』要するに酒飲みってのは二種類、葡萄人と麦人がいるって訳ですが、あんたはそうすると、うぅ、葡萄仲間の一員であられると、そういうことで……? で、その、淡麦酒(エール)だの火酒だのには、滅多に、若しくは全然手を付けられぬと?」
「その通り、これ幸いと云うべきだろうね、何せ備えは限られておる訳で、これならお互い喧嘩にならぬ、ジャック・スプラットのようなもの。」
「いやまあ、いざとなったらわしも飲みますよ葡萄酒……?――で。折角お話も出たことですし、――」
「――それに何と云っても此処はポーツマス、――きっとさほど遠くない所に、蔓なり穀なり、各々好みの元植物を味見出来る宿があるに違いない。」
ディクスンは外の、刻々衰えていく冬の陽光を見遣る。「まだ早過ぎる、なんてことはないですよね……?」
「我々は印度諸島に行くのですぞ、――船の上でも、彼方(あちら)でも、一体何が手に入るやら。文明の酒はこれが最後の機会かも知れん。」
「なら、善は急げ、ってことで……?」

互いの真意を探り合ってるようなぎこちなさを感じさせる会話ですが、たいしたことは話してないですね。結局のところは、「ワイン党かビール党か」って話でしょ。ただ、「蔓と穀」とか「葡萄人と麦人」とか、わかりづらい言い方をするもんだから、「ん? 何の話だ?」となる。まあ、そこが面白いところなんですが。「元植物を味見」するなんて、ちょっとシャレた言い方じゃないですか。
初対面の二人のたどたどしさは、この小説の文体にまだ慣れず、立ち止まりながら読んでいる僕の相似形のように思えてきます。何を言わんとしてるんだろうと、相手=小説の顔色をうかがいながら読み進めていく。「元植物」って酒のことか、という具合に考え考え読まなきゃなんない。
ここでちょっと、この小説の文体についても触れておきましょう。柴田元幸訳では、擬古文というのかな、あえて古臭い日本語を採用しています。体言止めが多いのは、漢文調かな。言い回しが昔風なだけでなく、漢字がやたらと多めで、カタカナ語には無理矢理漢字を当てはめルビを振るという凝りようです。ちなみに、引用の際はルビを()で表すのがわずらわしいので、特殊な読み以外は適当に間引いています。
このあと、いきなり音楽が流れ出し二人の前に一匹の犬が歌をうたいながら現われます。どこから音楽が降ってきたのかよくわかりませんが、まるでミュージカルの登場シーンです。そして何より、この犬、人間の言葉を喋るんですよ。その名も「博学英国犬」!

「是非とも知りたいんだ、」メイスンの上ずった囁きは、疑念に苛まれた恋人の口調。「――君には魂があるのかね、――つまり、君は人間精神なのか、人間精神が犬として生れ変ったのか?」
博学英国犬、the Learned English Dog、略してLEDは目をぱちくりさせ、ぶるっと身震いし、諦めたように頷く。「そのことは今までにもさんざん訊かれましたよ。日本列島から帰ってきた旅人達によれば、彼方には公案とかいう宗教的難問があるそうで、うち一番有名なのが、正に今お訊ねになった奴ですよ、――犬には聖なる仏陀の本性があるのか否か。一人のこの上なく賢い師による答えは、『ム!』だそうで。」
「『ム、』」メイスンが考え深げに繰返す。

ふざけてるなあ。「ム」って「無」でしょ。大真面目に考え込むメイスンが可笑しいです。何だかIQ高そうなジョークですが、ひょっとしたら僕が気づかないこの手のジョークが、他にもちりばめられてるのかもしれないですね。例えば、博学英国犬を「略してLED」っていうのも、発光ダイオードの「LED」とかけたシャレかもしれません。まあ、この辺は勝手に想像するしかないんですが。
さらにこの犬、他のシーンでは「アルジャーノン」「博学なるD」など、また別の呼び方をされていたりしてややこしい。「アルジャーノン」は、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』に出てくる喋るネズミとかけてるんでしょうか? 「博学なるD」の大文字のDはDogのことでしょうけど、大文字のGがGodを意味することを考えると、何だか含みがありそうです。先程の「元植物」のように、「これって何のこと?」というのを考えながら読まなきゃならないわけです。
まあ、そんなこんながあって、メイスンとディクスンはいよいよロンドンを離れ出発することになります。船の名前は、「海馬号」。上手い名前だなあ。海馬とは、タツノオトシゴのことであり、ギリシア神話に出てくる生物であり、記憶を司る脳の一部であります。こうした諸々が掛けられた名前なんじゃないかと。


ということで、今日はここ(P45)まで。まだまだほんのさわりですが、なかなか歯ごたえがありそうな予感。さあ、この先どうなることやら。僕も、メイスンとディクスンも。