『奴婢訓』スウィフト 【1】

奴婢訓 (岩波文庫)
ガリヴァー旅行記』の作者、ジョナサン・スウィフトの遺稿『奴婢訓』。これ、寺山修司が戯曲のタイトルに使ったりしてて、名前だけは知ってたんですが、永らく絶版だったんですよ。一度読んでみたいと思ってたんですが、それがこの度、岩波文庫で復刊されました。
ということで、今回は、
『奴婢訓』スウィフト
です。
1745年にイギリスで出版されたもので、岩波文庫の初版は1950年。120ページ程度の薄い文庫ですが、今の文庫に比べると文字が小さくびっちり。しかも旧字体です。
「奴婢」ってのは、召使いのこと。「奴婢訓」は、「召使い心得」ってな意味でしょう。まず総則があり、そのあとでコック、馭者など役職別の細則が述べられるという構成になっています。
うーん、スウィフト、ちゃんと読むのは始めてですが、どんなもんなんでしょう。


では、いきましょう。尚、旧字体はややこしいので、常用漢字に直して引用します。旧字マニアの人、ごめんなさい。
まず最初に、「奴婢一般に関する総則」というパートから。
「総則」と言いながら、前置きなしにいきなりこう始まります。

御主人の呼んだ当人がその場に居ない時は誰も返事をせぬこと。お代わりを勤めたりしていてはきりがない。呼ばれた当人が呼ばれた時に来ればそれで十分と御主人自身認めている。
あやまちをしたら、仏頂面で横柄にかまえ、自分の方こそ被害者だという態度を見せてやる。怒ってる主人の方から、直きに、折れてくる。

ちょっと変ですね。どっちが主人かわかりゃしない。実はこの「召使い心得」、徹頭徹尾召使い側に立ち、いかに仕事をサボり、役得を手にするかについて書かれた「心得」なんですよ。アイロニカルな指南書。なかなかタチの悪い本ですね。で、この先も、延々この調子で続きます。

自分が雇われている当面の仕事以外には指一本動かしてはならない。例えば別当が酔ぱらっているか留守かで、バトラアが厩の戸を閉めろと命令されたら、「旦那様、私は馬のことはさっぱり存じませんので」と、直ぐ答える。掛布の片隅に釘一本打てば留められるという時、従僕がそれを命ぜられたら、そういう仕事は私にはわかりません。家具屋をお呼び下さい、と申上げる。

三度か四度呼ばれるまでは、行かないこと。口笛一つで飛んで行くのは犬だけだ。旦那様が「誰か」なんて呼んでも、誰も行く必要はない。「誰か」なんて名前のものは居りはしないのだから。

憎たらしいです、こんな召使いがいたら。でも、「召使い」なんて今の日本では、リアリティがないので、別の職業を当てはめてみましょう。例えば、役人や官僚あたりはどうでしょうか。よくあるでしょ、役所でたらい回しされてさんざん待たされて、書類の不備で「後日、また来てください」って言われるなんてことが。そんな応対をちょっと思わせます。ほうら、だんだん腹立たしくなってきます。
さらに作者は、召使いたちに呼びかけます。

皆の衆に一致和合を心から私はおすすめする。が、誤解してはいけない、お互同士の喧嘩は御随意。唯、旦那様、奥様という共通の敵があり、守るべき共同目的のあることを、夢忘れてはならぬ。

「御随意」とか「夢忘れてはならぬ」なんていう古めかしい訳文が味わい深いですね。それにしても、「共通の敵」ってのはすごい。よく映画や小説で、「私は父の代からご主人様にお仕えしておりますので」みたいな執事が出てきたりするけれど、ここには、忠義とか誇りみたいなものはみじんも見られません。主人は敵。「ご主人様のためにお尽くし申し上げます」みたいな顔をしながら、いかに出し抜くかを窺っている。
見かけと内面のズレが、この小説なのかエッセイなのかよくわからない本のミソなんじゃないでしょうか。一見正しいことを言っているように見える文も、読んでいくと思っていた方向からズレていく、なんてことがままあります。

やりかかった仕事をするのに適当な道具がない時、その仕事をやらずにおくよりは、考え出せるあらゆる便法を用いた方がいい。例えば、火掻きが見当たらぬかこわれていたら、火挟みで火を掻き起こす。火挟みも手近になかったら、鞴(ふいご)の口、シャベルの握り、煖爐箒、雑巾箒の柄、旦那様のステッキ。鳥の毛焼きに紙がほしかったら、家にある本を手当たり次第破いて使う。靴を拭く布巾がなかったら、窓掛の端かダマスク緞子のナプキンで拭いておく。お仕著(しきせ)の飾紐を抜いて靴下止にする。バトラアが便器入用だったら、銀の大カップを使用するがいい。

丁度真ん中に出てくる「旦那様のステッキ」から、本来「やってはいけないこと」へとどんどんズレていきます。要するにお屋敷にあるもの、ご主人様の持ち物を、どんどん使っちゃえばいいじゃんって話になっていく。でも、これ、とっかかりは、「道具がなくてその仕事をやらずにおくよりは、工夫してやるようにしましょう」っていうところから始まっているんですね。つまり、「いいこと」とされていることを突き詰めていくと、「やってはいけないこと」に反転してしまうわけです。このねじれが面白い。
それにしても、便器の替わりに「銀の大カップ」を使うってのは驚きます。食器ですよね、カップって。そりゃあいけません。いけませんよ。それに、いったいどこで用を足すっていうんでしょう。


ということで、今日はここ(P16)まで。まだよく掴めませんが、このあとは、細則に移ります。