『空気の名前』アルベルト・ルイ=サンチェス【2】


前回、表紙が地味だと書きましたが、考えてみれば『空気の名前』というタイトルも地味ですね。もやーっとしてるというか。でも読んでみると、この「もやーっ感」が作品の魅力になっている。
ではいきます。


短い章が続くので、「III 静かな嵐」「IV 燃える思いととまどい」「V 暗い存在」と三章分まとめていきます。
窓から水平線を見つめるファトマは、人の話を聞こうとせずほとんど口も利きません。町の人々はそんな彼女について、あれこれ噂をします。ある者は彼女に未来の予言を求め、ある者は彼女にかけられた呪いを解こうとします。いや別に、彼女に未来が見えるわけでもなければ、呪いがかけられてるわけでもないんですけどね。勝手に周囲がざわついているだけ。でも、そんなざわめきにも、彼女は一切関心を示そうとはしません。
この彼女の周囲で起こるエピソードがIVとVの章で綴られます。ある真面目なコーラン学徒の青年は彼女の視線の意味を書物から解き明かそうと図書室に通い、やがて「書かれていないものの上に喜んで伸びていく視線の崇拝者たち」という異端派の創始者になります。またある商人は、彼女の態度は「夢の中で恋をしている人間特有のもの」だとして、「思いわずらいの病で亡くなった」祖父の身の上を語ります。コーラン学徒のエピソードは哲学コントのようでもあり、商人の祖父のエピソードはアラビアンナイトのようです。
このように、熱に浮かされたような噂話が飛び交う中心で、ファトマだけは何も語らない。不在の何かを探し、待ちこがれ、視線を送るだけです。肝心のことは何もわからない、もやーっ感。ひょっとすると、この作品の章立て自体が螺旋構造かもしれませんね。彼女の周囲をめぐる様々な断片が綴られ、それぞれの章になっている。そして、次の章で螺旋はもう少し中心へと近づきます。


ということで、「VI 手」の章。

彼女はつねに自分がどこに向かっているのかよくわかっているように歩いていたが、到着するのにいつも時間がかかった。彼女の姿を形づくる不在があまりに大きくなると、彼女自身の姿が見えなくなることがあった。窓の下を彼女に気づかずに通りすぎる者もいれば、彼女のことを話題にするとき、その存在の脆さを感じ取る者もいた。モガドールの人々は、彼女が片足を別の場所に置いていて、遠くにいる誰かが影の力を使い、辿るべき道を示すことなく彼女を呼んでいるのだと考えていた。彼女をさすのに「あそこにいる」とは言わずに、「あそこにいるみたいだ」と言うのだった。また別の者にとって、「ふさぎこんだファトマ」とは、彼女自身の投影のようなもの、痛々しい姿の似姿、空気中にかろうじて感じとれる何かであった。

要するにファトマは、心ここにあらず状態なんですよ。ここにいながらここにいない。だから、その存在がもやーっとする。「あそこにいるみたいだ」っていうのは面白いですね。存在が曖昧になり、「空気中にかろうじて感じとれる何か」になってしまう。
ファトマは、窓辺で海の空気を吸い込みます。すると、その空気は彼女の内側を撫でる手となる。その空気の手が、彼女に火をつける。彼女は自分の指で唇に、首に、乳房に触れていきます。

指は身体じゅうのすべての螺旋を昇ったり降りたりし、その動きは彼女を内側からなでている別の指と何度もぶつかった。両方の指は皮膚を通して互いの存在を確かめ合い、まるで赤く熟した二本のピンが一枚の布地の表と裏で動いていて、ピンの先がぶつかると燃え上がるようだった。

わぁお、エロティック。疼いちゃってる。皮膚の外側と内側で指がぶつかる、という表現が素晴らしいですね。「ピンの先がぶつかると燃え上がるようだった」って、ピクッと体が反応しちゃったりして。このあとには、「股のあいだにつむじ風を起こす」なんていう表現も出てきます。つまり、あれだ、その、自慰行為ってことですよね。
またしても「螺旋」が出てくるのにも注目です。その曲線的な動きは、確かにエロティックなものかもしれません。一気に中心にいかないわけですよ。ぐるぐると回りながら少しずつ中心へと近づいていく。もやーっとした気持ちが、疼きに変わる。ああもう、じらさないでー。
ファトマがこんなに疼いちゃってるのは、いったい何故なんでしょう? この空気の手の持ち主、つまり彼女の欲望の中に住みついているのは何者なんでしょう?

もしかして、ファトマが水を汲みにいつもより早く家を出た朝、出くわしたことのある、泉で水浴びをしていた染色家の少し曲がった筋骨たくましい背中をもっているのかもしれない。あるいは、裸で岩の上を走り、海に飛びこむところを見かけたことのある女の柔らかい腰と揺れる胸をもっているのかもしれない。香辛料店でサイコロ遊びをしていた双子の灰色の目、あるいは乳を売るすらりとした黒人女の、夜の闇のように軽々と上がる腕。品物や釣り銭を渡すために差しだされるたび、彼女の心かき乱す腕だ。しかし、ファトマだけが知っていた。彼女の身体に手をのばし、彼女の息を止める空気が、ひとつの名前を、歓びに心を震わせ、ひそかに声を出すことができるただひとつの名前をもっているかどうかは。

こういう列挙パターン、好きだなあ。いちいち具体的なところが素晴らしい。染色家やら香辛料店などエキゾチックな色や匂いが伝わってきそうです。しかも、体を舐めるように描写していくあたりが、またいやらしい。「夜の闇のように軽々と上がる腕」って、何だかドキドキします。
でも、空気の手の持ち主は、このどれでもないようです。というところで、ようやくタイトルの意味がわかってきました。「空気の名前」、それはファトマをとりこにしながら未だ口にされない名前です。空気だからどうにも捉えどころがないんですが。それでも、徐々に核心に近づいている。もやーっとしていたものがじわじわと形になってきた気がします。ああもう、じらさないでー。いや、もっとじらしてー。


ということで、今日はここ(P45)まで。モガドールの街に吹く海風が、むせかえるような官能を運んできます。