『青い脂』ウラジーミル・ソローキン【4】


タイムマシンで1954年へ。ということで、ここでまた場面が変わります。そうすると、前回までの情報が後出しで更新される。どうやら、遺伝子研や大地交者合教団のパートは2068年の出来事だということがわかります。さらに読み進めると、この作品が歴史改変ものだということもわかってくる。つまり、パラレルワールドというか、僕らの知っている歴史とは別の歴史を持つ世界を描いているわけ。どんな風に改変されているかというと…。
では、いきます。


舞台は、1954年のモスクワ。ボリショイ劇場では「全ロシア自由恋愛会館開館記念祝賀コンサート」の真っ最中。「自由恋愛会館」というところで、まず引っかかります。ロシアっぽくないでしょ。本当にそんな建物あるんでしょうか? そりゃあ、遺伝子研の研究者たちはマルチセックスなんてことを言ってましたが…。
このコンサートの最中に、人の背丈ほどの漏斗状の氷の塊が出現します。これ、例のタイムマシンで送られてきたものらしい。劇場にいた、スターリンの政策の執行者ヴャチェスラフ・モロトフスターリンの側近ラヴレンチー・ベリヤ、第一副首相アナスタス・ミコヤン、英雄とされる軍人クリメント・ヴォロシフの4人は、この事件の報告のためクレムリンにいるスターリンの元へと向かいます。ロシア史に疎い僕には、このあたり、次々と実在の人物の名前が出てきてちょっとややこしいんですが、新しく出てくる人名にはちゃんと訳注がついているので助かります。
さて、最高指導者スターリンの登場です。もちろん、ソローキンは指導者の姿を普通に描いたりはしません。徹底的にスキャンダラスにやっつける。彼の息子たちは女装癖があり、しかも母親と近親相姦的な関係になっていたりするんですが、スターリンその人も強烈です。まずは、こんなシーンを。

スターリンは唇を突き出してから目を細め、まだ吸い終わっていない葉巻を灰皿の小さな窪みにそっと置いた。それから頭をゆっくり右に回し、ソファーの隣に立っている、高さ五十センチほどのたいそう古びたドーリア式円柱の断片を見た。黄ばんだ大理石の上に細長い金の筆入れが置いてあった。スターリンはそれを手でつかんで開け、小さな金の注射器と小さなアンプルを取り出した。機敏で簡潔な動作で彼はアンプルを折り、注射器で透明な液体を吸い上げ、口を開け、自分の舌に注射器を刺し、注射した。それから注射器と空のアンプルを筆入れの中に仕舞い、再びそれを大理石の上に置いた。このような手順はすべてだいぶ以前から指導者の生活の一部と化しており、何千回も記述され、世界数十ヶ国の言語で繰り返し伝えられ、何百回も映画で撮影され、青銅(ブロンズ)や御影石に刻まれ、油絵や水彩画で丹念に描かれ、絨毯やゴブラン織りに織り込まれ、象牙や米粒の表面にも刻まれ、詩人や画家、学者、作家たちから賞賛され、労働者や農民の素朴な宴席の歌の中で賛美されていたものだが、スターリンがこれを驚くほど易々と成し遂げてしまうので、居合わせた人々は、いつものことながら、ついあっけにとられて視線を落としてしまうのだった。

このあとも何度も出てくるんですが、話の途中だろうが何だろうがお構いなしに、スターリンはふいに舌下注射を行います。つまり、薬中ってことです。うっかりさっき「スキャンダラスにやっつける」なんて書いちゃいましたが、この作品世界においてはスターリンの舌下注射はちっともスキャンダラスなことじゃありません。ごくごく自然に、あけっぴろげに行われている。そればかりか、様々なメディアで伝えられているというのが可笑しいです。映画や歌はもちろんのこと、「象牙や米粒の表面にも刻まれ」ているんですから。つまり、彼が狂ってるんじゃなくて世界が狂ってる、ということです。
タイムマシンで送られてきた氷の塊の中には、青脂入りのトランクを抱えた童子が入っているんですが、それが溶けるのを観察する晩餐が行われます。様々な識者や要人が出席する中、スターリンはあちこちにネチネチと絡んだりして、非常に性格が悪い。自らこんなことを訊いたりするんですよ。「仮にだ、同志スターリンが民族問題や農民問題の解決で過ちを犯した。どうやって同志スターリンを正すべきかね?」。いやな質問ですね。「俺が間違っていたとしたら、俺に逆らうことができるのか?」ってことでしょ。どんな答えもNGになるような質問。
かと思うと、いきなり笑い出したりするからやっかいです。この、スターリンの笑い方も凄まじい。

この笑いは特別な笑いで、他のどんな笑いにも似ていなかった。スターリンの肩に痙攣が走り、美しい頭が震え、急に背後の椅子の背につかまると、しゅうしゅういいながら食いしばった歯の間に息を吸い込み、オットセイの咆哮を思わせる信じ難い音を発しながら同じようにまたがくんと前に動いた。それから再び後ろに下がり、息を吸い込み、唸りだした。動揺が速まり、咆哮の音は短くなり、ますます切れ切れになりながら、豚の唸りに類するものに変っていった。突然体がテーブルと椅子の背凭れの間にはさまって動かなくなり、豚の唸り声は心臓を揺さぶる耐え難い金切り声へと変っていったが、それはあたかも、スターリンが強烈な痙攣を起こしたまま固まってしまったかのようだった。全身が非常に小刻みに振動し、頭は次第に後ろにのけぞり、激しく青褪めた顔と大きく見開かれた目は低い丸天井に据えられ、そして、指導者の大きく開いた口からは人間のものとは思えぬ叫びが迸った。
「ヤサウゥゥゥフ・パショォォォォ!!!」

激しすぎ。オットセイの咆哮→豚の唸り声→耐え難い金切り声→「ヤサウフ・パショー」、これのどこが笑い声なんでしょう。笑うたびにこんなことになってたら大変だと思うんですが、このあとも何度もこの「ヤサウフ・パショー」は出てきます。ああ、うるさい。しかも、スターリンは爆笑したかと思ったら、今度は怒って暴れ出し、ふいに涙ぐんだりします。情緒不安定というか、独裁者の幼児性全開。こういう人物の顔色を窺うのは大変だろうなあ。どこに地雷があるかわからない。
そんなこんながあって、スターリンは青脂の入ったトランクを手に入れます。そして、車に乗って舌下注射とバカ笑いをくり返しながら、フルシチョフを訪ねるスターリン。ちなみにフルチショフは史実では「非スターリン化の推進者」ですが、この作品ではスターリンと親しげに語らう一方、非常に冷酷な人物として登場します。

フルシチョフは拷問の大名人で、その腕前は流血を避ける技術に尽きていたが、それは血を見ることが彼には耐え難いからであった。彼は人々を拷問台に吊るし、彼らの肩を裂きながら《肋木(ろくぼく)》の上で引き延ばし、彼らが痛みのあまり気が狂うまで、炭とトーチランプで焼き、プレス機で圧迫し、ゆっくりと押し潰していき、骨を砕き、溶かした鉛を咽喉に流し込むのである。しかし、今日の伯爵は自分のお気に入りの責め苦――螺子巻きの刑――に余念がなかった。彼自身の設計による実に多種多様な鋼鉄の栓抜きが一ダース分机の上に並んでいた。長い栓抜き、極短の栓抜き、螺子が二重三重になっている栓抜き、スプリング式の複雑な柄がついた栓抜き、自動ねじ込み式の栓抜き、緩慢に作動する栓抜きなど。伯爵はそれらをうまく自分の生け贄の体に差し込むことができたので、体の表面には一滴の血も流れることはなかった。

血を見るのが嫌いな「拷問の大名人」って、ふざけてるなあ。栓抜きって、先が螺旋状になったコルク抜くやつでしょ。日常の道具を拷問に使うっていうのが、イヤですね。しかも、「お気に入りの責め苦」とか言っちゃって、「螺子巻きの刑」なんて名前までつけちゃって、いろんな栓抜きを嬉々として並べてる感じが伝わってきます。スターリンに「どんな理由があって君は彼らを拷問してるんだ?」と訊かれたフルシチョフはこう答えます。「俺が拷問するのは決して何か理由があってのことじゃないんだ」。って、もうサイコ野郎じゃないですか。
この二人の会話に、「ヒトラーとの平和条約に調印した」や「ロンドンの上空に原爆のきのこ雲を見た」なんてセリフが出てくるんですが、このあたりにも歴史の改変っぷりが窺えます。ヨーロッパでロシアが強大な覇権を握ってるんでしょうね。ロンドンに原爆を落としちゃうくらいですから。


ちょっと話を巻き戻すと、スターリンはフルチショフの元へ向かう途中、車でAAAと呼ばれる女性を轢きそうになります。彼女は、スターリンに向かって「今日産むの」と告げる。何の話か読んでるこっちにはさっぱりわからないんですが、このあとのスターリンの行動と並行して、彼女が出産に至るまでが交互に描かれます。
このAAAという女が、口汚くて淫語連発という凄まじいキャラなんですよ。いったい何者なんだ? ということで注を見ると、「アンナ・アンドレーエヴナ・アフマートワのグロテスクなパロディ」とあります。文豪クローンの一人にもなっていた「アクメイズムの詩人」だそうです。「アクメイズム」っていうのはモダニズムの一派のようですが、卑猥な想像をかき立てる響きですね。
AAAは、国家保安省の監獄から解放されたばかりのオーシプという男と出会ったあと、別荘に向かい出産のときを待ちます。この間も、漫☆画太郎のマンガに出てきそうなお下劣で暴力的なエピソードが次々描かれるんですが、もういちいち拾わなくてもいいでしょう。そして彼女が出産したのは…。

AAAは朝の八時に出産した。彼女は天井まで引き上げられた天蓋つきのかさばるベッドの上で、血まみれになって横たわりながら、涙ぐんだ目で産まれたモノを見ていた――それは光沢の無い黒い卵で、鶏の卵よりわずかに小さく、跪拝している小さい婦人の手のひらに載せられていた。浴槽の傍らで鎖につながれた大きい婦人は、何か良からぬものを嗅ぎつけてもがき激しく吠えていた。

小さい婦人と大きい婦人がいて対照的な振る舞いを見せていますが、この辺はよくわかりません。なので、「変なのー」ということで笑いながら読み飛ばしちゃうんですが、それよりも黒い卵です。何かの象徴のような気もしますが、とにかくこれが何だかすごいものっぽいんですよ。これを見せられた子供たちは、次々と恐怖し嘔吐し失禁し失神します。恐ろしいですね。
そして、子供たちの中で唯一平気だったヨシフという少年が、口を開けてこの卵を呑み込む。すると、AAAは「成れり!」と言って死んでしまいます。唐突。何かの儀式みたいですね。文学の継承みたいな意味があるのかな? わかりませんが、「成れり!」っていうフレーズが妙に可笑しいです。何だよ、「成れり」って。


ということで、今日はここ(P274)まで。残りはいっきにいっちゃいます。