『天の声・枯草熱』スタニスワフ・レム 【3】

第2章です。


まずこの章の冒頭に、ちょっと意外なことが書いてあります。

同僚の一人に序文を見せると、私が、あとで自分の真理愛的傾向を思うぞんぶんに発揮させるために、ここではわざと自己卑下をしているといった(以下略)

え、序文、読ませちゃったの?
で、ここから、またしても本文では嫌がらせのように序文に絡めた観念的な話が続くわけです。
が、まあそれはそれとして、ちょっと面白いのが、教授の手記が第三者に読まれながら書かれているということです。で、その第三者の論評がこの手記にフィードバックされている。
これは、小説ではそれほど珍しくない手法ですが、回想録って考えるとちょっと奇妙な気がします。だって、過去をふり返ってまとめるのが回想録でしょ。途中で読ませて、それについてまた書くってのは、変だといえば変な気がします。
このブログは「読んでる途中で書いてみる」ってことをやってるんですが、教授のやっていることもそれにちょっと似ています。「書いてる途中で読んでみる」。「書く」と「読む」がそれぞれに影響し合ってる。
偶然とはいえ、一冊目にこの本を選んだのは正解だったんじゃないかと思えてきます。


さらに教授は、この章の半ばでこんなことを書いています。

どうにかここまで読み終えられた読者が、いらだちを募らせて、いったいいつになったらあの有名な事件の核心に入り、血も凍りつくスリラー映画を見ているとき味わえるあの甘美な戦慄を感じさせてくれるのだと、それを期待し望んでおられるのだとしたら、ここで私の本を閉じられたほうがいい。これ以上読み進められても失望されるだけだから。

ギクッとします。名指しで非難されたような気分。何もかもお見通しだぞと言わんばかりです。何でこの期に及んでそーゆーこと言うかなあ。「あの有名な事件」って言われても、こっちは何にも知らないんだから。
確かに僕は、スリラー映画のようなサスペンスを期待していました。謎解きのスリルを期待していました。でもそんな話にしてしまったら、マスターズ・ヴォイス計画について書かれた多くの文献がそうであるように、安易な結論を導き出しわかったような気にさせるだけのものになってしまう、ということでしょう。
ここに至るまで、僕は何度も教授による「じらし」を話題にしてきました。「じらし」とは、結論を先延ばしにするということです。いや、結論があるかどうかもわからない。どうやら教授は、異常な事件という大いなる謎に対して、簡単に結論づけたくないと思ってるようです。だから、回想録なのに過去をまとめる記述をいつまでたっても始めず、うねうねと思索を続けているのです。
実は「読書」というものも、そういうものじゃないかと思えてきます。結論ありきの読書なんか、面白くも何ともない。何かわからないけど、何かがありそうな気がするから本を読むんです。それは、結論というようなまとまった形をしてないかもしれません。読み終えて得体の知れない気分が残るだけかもしれません。ひょっとしたら、読むというそのうねうねとした過程こそが全てなのかもしれません。
うん、このブログでやろうとしていることが、改めてクリアになってきました。ホガース教授、ありがとう。


というように、「読む」ことが「書く」ことにフィードバックしてきたところで、今日はここ(P43)まで。
次章から、いよいよ事件の顛末が語り始められるようです。