『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【3】


博学英国犬の登場シーンもそうだったし、前回もチラッと書きましたが、この小説、ところどころで登場人物たちがいきなり歌い出すんですよ。言わば読むミュージカル。これが唐突で、可笑しいんですよ。トボケてるというか、ノンシャランとした味わいがある。
では、つづきです。


「7」の章。
メイスンとディクスンは、阿弗利加(アフリカ)の岬町(ケープ・タウン)に到着します。って、サラッと書いてますが、そこに至る経緯がすっ飛ばされているため、ちょっと戸惑います。いつの間にそういうことになったのか、よくわからないんですよ。ピンチョン、瑣末なことはちまちまと描写するくせに、筋の省略はかなり大胆です。こういうちところも、読みづらさの一因じゃないかな。ともあれ、二人はどうやらこの地で金星の日面通過観測を行なうことになったようです。
ケープ・タウンは、オランダの東インド会社が支配する植民地で、マレー人が奴隷として扱われているという土地。メイスンとディクスンは、フローム家というオランダ人の家にやっかいになります。この家の三人娘と母親は、どうにも様子がおかしい。何かと言うと、メイスンを誘惑するんですよ。実は彼女たちにはある思惑があって、それがこの地の奴隷制度と深く関わっているようです。

然しながら、メイスンと年長の女奴隷を組み合せんと謀るヨハンナの術策の核をなすのは、如何なる形態の欲望でもなく、寧ろ奴隷制度そのものである。そのややこしい編目の外にいるディクスンにはそれが見えるが、メイスンには見えない。この地には一個の妄執が、此処に住む誰よりも古い一個の妄執が、若しくは宿痾が、積年人びとを苛んでいる、――夜通し合唱を続ける憂鬱な風どもに包まれて、人目に付くかどうかに頓着もせぬ、今後何が為されようと決して帳消しにはならぬであろう大きな不正。理性を奉じる人間達は、幽霊というものを単に、正されざる悪と変らぬ、あの世とはさしたる繋がりもないものと定めるであろう。(中略)だが此処に在るのは、家庭の規模を超えた、云わば集合的な幽霊。奴隷達に対して日々犯される様々な悪は、チャチな悪も重大な悪も等しく記録には残らず、魔法に掛ったかのように歴史の目には見えず、見えぬながらも質量を、そして速度を有し、鎖を揺するのみならず断切る力さえ持っている。この地での生活に付き纏う危うさ、この幽霊を、会社の容赦ない祭司制と何巻にも及ぶ規約によって日々宥めておく必要。余程剛の者でない限り、皆遅かれ早かれ、最大の問題に、ほぼ薄められていない形で向き合うことを余儀なくされる。この地での奴隷の自殺率は恐しく高い、――だがそれを云えば白人の自殺率も同じ、そこには何の理由もない、いや寧ろ余りに偏在し、誰も口には出さぬ理由ゆえ、束の間以上直視するに耐えぬ理由ゆえ、と云うべきか。この地を縛る取決めの哀しい赤裸々ぶりを徐々に思い知るに連れ、メイスンは益々むっつり陰気になってゆき、一方ディクスンは、奴隷の主人達にはどうしても示す気になれぬ慇懃ぶりで奴隷に接するのを常としている。

ピンチョンらしいもって回った言い方をしていますが、この章では、奴隷問題がけっこう前面に出てきています。ちなみにここに出てくる「会社」とは東インド会社のこと。東インド会社によってこの地に根づいた奴隷制度は、妄執であり宿痾であり記録に残されることのない幽霊だというわけです。目に見えないのに、誰もがそれに支配されてしまっている。
幽霊とありますが、もっと言っちゃえば、集合的な病理という感じでしょうか。この病理は、差別される側のみならず、差別する側をも蝕んでいくんですよ。「余程の剛の者でない限り」この病理にやられてしまう。「奴隷の自殺率は恐しく高い」と書いたあと、「だがそれを云えば白人の自殺率も同じ」と続けるあたりは、ピンチョンの痛烈な皮肉でしょう。
メイスンは事情がわからぬ余所者であるがゆえに、この奴隷制度の網目に絡めとられそうになり、ディクスンは余所者であることの自由から、奴隷制度を無視した態度を取り続ける。このあたり、二人の性格の違いが出ていて面白いですね。
この辺まで読んでくると、だんだんメイスンとディクスンのキャラクターがわかってきます。メイスンは堅物で理屈っぽい学者タイプ、性格は陰気。ディクスンはフランクで世間知に長けたタイプ、性格は陽気。ディクスンの軽口もいいんですが、真面目なメイスンがときどき暴走するシーンは、けっこう笑えます。

「ひょっとして娘達が、汝を揶揄(からか)っているのでは……?」
「いや全く有難い、君の健全なる常識に支えられた言葉がなかったら、一体日々はどうなるやら。」
「わし等のどっちかが正気の基準線を示さんといかん訳だし、で、汝にはその役はどうも、――」
「ゲゲゲ! 相手を信頼し夢を分かち合うという、これ以上はないというほど親密な営みが、陰険な弟子によって、師に不利になるよう使われるとは!」
「師よ、ここは一つお願い申上げたい、職業上の憤懣とも云うべき悪しき地に迷い込むのは止しましょう、さもないとわし等、蠍毒針星の南中を見逃しちまいますぜ、この地に住む不幸な人々の脳天の上に垂れた蠍の毒針たる、彼等を刺すか刺さぬか誰にも知れぬあの星の……?」
「正(まさ)しく天文観測の良心の声、――天使の如き方正ぶりに支えられるとは、かくも幸運な星見人(ほしみびと)がかつて居ったであろうか。にも拘わらず、ディクスンよ、悪魔が私に呼掛けるのだ、――こう唆すのだ、『世間から愛されたくて堪らぬ、左様、歓喜に我を忘れる程に世間から愛されたいと焦がれるあんたが、その世間から受けた酷い仕打ちを細大漏らさず語って退屈させる相手として、あの考えなしの北東人(ジョーディー)ほど打って付けの者が他に在ろうか? 少なくとも奴なら、一応天文学の素養もあることだし、』とまあ、大体いつもそんな科白なのだ。」
「『それにあんたの部下だから、』」ディクスンが打返す、「『聞かぬ訳には行くまい。』」
「その通り、何なら覚書(メモ)を取っておくといいぞ、いつの日か君も、自ら調査団の指揮を執る身になり、指導者の重荷を、人の誇りを膨らますと同時に人を押し潰しもする重荷を、一身に担うことになるだろうから……。左様、何か奇跡が、――というかまあ運に恵まれれば、君もいつか知ることだろうとも、何か月、否、何年も蓄積された憤懣を、たった一度で打(ぶ)ちまけることの、その云様もない安堵を、――」
「うぅあの、ちょっとあの?」
「あ。あ、済まん済まん夢中になって、我等は野卑な育ちなる、下々の者であるが故、年柄年中糞の話をしておる、碌に、――これは参った、私は今云ったのだな、『糞』と?――えい糞、おやまた云った、――何と! 二度も!」己(おの)が頭(つむり)を何度もぴしゃぴしゃ叩くメイスン。

ディクスンが軽く「正気の基準線を」なんて言うものだから、カチンときたメイスンは「ゲゲゲ!」と大騒ぎ。そのあと、蠍の毒針のような皮肉の応酬が続きます。というか、メイスンだけが興奮気味。「天使の如き方正ぶり」とか、嫌みたっぷりな大げさな言い回しが可笑しいです。
しまいにメイスンは、「愚痴をぶちまける相手として部下は最高だ」みたいなことを言い出し、「君もいつか私のような立場になることがあったとしたらわかるだろう」と上から目線で言ってのけ、うっかり「糞」と口走って自己嫌悪に陥る。なんだか、面倒くさい人です。まあ、勝手に暴走して勝手に反省してるんだからいいですけど。
このあと二人は、自分たちが何故この任務に選ばれたのかを話し合います。誰かの思惑がそこには働いているのではないか、などなど。自分の意思で動いていると思ってるけど、実は違うのでは? メイスンが、海馬号での戦闘以来、すべてが夢よう実感がないというようなことを言い、ディクスンもこんな風に答えます。

「ええ。何だかわし等、誰か他人の運命の中の住人みたいな、実は全然別の場所に居るみたいな……?」

鏡の国のアリス』が思ったこととおんなじですね。そうです、彼らはみんな小説の中にいるんです。


「8」の章。冒頭からいきます。

この地で日々が過ぎてゆき、日面通過はまだ余りに先のことで今一つ実感を持てぬ中、ディクスンは五感を通して伝わってくるもの達の容赦ない襲撃を受け、雲の晩など、くらくらする頭を抱えて、季節風から身を護るべく外套を着て夕暮れの町へ繰出し、禁じられた一郭へ飛んでゆかずにおれない。何処かで鳴っている旋律(メロディ)は、東印度人がペログと称している、彼等によれば宵越しの時間に相応しい音階で、それがディクスンの歩みに合せて静かに鳴り、律動(リズム)まで歩調と合っていて、ディクスンもつい軽やかに口笛を吹き始める。船上で口笛を吹いてはならぬと何か月も云われ続けた後では、悪徳を再開出来るのが何とも大きな自由と思え、取分け、土埃の踏み均された、どんどん暗くなってゆく道を辿っている今は格別そう感じられる、――周り中で手に負えぬ騒ぎが生じ始め、即座に戦える相手を探して闘鶏を持歩く黒人奴隷、小黒人種(ピグミー)の従者達を連れたバタヴィアから追放された山賊、面紗(ベール)を被った女、商売を営みに山から下りてきた逃亡奴隷、何処の港に寄ってもウォッピングの模倣と見えてしまう船乗り等々で賑わい、薄暗い四つ角ごとに、岬(ケープ)系馬来(マレー)人は売物を携えて待ち、その全員がじきにディクスンと顔見知りになる。
「よう、旦那(トゥアーン)! 最高の大麻(ダッガ)だよ、掃除済み、格付け済み、直ぐに火ぃ点けて喫えるよ……」「本物の和蘭陀杜松子酒(ジン)だよ、封印(シール)も本物の壜(ボトル)、そうとも! 処女みたいに無傷……」「出来立ての野菜煮醤(ケチャップ)、印度支那から特急で届いたよ! 鳳梨(パイナップル)、朱欒(グレープフルーツ)、答満林度(タマリンド)、――百の風味、千の混合(ブレンド)!」和蘭陀の支配する長い日中には見えぬ、岬夜(ケープ・ナイト)が今や至るところで羽を伸ばし始める。ディクスンの鼻を、煮え立つ食物、香辛料、家畜、夜に花開く蔦植物、貪欲で広大な海の匂いが襲う。ディクスンは今や町の鼻地図を獲得しつつある。漂ってくる匂いによって、時の経過を知ることを学びつつある、――煙管(パイプ)、羊の脂漲る夕食、宵越しの杜松子酒、――そして其処から逃げる術(すべ)を学びつつある……こっそり隠れ、夜に溶込んだディクスンは、通りすがる奴隷が運んでゆく角燈(ランタン)にぴったり寄添い、その熱を、輿の窓幕(カーテン)越しに漂ってくる和蘭陀人人妻の匂い(聖ヘレナ珈琲、英国製石鹸、仏蘭西の湿り)に劣らず生々しく感じている。遠くの方で、夜毎の消灯時間を告げる大砲が吼え、ディクスンが無法者の立場に移行したことを告げている。

ああ、こういう描写大好き! とばかりに長々と引用してしまいました。「1」の章の冒頭同様、情報量が多い。それが日暮れの町のざわざわとした賑わいに、ぴったりと合っている。僕は、この手の、あっちこっちでいろんなことが起きているシーンってのに、何故か魅かれるんですよ。しかも、夜。夜の賑わいはまた格別です。いいなあ、「岬夜」。ロマンティックな響きじゃないですか、ケープ・ナイト。
柴田元幸によるカタカナ語の漢字変換も、がちゃがちゃしたエキゾチックな雰囲気にマッチしてます。「鳳梨、朱欒、答満林度」という畳みかけもいいですが、僕が気に入ったのは「野菜煮醤」。これ、「ケチャップ」ですよ。冴えてるなあ、柴田さん。ちなみに、このあともチラッと出てきますが、ディクスンはこのケチャップの味に魅せられているようです。そうか、当時のイギリスにはケチャップはなかったのかー。
それにしてもこの引用部は、それこそ「五感を通して伝わってくるもの」を総動員したようなシーンになっています。ペログのメロディーに始まり、口笛、物売りの呼び声と聴覚に訴えかける描写が続いて、やがて匂いの描写に移っていくところが見事です。日が落ちていくので、視覚よりも音と匂いが前面に迫り出してくるんですよ。「町の鼻地図」ってのもいいっ! 歩みを進めるにつれ匂いが移ろっていくんでしょう。ごちゃごちゃした路地の雰囲気がよく出ています。そして、ランタンの明かりに照らされるシルエット。ほのかな熱。やがて、大砲の音。聴覚へと戻っていくわけです。
ディクスンが向かう「禁じられた一郭」っていうのは、いわゆる「悪所」、猥雑な繁華街みたいなことでしょう。そんな夜の町に魅かれる気持ちは、よくわかる。しかも、奴隷制度にがんじがらめのこの地にあってはなおさらのこと。ディクスンの口笛からもわかるように、悪所はある種の「自由」を感じさせる場所でもあるわけです。
おそらくオランダ人はこんな場所には訪れないんでしょう。でも、ディクスンは余所者だから、オランダ人たちの世界と黒人たちの世界を自由に往き来できるんですよ。それどころか彼は、奴隷たち、現地人たちのほうへシンパシーを感じている節があります。だから、彼らとすっかり顔見知りになる。夜に悪所をうろつき回る、「無法者の立場」になる。
やがてメイスンも、フローム家の不味い食事に飽きて、ディクスンと一緒に町をぶらつくようになります。メイスンに言わせれば、彼らの食事は「矢鱈根っこを食いたがる」「果てしなく茹でてばかり」「塩すらない」「凡そ羊を目にせぬことはない」などなど。文句たらたらですが、もやーっとした味なんだろうなということはわかります。確かに、スパイシーな地元の食事を口にしたくなりますよ。ケチャップたっぷりかけて。
さて、最初に書いたように、この小説にはあちこちに歌が登場します。それも一曲紹介しておきましょう。フローム家の娘を誘いにやってきた若者が弾き語るこんな歌。

噫、
岬娘(ケープ・ガール)、
海風に吹かれ、
満月よりも色白く、
罪の如く秘めやか、――
(中略)
岬娘に、
南東の風が吹けば、
夢で僕はゆく、
君の腕の中に、
ケープ・ガール、駄目(ノー)と言わないで。

これは、まんまポップスの歌詞のようです。山下達郎あたりが歌ってもおかしくない。いや、「ケープ・ガール、ノーと言わないで」ってあたりは、まるでビーチボーイズです。特に本筋とは関係なさそうなシーンですが、ピンチョン(と柴田元幸)の芸の細かさが愉快です。


ということで、今日はここ(P126)まで。年内はこれが最後の更新になるかも。ピンチョンで年またぎというのも、意外と悪くないんじゃないかな、という気がします。まあ、年末年始にどれくらい読めるかわかりませんが。