『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【4】


今更ですが、あけましておめでとうございます。
年またぎでピンチョンを読んでおります。更新を休んでいた分さぞかし進んでいるだろうとお思いかもしれませんが、年末年始はやっぱり何だかんだと慌ただしく、あんまり読めませんでした。まあ、焦って読んでもしょうがない。時間をかけて読むのがこのブログのいいところ、と自画自賛しながら、重い腰を上げましょう。


「9」の章。
ケープ・タウンに雨季がやってきます。この雨、というより嵐ですが、これがかなりすさまじい。

通りを先へ行った辺りで何処かの家の屋根が、ゴロゴロ水っぽい音を立てて崩壊する。この地にあって、建造物の表面は全て、直立した表面ですら雨に侵され、忽ち大きな硬い海綿の如くに水を吸い始め、たっぷり吸った末に溶けてぼろぼろ崩れ落ちる。何処かの屋根で鐘が鳴り出す。潰れてぬるぬる滑る果物の皮が横たわる排水溝が行き着く先の運河では、奴隷どもが嵐の中に出て、主人達の服を洗濯しながら、血、精液、糞、唾液、小便、汗、泥、老廃した皮膚等々の伝記情報(データ)を一つ一つ吟味し、解読する。彼等自身は、そうした伝記の、云わばより純粋な形態を日々生きている訳だが、やがてそれも天の下、全て溶け出てゆく。拱廊(アーケード)の下、雨に染まる影の中で、彼方此方(あちこち)の煙管に詰められた煙草の葉が赤々と息衝き、眼前を見詰める顔達の前でひょこひょこ揺れている。何もかもに濡れた石灰と汚水の匂いが付着している。群れから逸(はぐ)れた羊が高すぎる塀にくっついて背を丸め、メーメー辛そうに鳴いている。

家が溶けて崩れ落ちるような雨! すごいですね。この手の、様々な場面がスケッチされていくような描写は僕好みなんですが、ピンチョンの場合ビジュアルだけじゃなく、音や色や匂いがごうごうと渦巻いている感じなんですよね。
面白いのは、崩れ落ちる屋根というダイナミックな描写と、服にこびりついた細かな汚れというミクロな描写が並んでいるところ。家も流れていくし、老廃した皮膚も流れていく。「伝記情報」って言い方も、いかにもピンチョンらしいひねった表現です。それにしても、こんな日でも奴隷は外で働いているんですね。
そして雨宿りをしているのは、おそらく白人たちでしょう。顔はよくわかりませんが、煙草の火だけがあちこちで揺れている。ピンチョンのカメラは、人物じゃなくその顔の前で灯る火の赤さだけを捉えている。このあたりも面白いですね。まるで、煙草が意思を持っているかのようです。
そんな雨季を過ごしているうちに、金星の日面通過の日が近づいてきます。メイスンがフローム家の娘たちに、観測の意義を解説するシーンで、この章は終わります。


「10」の章。
冒頭、チェリーコーク牧師による『未完説教集』という文献からの引用文が掲げられています。曰く「惑星が太陽の周りを旋回する如く、我等人間も、ケプラーの法則に負けず美しい法則に則(のっと)って神の周りを旋回する」うんぬんかんぬん。もっともらしいことが書かれていますが、チェリーコーク牧師はこの小説の登場人物ですから、引用文もピンチョンの創作でしょう。そこにどんな含みがあるのかは今のところ判断保留ですが、こういう仕掛けはちょっと注意しておいたほうがいいでしょう。
さて、この小説、メイスンとディクスンの道中もさることながら、その外枠の場面、チェリーコーク牧師が「メイスンとディクスンの道中」を子供たちに語り聞かせているシーンがいいんですよ。クリスマス近い冬の日、あたたかな部屋で叔父さんの語るお話を聞いているなんて、ちょっと魅力的じゃないですか。
前章のメイスン同様、チェリーコーク牧師も子供たちに金星の日面通過について解説します。そこで使われるのが「太陽系儀」。実物は見たことありませんが、地球儀の太陽系版、要するに太陽系のミニチュア模型みたいなものでしょう。子供たちは、誰がこの模型の太陽に蝋燭の火を灯すかで大騒ぎです。ちなみに、チェリーコーク牧師の元に集った子供たちは、ルスパーク家の娘テネブレーとその双子の弟ピット&プリニー、彼らのいとこの大学生エセルマーとドピュー。

セルマーはほんの一瞬、彼女の鼻腔の中を真っ直ぐ見上げ、その一方が、太陽系儀中央に据えられた太陽を表す角燈(ランタン)にピットの蝋燭が灯ると共に、すうっと桃色に萌え上がるのを目にする。他の惑星はどれも、蜘蛛の巣の如き連鎖で以て曲柄(クランク)と曲柄軸に繋がれた身をチェリーコーク牧師の説教臭い手に押えられ、ぶーんと唸りを上げかねぬ勢いで待っている。奥に追い遣られた双子は、土星、そしてまだ加わって三年の新しい「ジョージア星」等、一番外側の惑星を動かすに甘んじている。昨春、著名な独逸人技師ネッセル博士が、戦時中の海を渡って亜米利加を訪れ、これまで各地で組立ててきた太陽系儀に無料で新しい惑星を加えてゆく道中、費府(フィラデルフィア)にもひょっこり現れたのだった。それぞれの儀に、博士は少しずつ違うやり方で惑星を付加していき、費府に着いた頃には、その縮小模型(ミニチュア)の緑掛(がか)った青の球体に、相当凝った世界地図を施すようになっていた。それは恰も、博士が太陽系儀一つ一つに向き合う度、それ独自の、我々の歴史よりも長い歴史を持った世界が啓示され、其処には認知可能な創造者も居れば、渡るべき海も奪い合うべき陸地も在り、征服すべき生物も存在するような趣であった。以来、子供達は多くの時間、透鏡(レンズ)を手にこの新世界を見詰めて過ごし、隅々にまで親しんできた。何しろ、『新惑星の歴史』という書物まで構想して、一部は実際に、双子が様々な戦争を提供し、ブレーは科学的発明や有用な技芸を考案して、本に仕立てた程であった。
「という訳で、此処、」曲柄を滑らかに回して金星、地球、太陽を然るべく一直線に並べた牧師が云う、「――地球から見た金星が、――此処で、――太陽面を横切ることになっておったのである。岬町(ケープ・タウン)から見れば、端から端まで凡そ五時間半。観測者が確定すべきは、この通過が正確にいつ始まり、いつ終るかである。世界中から、特に大きく離れた北と南から、そのような観測値を数多く集めれば、太陽視差の値が決められるというわけだ。」

いいですねえ。太陽が鼻の穴をピンクに照らす。このピンポイントな描写! いや、実際は蝋燭が照らしてるわけですが、太陽が照らしていると思うとちょっと面白い。そして、クランクでつながれたミニチュアの天体。逆に、実際の天体の運行も機械仕掛けのように思えてきます。そんな想像をかき立てるのが、ミニチュア模型のマジックです。主客は逆転し、世界は僕の手の中に!
ちなみに、「ジョージア星」とは当時発見されたばかりの天王星のことだそうです。太陽系儀に、律義にこの星を追加して回るネッセル博士という人物も興味深いですね。しかも、その中に地図まで描いてくれるんですから、ミニチュア模型に憑かれているといった感すらあります。一方、ルスパーク家の子供たちは、この新惑星の架空の歴史を本にする。そう、本もまた、世界のミニチュア模型なんですよ。ピンチョンを読んでいると、特にそんな気がしてきます。
それにしても、部屋で金星の日面通過を実際に再現してみるというのは、楽しそうですね。科学するココロ、ってのはこうじゃなきゃ。チェリーコーク牧師によれば、金星日面通過観測の目的は、各地での観測時間から視差を割り出そうということらしい。視差から、太陽までの距離が計算できる、ってことでいいのかな? 天文学という壮大な物差し。ミニチュア模型同様、ここにもサイズのマジックがあります。
さて、本筋のメイスンとディクスンのほうはというと、いよいよケープ・タウンで金星日面通過の瞬間を迎えます。おお、クライマックス! と思いきやその瞬間の描写は意外とあっさりしたもので、拍子抜け。いや、それなりに面白いところもあるんですけど、さんざん話題にしてきたんだからもうちょっと盛り上げてくれてもいいのにと思います。どうも、ピンチョンは瑣末なことはちまちま書くくせに、大きそうなトピックはあっさりやり過ごすところがあるようです。うーん、ひねくれ者ですね。
以下は、金星日面通過のメイスンとディクスンの感想。

「創造主の御手(みて)を目の当たりにした、というだけじゃありません、」ディクスンは後日メイスンに語る、「ニュートンケプラーの仕事の正しさも証されたんです。ぴったり計算通りに、三つの天体が一列に並ぶ……うぅ、ほんと、呆然としちまいましたよ。」原因は何であれ、ディクスンの記録した時間は、メイスンのそれより二秒から四秒早い。
「只でさえ為すべき修正はどっさりあるのに、更にもう一つ、観察に逸(はや)る思いの分も直さねばならんのか、」メイスンは云う、「差詰め『獅子化』とでも呼んでおくか。」
「だったら『牛性』も直すべきじゃないですかね、」ディクスンが応じる、「融通の利かぬ用心深さによる遅れ。」

二人の旅の目的だったにも関わらず、観測に誤差が生じてる。どうにも締まりません。これが、二人の性格の違いからきているというのが面白い。「獅子化」とかなんとかチクチク言うメイスンに、負けじと「牛性」という言葉で一矢報いるディクスン。二人の憎まれ口の叩き合いが愉快です。これ、獅子座・牡牛座といった星座の名前と掛けているのかもしれませんね。ともあれ、生真面目すぎるメイスンと、おっちょこちょいのディクスンは、いかにも凸凹コンビという感じです。そんなこんなで、観測を終えた二人は、ケープ・タウンを離れることになります。
この章のおしまいは、またしても外枠のお話に戻ります。チェリーコーク牧師の部屋へ、今度は牧師の妹であるユーフリーニア叔母さんがオーボエ(双簧木管)を抱えて現われる。この叔母さん、どうやらたいそうなお喋りのようです。

ブレーがうっかり一度、一度だけ、思わず息を呑んで「まあ叔母様、叔母様はほんとに土耳古(トルコ)の後宮に居らしたの?」と口走る過ちを犯したとき、それは何とも巨大な栓を開くこととなった。「バルバリーの海賊にあたし達アレッポまで連れて行かれてねえ、八〇年、八一年の辛い時代は覚えてるでしょ、――いえ、勿論覚えてないわよね、――レバント会社は大揉めだし、お酒を飲めるところもありゃしなくて、一年中断食(ラマダーン)みたいなのよね、――まあともかくそんな荒れすさんだ時期のその又どん底って時に、あの恐しい波に乗って費府(フィラデルフィア)を発った訳よ……月がドック川の水面(みなも)に映って、黒人(ニグロ)達の暗い歌が川辺から聞えて、――」巧みに旅人の物語に偽装された彼女の語りは、その内容の大半が、テネブレーのような無垢な娘の聞くべき話では凡そなく、双子の関心を保持できる話でも矢張りない。丸天井の伽藍や光塔(ミナレット)、海から聳え立つ山頂、毒蛇、奇蹟を売って歩く行者達、寵愛を争う後宮での陰謀、娘が戯れに握る拳程もある金剛石(ダイヤモンド)等々からなるユーフリーニアの土耳古冒険譚にあって、他ならぬ〈窮地〉という主題(モチーフ)が再三物語の核となっており、その主題は多くの場合、彼女が双簧木管で然るべき音色の二つや三つを奏でて傍観者達を魅了することで解決を見るのだった、

ちょっとツッコんだだけで、あふれ出す叔母さんのお喋り。しかもどこまで本当なんだかわからないような、けばけばしい冒険譚。どうやら子供たちに聞かせるには、少々エロティックだったり、残酷だったりするお話のようです。でも、それって「メイスンとディクスンのお話」と、どこが違うんでしょうか? 船が襲われ死体の山が築かれたり、三姉妹から誘惑されたり、子供向けじゃあないことは確かでしょう。
「巧みに旅人の物語に偽装された彼女の語り」とか、「〈窮地〉という主題が再三物語の核となっており」なんていう、皮肉っぽい言い方をしてますが、「メイスンとディクスンのお話」だってそんなものかもしれません。僕にはどうにも、ピンチョンがこの手のうさん臭いお話を楽しんでいるように見えるんですよ。オーボエで窮地を脱するなんて、可笑しいじゃないですか。
このユーフリーニア叔母さんの語りは、この小説においてはまったくの脱線と言ってでしょう。メイスンとディクスンには、直接何の関係もない。にもかかわらず、何故わざわざ脱線するかといえば、結局のところそれが楽しいからなんじゃないかと。ピンチョンは嬉々として脱線しているんですよ。


ということで、今日はここ(P151)まで。まだ上巻の半分もいってませんが、いつ読み終わることやら。まあ、今年もゆるゆるいきますので、どうぞよろしく。