『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【5】


またちょっと間が空いてしまいましたが、続き、いきまーす。


「11」の章。
ケープタウンを出て、聖ヘレナへ島へやってきたメイスンとディクスン。セントヘレナと言えば、ナポレオンが追放された流刑地ですよね。そのくらい絶海の孤島であり、ロンドンからやってきた二人にとってみれば、地の果てといった感じでしょうか。少なくとも健全な場所とは言い難いようで、不品行や淫行がはびこっているとのこと。ちなみにこの島の所有者は、おなじみ東インド会社です。

マンデン崎に出ると、一基の絞首台が立つ姿は、この海空のぎらつく光を浴びて単なる一筆(ひとふで)と化している。夕暮れ時に此処を訪れる者は、砲座の上に立ち、倫敦を訪れた者が聖ポール寺院を眺めるように、暮れ泥む北極光の中、聖ポールよりは相当に不吉な情景を目にすることになる、――それによって、罰というものにいつしか思いを巡らしもしようし、――はたまた貿易に思いは流れるか……何故なら奴隷制を抜きにした貿易など考えられぬのだし、奴隷制はその必須要素として絞首台を含まぬ訳には行かず、絞首台なき奴隷制など、十字架なき十字軍同様に虚ろにして空しい代物でしかないのだから。海から内地に向って延びている大きな峡谷の端、絶壁の下、砲台に沿って、毎日黄昏時に、微風を捕えんとする島民達が漫ろ歩く。黒光りする銃砲と、武装した歩哨達を無視するなら、島全体を、大きさも定かでない東印度貿易船と見立てるのも強ち不可能ではなく、日暮れ時にこうして練歩く人の姿も、露天甲板の上を遊歩する乗船客のそれと見えよう、――尤も、よく見てみれば、どの顔にもそれぞれ浮かんでいるのは旅行客の好奇心というより、女達ですらも、陰鬱なる情景を長年日没の度に見てきたことを物語る表情。

夕日を背に断崖に立つ絞首台。いやーな感じの光景です。人がぶら下がってたりしたら、さらにいや。そのシルエットが、一筆書きでのように見えるという比喩は上手いですね。確かに、絞首台って線でできているっぽい。
貿易・奴隷制・絞首台の三題噺も、ピンチョンらしい皮肉です。要するに、「奴隷制」は経済と深く結びついているわけですよ。島全体が東インド会社のものであるからには、この地は貿易と奴隷制に骨絡みの場所ということになります。島が貿易船だとすれば、その船を漕がされているのは奴隷たちというわけです。何だか憂鬱な気持ちにさせられる話ですが。


「12」の章。
この章は、メイスンとディクスンが、マクスラインという人物と、酒場で飲んでいるシーンから始まります。いきなり何の説明もなく話は進んでいきますが、マクスラインって誰よ? どうやらこの人物、この島で大犬星シリウス)の観測をしているらしい。3人の会話は噛み合わず、よくわからない皮肉の応酬をしているっぽい。もちろん読んでる僕にも、何の話をしてるのかこの時点ではよくわかりません。
ところで、この酒場では雄鶏麦酒(コック・エール)という酒を出すんですが、そのレシピがユニークです。

ブラックナー氏の雄鶏麦酒の製法(レシピ)と云えば、印度貿易船の航路上至る所で珍重されている。これ等馬来人が闘鶏を連れて町に立寄ると、云わば主材料が俄に旬となる。ブラックナー氏の好みとしては、欠かせぬ乾燥果実の欠片はカナリー葡萄酒に浸すより寧ろ山の酒即ちマラガ葡萄酒に浸すほうが望ましく、また闘鶏の死体を搾るには、中国製の巧妙な鴨搾りを用いるに限る。中国から逃亡してきた貴族からユーカー賭博でせしめたこの鴨搾りを使うことで、搾る力が無類に高まり、他所では凡そ得られぬ神秘なる体液が抽出出来るのである。

これ、実在する飲み物なんでしょうか? と思ってネットで調べたら、闘鶏の際に鶏に飲ませた酒を「コック・エール」と呼び、それがカクテルの語源になったというようなことが書かれてました。つまり、その話を元ネタにしたピンチョンの創作ということなんでしょう。それにしたって、鶏の体液を飲むってのは気色悪いジョークですね。だいたい「中国製の巧妙な鴨搾り」って、何なんですか? グレープフルーツを搾る器具ならわかりますが、ないでしょ、鴨搾りなんて!
そんなこんながあり、ディクスンは一端メイスンを残して島を離れ、ケープ・タウンに戻ることになったとか。そこで、今まで使っていた時計を聖ヘレナに置いて、新しい時計を持っていくこととなります。
このあと、えらく奇妙なシーンが描かれます。時計が交換されるまでのわずかな時間、ディクスンの古い時計と新しい時計が会話をするんですよ。これにはびっくり。そりゃあ喋る犬が出てきたりもしましたが、時計が話す気配なんて今までまったくなかったじゃないですか。まるで、藤枝静男の「田紳有楽」です。
新しい時計は、これからディクスンと共に向うまだ見ぬ地、ケープ・タウンについて知りたがります。

「で、岬町(ケープ・タウン)はどんな感じ?」もう一方が問う。
「先ず空気だが、常時湿っていると云ってよい、」エリコット時計が答え、――岬に関してこの時計が有する知識は全て雨季に得たものなのである、――そこから今度は、自らが目下患っている時計的疾患を、主撥条(ゼンマイ)の機能不全からブルゲ髯撥条(ヒゲゼンマイ)の中風まで一通り並べ立てるものだから、相手の振子の錘(おもり)も同情の念に揺れる。
「ということはつまり、何もかも防水になってはおらんってことだな。」
「雨が途切れる度、も少し水が入らぬよう一応努力はしてくれるがね。」

雨季しか知らないっていうのも可笑しいし、「時計的疾患」のあたりも笑えます。さらに時計たちは、オランダの時計の特徴について語ったり、メイスンやディクスンについての噂をしたりします。でも本当に面白いのは、このあとです。

実のところ、時計達が本当に話したかったのは、海のことであった。何故かその話題には行着けなかったのである。どちらの時計も、海とは何なのか実はよく知らず、――間違いなく何かしらの律動(リズム)を有する存在だということしか判っていない、――これまでの生の大半をその近辺で過ごし、時には樽板一枚、船体一面隔てたのみということすらあったにも拘らず。その波の律動は常に彼等と共に在ったけれども、どちらの時計も、自分が海というもののどの辺に居るのか、どうも確(しか)と判った例(ためし)がない。彼等が感じるのは、時に抵抗可能、時に不可能な誘引力である。即ち、振子の長さに拘らず、或いは時(じ)や分(ふん)にさえ無関係に、その力と合せて拍を打ちたいという誘惑。

好きだなあ、このシーン。海を知らない時計たち。言葉としては知っていても、その定義がわからない。いくら近くにいても、その形態や色や大きさがまったくピンとこないわけです。唯一わかるのは海の刻むリズムというのが、いかにも時計らしくて面白い。「あれが海ってものらしいけど、いったい何なんだ?」と思ってるんでしょう。時計たちの気持ちになって考えてみると、なんだか、彼らがかわいらしく思えてきます。まあ、時計に気持ちなんてないんですが。


「13」の章
聖ヘレナ島へ残されたメイスンは、マクスラインと行動を共にします。この章は、ちょっと読みづらい。というのも、マクスラインが何を考えてるのか、さっぱりわからないんですよ。思わせぶりなねじれた言い回しを多用し、裏に何かありそうなことを話すんですが、それがよくわからない。
マクスラインはかなり鬱陶しい人物で、偏屈で恨みがましくて、ちょっと妄想癖もあるという感じ。妙に自分を卑下したと思ったら、急に怒り出したりする。以下は、マクスラインのセリフです。

「いやいやいいんです。この島についてどんな悪口を云われたところで、もう全部ウォディントンから聞いております、でなければ私が自分で云っております。一時期なぞ、この島が意識を持った生き物だと信じて疑わなかったこともありますよ、地の下から活力を得ておる、会社によって秘密裡に造り上げられた生き物なのだとね、――この島は何もかも会社のもの、――如何なる営みも、思いも、夢も、全ては会社によって生み出されておるのだ、そう信じてました。ハ‐ハ、いやほんとにねぇ、私も妙なこと考えますよねぇ。私はなるたけそっと静かに歩くよう努めました、其奴に歩みを勘付かれまいとしてね。強く踏みすぎるとね、其奴がびくっと縮こまるのが判るんですよ。だから、それは避けようと。あんただってそうしますよきっと。この町の連中もみんな、狂った奴等ですら大半が、そうっと忍び足で歩いてますからね。誰の権力でそんなこと強制している訳です? ハッチソン総督ですか? 会社の警備隊? いやいやそれ以上に、自分達は微睡む生き物の上で生きてるんだという意識が、其奴から見れば人間なんて蚤よりちっぽけでしかない怪物の上で暮してるんだという気持ちが、そうさせるんです、――だからこそ私等みんな、かくも危うい生に対して細心の注意を払いもし、その生を維持する上で、如何なる礼儀が真に必要か、本気で考えておる訳です。夜間外出禁止令がないのもその為です。生きる為に、四六時中起きていなくちゃならんのです。目覚めている全ての瞬間、恐怖と共に過ごす、放蕩と汚辱に塗れる危険を常に抱えて、――」
(中略)
メイスンはだらだら汗をかきながら考えている。ディクスンの奴、私を危険な狂人と二人きりに置き去りにした訳か。それにウォディントンにしても、何でそこまで早く帰ったのだ? 何を云ってる? 火を見るより明らかではないか、奴がそそくさと発った訳は、恐慌(パニック)以外の何ものでもない! 此処では明らかに、一瞬たりとも注意を怠れぬのだ、絶対マクスラインを刺激しないように。ゲゲゲ……。

ウォディントンは、メイスンやマクスライン同様の天文学士で、ここ聖ヘレナにマクスラインを残してさっさと立ち去った人物です。そんな彼へのネチネチとした恨み辛みが、チラっと言葉の端にのぞいています。そういうところ! そういうところが、ウォディントンには耐え難かったんじゃないの?
それにしても、島が生きているなんてのは明らかにイカレた妄想です。しかもその生き物を造ったのが、「会社」だと。たわごとと言ってしまえばそれまでですが、ピンチョンはこの手の陰謀論めいた話が好きですね。
まあ、マクスラインにとっての東インド会社は、ちっぽけな自分の運命を左右する、巨大な生き物みたいなものなのかもしれません。そして、この島の陰鬱な空気も放蕩と汚辱にまみれた環境も、東インド会社の影響下にあるせいかもしれません。つまりは、貿易と奴隷制。あの、絞首台の話とつながっているんじゃないかと。
ともあれ、マクスラインはお守りをするのが大変なタイプと見受けられます。メイスンが「ゲゲゲ」と言うのも無理はありません。

マクスラインの不運を聞いて、メイスンは理解する。自分の務めは、マクスラインの前で絶対に嬉しそうな顔、満足気な顔をしないこと、――更に又、この後(ご)頻繁に見られることになる、マクスラインが矢鱈(やたら)振回す短剣にも一切反応せぬこと。

嬉しそうな顔をしたが最後、ねちねちと絡んでくるんでしょうね。しかも、短剣を振り回すんですか? やっかい。ちなみに、マクスラインは、東インド会社の大富豪クライヴの義理の弟に当たるらしいです。このあたりも、微妙に扱いにくい感じがします。
そう言えば、「11」の章の冒頭で、チェリーコーク牧師がマクスラインについて触れていたっけ。読み返してみると、牧師がお話を語っている時点でのマクスラインは「王立天文台長として暦を刊行し、世界貿易にも手を出している」とか。おおっ、大出世じゃないですか! そして、ここにも「貿易」が出てきてました。うーん、生臭いですね、マクスライン。


ということで、今日はここ(P212)まで。
話は遅々として進まない上によく見えない部分も多いです。なのに、コック・エールやら時計の会話やら、変なところが面白いのが困ります。どう読んだらいいものやら…。