『愛と障害』アレクサンダル・ヘモン【2】


ちまちまと読んでます。今回も2編。前回の「すべて」の最後に、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の始まりが告げられていましたが、いよいよ、紛争が作品に影を落とし始めます。
では、いきましょう。


「指揮者」
語り手の「僕」は20代になってます。もちろん、もう童貞じゃない。詩人の卵ではありますが、その詩はまだどこにも発表していないというところから始まります。「読者が進化して、僕の自我の広大な空間を把握できるようになるのを待っていた」とかなんとか理由をつけてますが、早速、イタいですね。単に自信がなくてビビってるだけでしょ。認めて欲しいけど否定されたくない。若い頃にありがちなヤツですよ。
でも、詩人への憧れは強烈にあるわけで、やがて「僕」は著名な詩人がたむろするカフェに出入りするようになります。そこで出会ったのが、「ボスニア最高の詩人」と評されるムハメド・D。「僕」は、これまた若さ以外に誇るものがない者特有の傲慢さで、さも気のないような態度で接します。「僕」は、そのときの服装から「指揮者」とあだ名をつけられるんですが、内心では、ムハメド・Dの年寄りっぷりと田舎臭さを嘲笑し、それに比べて自分はファッションセンスにも優れた「サラエヴォのスモッグを吸って育った人間」だと胸を張る。ランボーを知らない両親を軽蔑するように、都会のスタイルになじまない大詩人を冷笑しているわけです。
しかもこれは、認めてもらいたい気持ちの裏返しだったりするからやっかいです。こうした辛辣な言葉を練りながらも、決して口にはしないというこじらせっぷり。結局、仲間に入れて欲しくてしょうがないんですよね。そんなことはすぐに見透かされてしまうに決まってるんですが、何だかんだで「僕」は詩人たちに受け入れられます。「僕」はといえば、カフェに出入りする女子学生に自作の詩「愛と障害」を読み聞かせて口説こうとしたりする。ひとつ前の短編「すべて」に出てきた、あのイタい詩です。うわー。

これは紛争の直前の、比較的ばら色の時期のできごとだった。破滅的な事態がすぐそこに迫るなか、僕らは過剰な幸福感に浮かれていた――夜遅くまで酒を飲み、笑い、新しい詩の形式を試した。テーブルから紛争を遠ざけようと努めたが、芽生えたばかりのセルビア愛国主義者がときおり民族文化の抑圧についてわめくことがあり、するとデドは、新たに獲得した年長者の立場から、入念に並べた侮辱と悪態を次々に繰り出して相手を抑えた。するとかならず、愛国主義者はデドをイスラムファシスト呼ばわりし、荒々しく立ち去って二度と戻らず、一方、僕ら愚か者は、やかましく大笑いした。僕らは――知りたくなかったが――これからなにが起きるか知っていた。漫画にある落ちてくるピアノの影のように、空が僕らの頭をめがけて落下しつつあった。

青春時代のばか騒ぎ。その背後に紛争の気配がある、ということにドキッとします。危機が近づいていることを、彼らは知っているんです。でも、それを酒の席の幸福感で覆い隠せると思い込んでいる。もしくは、思い込もうとしている。「デド」とは、「僕」が年寄り扱いしたことからムハメド・Dにつけられたあだ名です。彼がナショナリストをおちょくり罵倒するのを見て、一同大笑い。でも、そうやって溜飲を下げたところで、危機は去りはしないんですよ。そこに、僕は現在の日本の状況を重ねてしまいます。みんな、ピアノが落っこちてくることはわかってるのに、上を見上げようとはしない。ピアノの影が濃くなればなるほど、ヒステリックにばか騒ぎを続ける。
そして「僕」は、とうとうムハメド・Dに自分の詩を見せることになります。しかし、その評価は望むようなものではありませんでした。「おまえはあっちにもこっちにもいるから、孤独になることがない」と言われてしまう。やっぱり見透かされてますね。要するに、覚悟がないと。これにショックを受けた「僕」は詩人になることを断念し、サラエヴォからも去っていきます。紛争が勃発したのはそのあとのことでした。
と、ここまでがこの作品の前半。先の2編同様、自意識過剰な若者のイタい青春を、そのイタさに自覚的な一人称で描くという話なのかなと思いきや、この折り返し地点から異なる様相を見せ始めます。

僕の物語は退屈だ。紛争が始まったとき、僕はサラエヴォにいなかった。故郷が破壊されるのをテレビで見て、無力さと罪悪感を感じた。僕はアメリカで暮らしていた。もちろんデドは残り、包囲に巻きこまれた――今生きている最高のボスニアの詩人なら、「サラエヴォ」と題する詩を書いたのなら、残るのが務めだ。紛争の初期には、僕もサラエヴォに戻ることを考えたが、向こうで必要とされていないし、今後必要とされることも絶対にないと気づいた。そこで僕は生活していくことに懸命になり、デドは生きることに懸命になった。長いあいだ、彼についてのなんの情報もなく、正直に言えば、僕もたいして調べなかった――心配しなければならない人はほかに大勢いたし、そもそも自分の心配をしなければならなかった。

「僕の物語は退屈だ」というフレーズの重さを考えてしまいます。紛争に巻き込まれなくてよかった、という話にはならないんですよ。祖国が危機的なときにその場にいなかったことで、「僕」はボスニアに属することができなくなってしまう。決定的な出来事が起きたときに自分はそこにいなかった。その隔たり。その「無力さと罪悪感」。これは、以前読んだヘモンの長編『ノーホエア・マン』にも通奏低音として流れていたテーマです。「そもそも自分の心配をしなければならなかった」とあるように、アメリカの暮らしは楽ではない。なぜなら彼は異邦人だからです。しかし、ボスニアからも必要とされていない。「あっちにもこっちにもいる」人間は孤独を知らないとしたら、アメリカにもボスニアにも属せない人間は、なんと孤独なことでしょうか。
それは、「かなしみ」と言えるかもしれませんが、実際はもっと様々な感情が混じり合っていて、とてもひと言で言い表せるようなものではありません。アメリカとボスニアに引き裂かれた「僕」のこの二重性が、先の2編にはない奥行きをこの作品にもたらしています。生きることの複雑さみたいなものが立ち上がってくる。そして、それと同時に、みずみずしい青春時代が急速に終わっていくような感覚があります。
やがて紛争は終結し、2001年にはアメリカで同時多発テロが勃発します。そんな折り、「僕」はアメリカでデドことムハメド・Dと再会する。およそ10年ぶりですね。旧交をあたためながら酒を飲む二人。そこで、「僕」の感情はふいに決壊する。嫉妬や羨望や虚栄からとはいえ、かつてはあんなにバカにしていたデドに対して、泣き言をぶちまけます。

やがて彼は黙った。僕だけがしゃべりつづけ、抑圧してきたアメリカ暮らしの惨めさがどっとあふれ出た。ああ、すべての大学フットボールチームに死を、と何度思ったことか。友だちに会うにも何週間も前から調整して約束しなければならないし、ゆっくり座って道行く人を眺められるコーヒーガーデンはない。どこ出身か聞かれるのはもううんざりだし、ブッシュとあの狂信的なキリスト教の連中は大嫌いだ。「炭水化物」なんて言葉は僕の存在を構成するすべての微粒子が憎んでいるし、アメリカの生活からよろこびが計画的に絶滅させられているのも憎んでいる。エトセトラ。

アメリカ人に言ってもわかってもらえないことも、デドには言える。「僕」がぶちまける泣き言の中に、アメリカの問題がぎゅぎゅっと詰め込まれています。フットボールチームに代表されるようなマチズモ、分刻みでスケジューリングする効率第一の考え方、テロ以降高まるナショナリズム、健康への過剰な意識などなど。炭水化物が体によくないって話は僕も最近よく言われるんですが、うんざりですよね。今さらそんなことを言われても、どうすりゃいいっていうんだ。米食べさせろよ。アメリカは自由の国であり、すべての人にチャンスがあるとよくいわれます。でもそれは「価値観を同じくする者ならば」という条件がつくのかもしれません。何度も「どこ出身か」と聞かれるほど、「僕」はアメリカからはじかれているんです。
このあと、僕とデドは酔っ払って雪降る夜の市街をふらつきます。このシーンはとてもいいです。何てことない場面なんですが、ヘモンの描写力のおかげでなんだか映画の一場面を見ているような気持ちになる。それも、アメリカ映画じゃなくて、テオ・アンゲロプロスとかそういう感じ。

角を曲がったところでデドは僕に追いつき、僕らは危なっかしい足どりで、どこに向かっているのかわからないまま小道を歩いていった。小道は人気(ひとけ)がなく、ぽつんと置かれたソファにぬいぐるみのキリンがもたれていた。タイヤの薄い跡と、三本足の犬のような新しい足跡があった。近くの家のキッチンの窓に女性の姿が見えた。女性は、僕らには見えないなにかのまわりを回り、手には赤ワインがたっぷり注がれたグラスを持っていた。僕らの足はくるぶしまで雪に埋まり、そのまま僕らはうっとりと彼女を見つめた。一本のつややかな長い三つ編みが背中にまっすぐ垂れていた。三本足の犬は消滅したらしく、足跡は小道のまんなかで途絶えていた。僕らは進むことも戻ることもできず、その場に座りこんだ。僕はあきらめの強烈なよろこびを、完璧な敗北のどこまでも広がる自由を感じた。今ではわたしは、どちらに行っても反対側の岸に着くだろう。デドは、僕の知らないボスニアの歌を鼻歌で歌い、雪のかけらがくちびるで溶けた。僕にははっきりわかった――マディソンの裏道で凍死するかもしれない。そうやって死ねば有名になるだろう。僕について書いた詩のことをデドにきこうと思ったとき、彼は言った。「一九九三年のサラエヴォのようだ」彼の言葉のせいかジョンソン巡査の車が道の先を横切ったのを見たような気がしたせいか、僕は立ち上がり、デドに手を貸して立ち上がらせた。

老人と30代の2人の異邦人が、雪の中でじゃれている。それだけで、グッとくるものがあります。「三本足の犬のような」足跡とか、「なにかのまわりを回」る女性とか、謎めいたものをそのまま描写しているところもいいですね。本当に見たものを描いているという感じがするでしょ。窓の向こうで何が起きているのか、すべては把握できない。でも、その場面が焼き付いてしまう。
「今ではわたしは、どちらに行っても反対側の岸に着くだろう」とは、デドがかつて書いた詩からの引用です。実はこの作品のあちこちに、デドの詩が地の文とは微妙に異なるフォントで引用されているんですよ。つまり、「僕」にはそれだけデドの詩が染みついちゃってるということです。彼らが向かっているのは、アメリカ側の岸でしょうか、ボスニア側の岸でしょうか。
そして、デドのセリフ「一九九三年のサラエヴォのようだ」。1993年は紛争のまっただ中です。それはおそらく「僕」が経験していないサラエヴォでしょう。そのサラエヴォが、この苦さと幸福感に満ちた美しい夜と重なる。アメリカとボスニア、1993年と2001年、「僕」とデドの開いた距離と時間がこのひと言からあふれ出す。ヘモンは、デドに対する「僕」の複雑な気持ちを、愛情とか懐かしさとか尊敬とか、憎しみとかよそよそしさとか軽蔑とか、そうしたひと色の言葉で語ろうとはしません。ただ、アメリカで暮らす「僕」にとって、デドは「ボスニア」につながる存在だということが、この場面からひたひたと伝わってきます。ボスニア最高の詩人は、「僕」にとっての故郷だったのかもしれません。


「すてきな暮らし」
この作品集の中で最も短い小品。「指揮者」で「僕は生活していくことに懸命になり」とありましたが、その様子の一部がスケッチされています。
「僕」は、雑誌の定期購読を勧誘する訪問販売の仕事に就いています。『ノーホエア・マン』では、主人公はグリーンピースの寄付を募る戸別訪問をしていましたが、ヘモンは似たような経験をしていたんでしょうね。それは、アメリカ人がいかに異文化と触れ合うかを、日々実感させられる仕事なのでしょう。例えば、「可哀想な紛争の被害者」とかね。しかし、生きるのに必死な「僕」は、ボスニア訛りを聞いた訪問先の主婦や退職者が「ごくわずかでも憐れみを抱いたのを感じると、恥じらいもなくそれを利用し」て、雑誌を売り込みます。
その日、「僕」が訪問した先は神父の家でした。そこで、神父は「僕」に「紛争で親しい人を亡くしたのか?」と訊ねたあと、同居していると思しき若者に声をかけます。

突然、神父は部屋の奥の暗いドアのほうを向くと、声を張りあげた。「マイケル! マイケル! こっちに来て真に苦しんでいる人を見なさい。こっちに来て本物の人間に会いなさい」

何でしょうか、このいたたまれない感じは。「僕」は生活のために過剰に被害者の役を演じているわけで、「真に苦しんでいる人」と言われるとどうにも居心地が悪い。そもそも、見世物じゃないんだし。どうも、この神父はマイケルと上手くいってないようなんですよ。ニートのような若者に「僕」を見せて少しでも改心させようというつもりなんでしょうが、マイケルからしたらそんなのは知ったこっちゃないわけで。
この作品、「僕」が扱っている雑誌の名前がいくつも出てくるんですが、これがいちいち面白いです。少し挙げてみましょう。『古銭通信』『長生きライフ』『クリスチャン・プロフェッショナル』『神の世界トゥデイ』『シェイプ』『ボディ+ソウル』『クリエイティブな編み物』エトセトラ。
人生にくたびれきったような神父が購入した雑誌のタイトルは、『アメリカの木工』。そしてもう一冊がこれです。『すてきな暮らし』。このやるせないようなユーモア。


ということで、今日はここ(P102)まで。「指揮者」は、すごくよかったです。自意識過剰な若者が、人生の苦さを知る大人になっていく。