『舞踏会へ向かう三人の農夫』について


『ガラテイア2.2』には、リチャード・パワーズ自身のこれまでの作品に対する言及があちこちに見られます。その中で、邦訳されているのは、処女作『舞踏会へ向かう三人の農夫』のみ。そこで、参考までに、この作品を読んだ当時の感想を書いておきます。
以下は、05年7月5日の日記からの転載です。


【舞踏会までの長い道 と いくつもの道】

リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』(みすず書房)、読了。
1ヶ月くらいかけて、ちまちまと読んでたんだけど、いやー、長かった。久々に、歯ごたえのある小説を読んだなあって気がする。こーゆーたっぷりとした本を読み終えたあとの、虚脱感と満足感が入り混じった気分が好きだ。ふぅー。
訳はおなじみ柴田元幸。文章自体は、読みづらいというほどのものじゃあない。ただ、そこに盛り込まれてる情報量が多くて、それを丹念にほぐしていくのに時間がかかるんだよね。テーマは20世紀。戦争や機械文明やメディアの世紀。そりゃ盛りだくさんになるわけだ。
「舞踏会へ向かう三人の農夫」ってのは、ドイツの写真家アウグスト・ザンダーが1914年に撮影したポートレイトのタイトル。この本の表紙にも、この写真が使われている。この小説は、そこに写された三人の農夫の物語であり、彼らが生きた時代についての物語であり、写真を見ることについての物語でもある。
まず、パワーズは、写真をじっくりじっくり見つめたんだろう。そして、20世紀を生きた彼らの人生や、それを取り巻く歴史について考えをめぐらせたんだろう。そして、そうやって考えをめぐらす自分についても、考えをめぐらせたんだろう。
2段組で400ページもある小説だけど、そこには、20世紀のあれやこれやや、その哲学的・歴史的・社会学的考察まで詰め込まれている。それが、たった1枚の写真をきっかけ作られたってことに、くらくらするような興奮を覚える。そんな風にして膨大な情報量を詰め込んだ物語が生まれたことに、くらくらする。
写真を見ることと小説を書くことが、イコールで結ばれているような、そんな小説って言ってもいい。見ることと見られることの間に、読むことと読まれることの間に物語は生まれる。つまりこれは、小説を書くことについての物語でもあるわけだ。
俺は、この本を読みながら、何度も何度も表紙に掲げられらた写真に戻らずにはいられなかった。この写真の背後には、きっといくつもの物語があっただろう。そして、この写真からきっといくつもの物語が生まれることだろう。
例えば、20世紀の初頭を、パワーズはこんな風に描写する。

ライト兄弟は鍛冶屋仕事に励み、スターリンは新聞記事を書き、カフカは公式文書に判を押していた。ハーストは記者たちの尻を叩いてラグタイム音楽糾弾の記事を書かせた。シュヴァイツァーはバッハの研究書を書き、アフリカにキャンプを張った。今世紀における最重要物質の発見者アレグザンダー・フレミングは千のシャーレを忙しく並べ、ビール工場から迷い込んできた胞子が鼻汁と混じりあってペニシリンの抗菌作用を明かすのを待っていた。そしてさらには、もしも運に恵まれていたなら、以上に挙げたどの業績よりもさらに上を行く偉業をなしとげたかもしれぬ無数の人々がいた。

無数の人々に、無数の物語。無数の写真に、無数の物語。無数の物語を読む無数の人たちの頭の中に渦巻く、さらに無数の物語。
ほら、くらくらするでしょ。