『奴婢訓』スウィフト 【2】


前回の最後に、「いったいどこで用を足すっていうんでしょう」と書きましたが、訳者の深町弘三氏による解説に、答えが書いてありました。深町氏によれば、この本は、「18世紀初頭英国の一種の風俗絵図」でもあるとのこと。当時のロンドンは、「不便、不衛生、乱脈」だったそうです。そこにこんな一文が。

男も女も夜は室内で便器に用を足した

ああ、やっぱり室内でするんだ。で、スウィフトが、その便器の代用品として挙げているのが、銀の大カップ…。


まあ、それはいいとして、本文「細則篇」に入ります。
「第一章 召使頭(バトラア)」から。
召使いの頭というだけあって、一番役得が多いようです。いかに、主人のものをちょろまかし、それをお金に替えるかというあたりがポイントでしょうか。でも、それに関する記述は、まあ当たり前すぎてそれほど面白くない。それよりも、接客について書かれた部分のほうが、いやらしくて面白い。

たまたま席に身分の卑しい客、お抱え牧師、家庭教師、厄介になってる親戚などが居て、主人や一座のお客から余り尊敬されていないことを知ったら(こういうことの発見、観察には召使ほど素早いものはない)、バトラアと従僕は目上のお手本に倣(なら)って、その客を他よりも数段劣った者として待遇する。これほど主人を、少なくとも奥様を、喜ばすものはない。

やな感じですね。主人の威を借る召使い。でも、これ別に主人を尊敬してるわけじゃありませんよ。要するに、どうすれば上手く立ち回れて、自分が利益を得られるかということでしょう。

旦那様と会食の後客がお立ちの時は、出来るだけ目に付くようにして玄関まで送って行き、折りがあったらお客の顔をじっと見てやる。多分一志にはありつける。客が一晩泊まったら、コック、女中、馬丁、台所の下働き、庭男、全部を引き連れ、玄関までずらりと両側に立ち並んで見送る。お客の出方(でかた)が立派なら彼の名誉になることで、旦那様には一文の損にもならない。

これは、チップのせしめ方です。「じっと見てやる」という、客を見下した言い回しにドキッとさせられます。うっかり泊まろうものなら、大勢でプレッシャーを与えられる。それにしても、「旦那様には一文の損にはならない」ってのは、よく言うよ、ですね。さんざんあれこれちょろまかせと勧めておきながら、ポーカーフェイスでこんなことを言うわけです。
あと、こんな一文もありました。

コップ類は小便で洗う、御主人の塩の倹約のために。

だから、そういうのやめてください。


「第二章 料理人(コック)」です。
この章は、ひたすらセコいです。いくつか挙げましょう。

食卓へ出す皿の底を拭いて台所用の布巾を汚すのは不手際というもの。どうせテエブル掛が拭いてくれるんだし、テエブル掛は食事毎に取換えるものなんだから。

煤の塊がスープの中へ落こちて、うまく取れない時は、よく掻き廻しておく。スープに高尚なフランス風の味がつく。

台所は化粧室と考えるべきではあるが、お便所へ入り、肉を串にさし、鶏の羽を縛り、サラダをつまんでしまうまでは、いや、二品目を出してしまうまでは、決して手を洗わぬこと。いろんなものを扱わねばならないので、手はまだこれから十倍も汚れるのだから。仕事がすんで、一度洗えばそれで間に合う。

それぞれ、妙な理屈で行為を正当化してるのが可笑しいです。それにしても、何だってスウィフトは、こうも排泄と食事をごっちゃにしたがるんでしょう? いくら18世紀だとは言っても、どうかと思います。
この章で僕が気に入ったのは、手間を省くためにということで提案されているこれ。

三、四封度分のバタを手でこねて塊にし、料理台の直ぐ上の壁にぶっつけておき、必要に応じてちぎり取って使う。

豪快! 「手でこねて」「壁にぶっつけて」「ちぎり取」るんですよ! これはもう、食べ物じゃないですね。粘土。


ということで、今日はここ(P38)。それにしても、何て言ったらいいのかよくわからない、座りの悪い本ですね、これ。