『青い脂』ウラジーミル・ソローキン【2】


前回、設定まわりをざーっとさらっておいたので、今回はするするいけるかなと思ったら、とんでもなかった。さらに新たな仕掛けが登場。ボリスの手紙に、文豪クローンたちが執筆した作品が挿入されるという展開に。これがまた奇っ怪なものばかりで、今回はそれをさらいます。
では、いきましょう。


ついに遺伝子研18でプロジェクトが始動します。「個体(オブジェクト)」、ここでは仮に文豪クローンと呼んでおきますが、彼らに紙と筆記具を渡し執筆させる。すると、執筆後に彼らは仮死状態に入り、体内に青脂が蓄積される。これ、ロシアで何度か試みられてきたプロジェクトのようです。このプロジェクトはこれまでロシアで3回行われてきたらしく、遺伝子研のそれは「青脂3」と呼ばれています。でも、「青脂」って何ですか?
ということで、このあと7体の文豪クローンの作品が小説内小説として登場します。これ、文体模写なんかもしてるんでしょうね。いかにもそれっぽく書かれているんですが、どこか壊れた作品ばかり。元ネタを知っていればより楽しめるんだろうなあ。僕が読んだことがあるのはチェーホフナボコフくらいですが…。でも、元ネタを知らなくても十分、面白かったです。せっかくなので、前回も触れた各個体のスペックと合わせて紹介します。
ちなみに、「相関率」とは、どれだけ元の作家とシンクロしているかというような意味だと思われます。「興奮対象(エアレーゲン・オブジェクト)」は、その作家のやる気をかき立てるものということでいいのかな。というあたりを押さえつつ、選手名鑑のようなつもりでスペックを眺めてみてください。
ドストエフスキー2号:身体上の特徴→性別が曖昧、胸腔が竜骨のように突き出し、こめかみの骨が鼻の骨が癒着している/相関率→不明/興奮対象→ダイヤモンドの粒が詰まった碧玉の宝石箱/執筆後の状態→肋骨が皮膚を突き破り、頭蓋骨の異常が進み、手は黒く焦げて鋼鉄の鉛筆がはりついている/蓄積される青脂の量の予想→約6キロ/執筆作品タイトル→レシェトフスキー伯爵
文豪クローンは執筆中に奇怪な行動をとったり、執筆後に変形したりします。ただでさえ骨が異常にでこぼこしているドストエフスキー2号が、執筆後にはその骨のでこぼこがさらにエスカレートし皮膚を突き破ってしまう。いちいちグロいなあ。手が焦げちゃってるっていうのは、執筆しすぎて熱を持っちゃったのかな? 実際、作品を読むと筆が妙に突っ走っている感があります。
では、その作品「レシェトフスキー伯爵」を読んでみましょう。

ドミートリー・アレクサンドロヴィチ・レシェトフスキー伯爵はあらゆる点で、奇妙なといわぬまでも風変わりな人物であり、しかもその点においてはむしろ並外れたところのあるような、奇妙な奇妙な奇妙な奇妙っぽい人物ではあった。亡父のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチは、古いことは古いが大して財産はないという家柄で、騎兵隊に勤務したが早々に退役し、結婚して三人三人三人の男子を儲け、新時代の流行にしたがってプスコフ近郊にあった所領を売却すると、家族ともどもペテルブルグペテルブルグペテルブルグへと移り住み、そこでにわかに商才を発揮しはじめ、徴税請負権を得てかなりの成功を収めると、稼いだ金でなんとなんとなんと三軒の大きな屋敷を購入し、すべて有利な条件で貸しに出し、そうして死ぬまで裕福に暮らし、息子たちにかなりの財を残したので、息子たち息子たちときたらそれはもうまるっきりはてさてはてさて。

いかにもロシア文学というような一族の歴史をぎゅぎゅっと凝縮した描写ですが、「奇妙な奇妙な奇妙な奇妙っぽい人物」などなど、ところどころバグってるというか、針飛びしてるというかというかというかというか。この辺が突っ走ってる感、です。この作品は、ブルジョワたちのバカ騒ぎが描かれているんですが、後半、それが加速してゆきほとんど筒井康隆のようなスラップスティックな展開になります。ドストエフスキー・ミーツ・筒井康隆。面白そうでしょ。
●アフマートワ2号:身体上の特徴→すべての臓器の位置が入れ替わっていて、発育不全、心臓は人工、肝臓は豚/相関率→88%/興奮対象→液体ガラスに浸されたネアンデルタール人男性の骨/執筆後の状態→膣と鼻から大量の出血/蓄積される青脂の量の予想→約2キロ/執筆作品タイトル→三夜
アフマートワ2号が書いたのは詩です。コルホーズの三人の娘たちと国際政治保安部の同志アフマートの関係を描いたもの。リフレインの多いリズミカルな詩で、終盤にいきなり乳首が三つあるレーニンスターリンという人物が現れます。これは、詩的表現というべきなのか、ソローキンによるグロテスクな冗談なのか。まあ、後者でしょうね。
プラトーノフ3号:身体上の特徴→テーブル型、扁平な顔はいつも俯き、股間に巨大な白い陰茎がぶら下がっている/相関率→79%/興奮対象→綿のかぶせられた木箱に入った氷/執筆後の状態→まったく変形せず/蓄積される青脂の量の予想→約2キロ/執筆作品タイトル→指令書
テーブル型というだけでもう可笑しいんですが、この「指令書」もグロテスクな作品でした。冒頭はこんな感じ。

ステパン・ブブノフは釜をかき回していて、肉片機関車(ロムチェボーズ)の運転室に男が転がり込んできたのに気づかなかった。
「ブブノフか?」よそ者は甲高い非プロレタリア的な声でわめいた。ステパンが自らの階級的優位を見せつけてやろうと振り向くと、現今の生活の張り詰めた不安定さによって鍛え上げられた顔をした、がっしりとした若者の顔が見えた。若者の顔は扁平で、歳不相応に体毛を失っていたが、それは革命期の大気の黒土の中を苛烈に通過してきたが故であった。
「俺は機関庫の裁断工だ! 姓はザジョーギン、名はフョードルという」若者はそのブルジョア的な声によって釜の階級的咆哮を圧倒しようとして叫んだ。

プロレタリアとか、階級とか、革命とか、社会主義的なテーマが全面に押し出されていますが、それはひとまずどうでもよくって、いきなり登場する「肉片機関車」という単語にギョッとします。これは、石炭の代わりに人間の肉を燃料にした機関車のようです。「裁断工」とは、人間を肉片にする役職。って当たり前のように言ってますが、いやな列車だなあ。ということで、この作品は人体破壊の場面がこってりと描かれています。ラストの落ちもいやーな感じ。
チェーホフ3号:身体上の特徴→外見はチェーホフそっくり、胃がない/相関率→76%/興奮対象→不明/執筆後の状態→疲労困憊、呼吸するのがやっと/蓄積される青脂の量の予想→不明/執筆作品タイトル→アッティス埋葬
「アッティス埋葬」は、文豪クローンの作品の中で唯一の戯曲。不穏で陰鬱なムード、人間関係の軋み、捉えどころのない会話。チェーホフ3号は外見だけでなく、作品もいかにもチェーホフっぽい感じです。ボリスの恋人に宛てた手紙によれば、「この手稿(スクリプト)には何かM不快なもの(ニエプリヤートノエ)があるな、リプス・大便(タービエン)」とのこと。他の文豪クローンの作品に比べるとおとなしめですが、うっすら狂ってる感じがします。
ナボコフ7号:身体上の特徴→ちぢれた赤毛の太り気味の女性、全身の筋肉が震えており、汗をかいている/相関率→89%/興奮対象→蜂蜜で覆われたミンクの女性用毛皮/執筆中の状態→攻撃的に振る舞う/蓄積される青脂の量の予想→不明/執筆作品タイトル→コルソドの道を行く
そして、いよいよ最高の相関率を誇るナボコフ7号。執筆中の状態からして凄まじい。ここは引用したくなっちゃうな。ボリスの手紙にはこう書かれています。

プロセスの間、個体(オブジェクト)は恐ろしく攻撃的に振る舞った。やつはテーブル、椅子、ベッドを木っ端微塵にし、万年筆(ステイロス)を食らい、そして興奮対象(蜂蜜で覆われたミンクの毛皮外套)はズタズタに引き裂かれて壁に貼りついていた(糊代わりに自分の糞を使っていた)。お前はこう訊ねるだろう――いったいこの怪物は何を使って書いたのか? テーブルの破片だ。やつはそれを自分の左手に浸していた、まるでインク瓶(旧露語:スタルス)の中に浸すように。従って、テクストはすべて血で書かれている。これは、残念ながら、本物の作家にはできなかった芸当だよ。

やりすぎ。やりすぎで笑っちゃいます。食うなよー、万年筆。蜂蜜で覆われたミンクの毛皮ってのは、蝶好きのナボコフに掛けているんでしょうか? ともあれ、ベタベタしそうで不快なんですが、ナボコフ7号はその毛皮にさらに糞を塗りたくる始末。しかも血管に木っ端をぶっ刺すって、まさに怪物です。
では、その血で書かれたテクスト「コルソドの道を行く」も見てみましょう。アレクサンドルとスヴェトラーナという夫婦の生活を描いた小説で、文豪クローンの作品の中でも最も難解です。改行なしの描写がびっしりと続く、手強い作品。次の文へ移ると前触れなしにいきなり場面が変わっていたり、それまで出てこなかった人物の名前がさも当然のように出てきたり。意味不明の単語もちょこちょこ出てきます。その辺も、「さすがナボコフ」という感じなんですが。

彼が帰宅する頃には深夜をとうに過ぎており、インクのように真黒な影が断末魔の苦しみに悶える宿無しの雌牛たちの体を骨まで蝕んでいた。スヴェトラーナはいつもの寝室の手前の部屋で、すっかりプレズニしきった状態で、足の裏をケナガイタチの臭いペーストの入ったボウルに浸しながら彼を待っていた「頭脳奴隷(ウモラブ)のお帰りだ!」と彼は玄関から彼女に向かって叫んだ。「イザベリヤは自分の頭脳奴隷(ウモラブ)を待っている!」とスヴェトラーナは歌いながら、ブルガリア人の臓物の上に仰向けに倒れた。召使のアファナーシーの手で今回の自主提供者からついさっき剥がされてきたばかりの男性の皮膚を被り、アレクサンドルは寝室の手前の部屋に這いこんだ。「ゲオブノロブドの頭脳奴隷(ウモラブ)が欲しがっているのはなあに?」スヴェトラーナはクラゲの撃退に使用されるマルセーユの指輪で飾り立てた節くれ立った指で臓物を選り分けながら訊ねた。「頭脳奴隷(ウモラブ)は荒々しいものを求めているのさ!」アレクサンドルは歯軋りした。スヴェトラーナは自分の膝に接吻しはじめた。二十八秒後、アレクサンドルはケナガイタチのペーストに顔を埋めてぐっすり眠っていた。

もう異様すぎてどこからツッコめばいいのかわかりませんが、ひとまず「ケナガイタチのペースト」って何よ? 毛長鼬のこと? それはいいとしても、ペースト状って…。しかも、そこに足を浸すって…。実はこのナボコフ7号の作品には、この手の奇怪なものが何の説明もなしに次々登場します。レモンをかけて食べる山盛りの「若者たちの前立腺」、陰茎用の「白檀の香りのカバー」、室内に設置された「油でつるつるの滑り台」、「咽喉裂き部屋(ゴルロレーズナヤ)」などなど。「頭脳奴隷」ってのも奇怪なフレーズですね。「ゲオブノロブド」が何なのかは、さっぱりわかりません。
ガジェットだけではありません。この夫婦の行動様式もまたメチャクチャすぎて理解が追いつきません。この作品世界での当たり前が、僕らの当たり前とかけ離れすぎているんですよ。何ですか、ブルガリア人の臓物とか、剥がされたばかりの男性の皮膚とか。にちゃにちゃのぐちゃぐちゃのスプラッターですよ。作者のナボコフ7号に劣らず、作品も自体も攻撃的というかぶっ飛んでいる。まさに、血と糞の文学。
かと思うと、引用部の冒頭の文のように、視覚的で魅力的な文章もあちこちで駆使されています。本当に夜の闇が沁み込んできそうな描写。これが、次の文章で「ケナガイタチの臭いペースト」になるところがサイコー。ナボコフの入り組んだ文体でエログロナンセンスをやってみたという感じでしょうか。文豪クローンたちの作品の中で、僕のベストです。
パステルナーク1号:身体上の特徴→キツネザル、鼻からラッパのような音を出す/相関率→79%/興奮対象→60キロのクローンペルシャ猫/執筆後の状態→変形せず/蓄積される青脂の量の予想→不明/執筆作品タイトル→御万光
これはタイトルでもうオチ、みたいなもんですね。猥語をさも大層なことのようにぶち上げた詩です。声に出して読みたい「御万光」。いや、読みたくないか。原文は「星」と「女性器」を掛けた単語のようですが、この訳は面白いなあ。バカバカしすぎます。って、誉めてるんですよ。
トルストイ4号:身体上の特徴→男性、体重62キロ、身長112センチ、頭と手が異常に大きい、膝まで伸びた白いあごひげ/相関率→73%/興奮対象→アルビノ豹の剥製/執筆中の状態→ひたすら泣き通し/蓄積される青脂の量の予想→約8キロ/執筆作品タイトル→不明(長編小説の一部か?)
トルストイ4号の作品は、いきなり「第12章」から始まり「第14章」で終わります。どうやら長編小説の一部のようです。老公爵とその息子がお供を引き連れて、雪の積もった森で熊狩りをする。この父と子の葛藤が描かれています。ああ、ロシアだなあ。トルストイは読んだことありませんが、たぶんこんな感じなんでしょう。ある1点を除いては。

ガヴリーラは凍りついた門をぎしぎし軋ませ、家畜小屋の中へ姿を消すと、すぐに鎖で繋いだ三頭の絞殺獣(ダヴィーロ)――シュクヴォレニ、シゲイ、ノズドリャを連れてきた。猟師たちの姿を見ると、絞殺獣(ダヴィーロ)たちはしきりに喚きだし、主人たちの方へ勢いよく駆け出して行った。
ガヴリーラは器用に彼らを引っ張って老公爵の方へ誘導した。
絞殺獣(ダヴィーロ)たちは四つん這いになって主人のところへ這って行き、脂で光る彼の長靴を舐めだした。
「餌をやらなかっただろうな!」老人は絞殺獣(ダヴィーロ)たちに笑いかけながら、確信ありげに問い質した。
「いったいどうして、旦那様?」ガヴリーラは腹を立てた。「何のために狩り出し前にあやつらに餌をやったりするのです?」

何なんですか「絞殺獣」って…。これがこの作品のバグです。何の説明もなしに出てくるこの手の造語のセンスが、いちいち素晴らしい。絞殺って人間しかやらないでしょ。そういう単語をあえて獣と結びつけることによって、半獣半人の異形の生き物を想像させます。ざっくざっく雪を踏みしめ、冬眠し損ねた熊を探す。いきなり甲高い雄叫びを上げる絞殺獣。これが犬なら普通のシーンなのに、えらい異物感です。さらに後半にはSMシーンまで登場します。
と、文豪クローンの作品はこれで全部。あー、面白かった。それぞれ違うパターンの異形の文学を楽しめるという、お得な展開。しかも、どれも悪趣味。「肉片機関車」で「御万光」ですからね。リプス・大便!
ちなみに、青脂を集めて何をするのかは、まだわかりません。


ということで、今日はここ(P119)まで。7つの文体模写をしてみせるソローキンもすごいですが、訳者の望月哲男さんと松下隆志さんもすごいなあ。というか、例のわけのわからないボリスの手紙を日本語に落とし込んだだけでも異形の偉業だと思います。わからないけどうっすらわかるという塩梅が、絶妙です。