『あまりにも騒がしい孤独』ボフミル・フラバル【3】


読み終えました。おおすごい、すごい。「6」〜「8」章。地下室で鬱々としながらも気ままにやっていたハニチャの物語がここで大きく動くんですが、そこからの展開は読み応えがあります。面白いよ。


「6」の章。
ハニチャはある日、彼の地下室にある機械とは比べものにならないほど巨大なプレス機が、プラハの工業地帯であるブブヌィに設置されたという情報を得ます。そこで、その機械を見にいく。「表敬訪問」なんて気取ってますが、気になってしょうがないのはバレバレです。しかし、いざバカでかい機械を前にすると、彼は直視できず目をそらしたり靴紐を結び直したりというていたらく。明らかにうろたえちゃってる。

ちょうどその頃と同じように、僕はブブヌィの巨人的プレスのの前に立っていて、やがて動揺がおさまってから、勇気を奮い起こしてその機械を見ると、それは小地区(マラー・ストラナ)の聖ミクラーシュ教会の巨大な祭壇みたいに、ガラス張りの天井に向かって聳え立っていた。そのプレスは思いのほか大きくて、その大きなベルトコンベヤーは、ホレショヴィッツ発電所で石炭を火床(ひどこ)にゆっくりと撒くベルトコンベヤーくらい幅が広くて長かった――その上を白い紙や本がゆっくりと動いてゆき、その本を積んでいるのは、若い男女の労働者だった。彼らは、僕やほかの故紙処理業者たちが作業する時とはまったく違う服装をしていて、オレンジ色や空色の手袋をはめ、黄色いアメリカ風の鍔(つば)付き帽子をかぶり、胸まである作業ズボンをはいて、背中で交差したズボンつりを肩にかけていた――色鮮やかなプルオーバーやハイネックが際立つような作業ズボンだ。そして、電球の明かりなんかどこにも見当たらなくて、ガラス張りの天井と壁から光と陽が射し込み、天井近くには換気設備があった。その色鮮やかな手袋で、僕は自分がますます辱められたような気持ちになった。

数ページにもわたって、ひたすらこの機械の様子が描写されるんですが、要するそのくらいハニチャは圧倒されたということです。あの暗くて狭い地下室とは大違い。これはもう、機械というより工場ですね。一度に視界におさまらないくらいバカでかい。巨大な機械を眺め、そこにつながるベルトコンベヤーに目を移し、その端で働いている若者たちがへ、さらに彼らの手袋へと視点が動いていく。こういうこってりとした描写は、読んでいていとても楽しいです。
「辱められた」というのは、どういうことでしょうか。カラフルな手袋なんか、ハニチャはしないんですよ。何故なら、彼にとって故紙に紛れている本はゴミではないからです。できることなら、撫で回し、抱きしめ、頬ずりしたいと思ってるはず。でも、若い労働者たちはそんなことは考えもしません。機械のように清潔で、効率的で、淡々と働くだけです。彼らの仕事っぷりは、ハニチャに比べて非常にスマートですが、どこか全体主義の匂いがします。これは、ハニチャのようなはみ出し者にとっては、非常に居心地が悪いでしょうね。
彼はさらに、若者たちが牛乳をうまそうに飲んでいることに、ショックを受けます。要するに、彼らは明るくて健全なんですよ。でも、ハニチャはビール党ですからね。ここ、笑っちゃうんですけど、大げさに「牛乳なんか飲むくらいなら、干からびて死んだ方がましだってことくらい、誰だって知ってるのに…」なんてことを言ったりする。本とビール、ハニチャの宝物はここではまったく必要とされていません。

でも、僕が愕然としたのは、そのせいじゃなかった――この巨人的プレスがすべての小さなプレスにとって致命的な打撃なのだってことを、突如としてはっきりと悟ったから、僕が目にしているのはこの稼業における新時代で、これはもう別種の人間と別種の働き方だってことが、突然分かったからだ。何かの間違いで回収に出されたものから見つけ出した本や小冊子という形で、小さな収積所にやって来ていたささやかな喜びには、終わりが来たのだということ、つまり、今見ているのは、別種の物の考え方でもあるのだということに、僕は気づいたんだ。

そう、ハニチャの仕事のスタイルが時代遅れになってしまうのは、単に機械の問題に留まりません。それは、「物の考え方」の問題なんですよ。現代だって、いくらでもこんな例は挙げられます。例えば、携帯電話やインターネットは、単に機械の発明、システムの発明に留まらず、「別種の物の考え方」を生み出していきます。おそらく、この作品に描かれているのとはまた違った意味で、現代も本に代表されるような「物の考え方」を必要としない人は増えている。そんなことを感じている僕は、ハニチャのように時代遅れなのかもしれませんが。
若者たちが見向きもしないのは、ハニチャが「心ならずも」身につけてしまった「教養」ってやつかもしれません。彼には、そのことが耐え難い。

だって、誰かがその本を書かなければならず、誰かが朱を入れなければならず、誰かが読み通さなければならず、誰かが挿絵を描かなければならず、誰かが植字しなければならず、誰かが校正しなければならず、誰かが植字し直さなければならず、誰かが再校しなければならず、誰かが最終的に活字を組まなければならずならず、誰かが機械にかけなければならず、誰かが最後にもう一度見本刷りを読み通さなければならず、誰かがまた機械にかけて刷ったものを次々と製本機にかけなければならず、誰かがそれらの本をまとめて梱包しなければならず、誰かが本と本に関係したすべての仕事の請求書を書かなければならなかったんだ。それから、誰かがその本は読み物として不適切だという決定を下さなければならず、誰かがその本を否定して廃棄処分にすべしという命令を出さなければならず、誰かが本を倉庫に積まなければならず、誰かがまた本をトラックに積み込まなければならず、誰かが本の包をここまで――赤や青や黄色やオレンジ色の手袋をはめた男女の労働者たちが、本の中身をもぎ取っては、ひた走るベルトコンベヤーの上に投げるここまで――運んでこなければならなかったんだ。

このくどくどしい畳み掛けに、グッときてしまいます。本はただのゴミじゃない、という念のようなものを感じる。つまり、教養というものはそれだけの手間をかけて作られてきたんですよ。〇〇しなければならない何人もの誰かの手を経て、作られてきた。「校正」だけじゃなくて、「再校」だって行われているんです。さらに恐ろしいのは、後半です。そうして手間をかけて作られた本を、同様に執拗な手間をかけて潰そうとする社会を描いている。これまではっきりと語られることはありませんでしたが、ハニチャがプレスしているのは「禁書」だったんですね。
さすがに僕もわかってきましたが、ハニチャは単に本が好きというだけじゃないんですね。そうやって多くの人の手で組み上げられた教養を、一方で執拗に潰そうとする社会がある。これは、チェコスロバキアの社会状況を表しているんでしょう。そして彼はそのことに、抗っているんですよ。だから、本をせっせと救い出すんです。だから、本の生命ともいうべき教養を身につけたあとは、その本を紙塊の中に安置して埋葬するんです。
しかし、彼が必死に抗ったところで、圧倒的な「巨人的プレス」には敵いません。それどころか、その巨大プレス機に代表されるような社会に順応した若者たちが、主流となって働き始めている。若者たちには「穴熊のじいさん」と笑われる始末。アウトです。彼の負けです。
ハニチャは、自分も彼らのように働いてみようとします。この必死っぷりが滑稽なんですが、一方でとても痛ましい。ハニチャは、懐かしのマンチンカに会いにいきます。あの「クソまみれのマンチャ」です。彼女もすっかり年をとってしまいましたが、昔は本なんか読もうともしなかった彼女のほうが、彼よりもずっと幸福そうに生きているというのが皮肉です。彼は「何かの徴(しるし)」を求めて本ばかり読んできたのに、「天のお告げをまったく得られなかった」。人道的じゃないよ、まったく人道的じゃない。


「7」・「8」の章。
ここからはもう、どんどんハニチャの世界が崩壊していきます。35年間、ああ、35年間働いてきた地下室からの配置転換を言い渡される。この先はもう、ストーリーについては書きませんが、現実と妄想と回想が入り混じって、ハニチャがおかしくなっていく。
職場のボスは若い娘の体重を量るのが趣味で、そのあと今度は娘に自分の体重を量ってもらい歓喜の雄叫びをあげる、ってな可笑しいシーンがあります。「クソまみれのハニチャ」とも言うべきシーンも出てきます。古い友人と会って、「大回転」に誘われるシーンもあります。「大回転」とは、あちこちの酒屋を渡り歩き、ビールをはしごしまくることを指している。何だそりゃ、と思いますが、そうした可笑しく悲しいすべてが、ハニチャの見た悪夢のようにも思えてくる。
「永遠の建築現場のメランコリー」の足場すら崩れていく。この崩壊感覚、現実がぼろぼろと崩れていく感覚にクラクラします。そして彼が最後に妄想の中で見たものは…。
饒舌な一人称の小説では、語られなかったものがときに重要となります。これまで語られなかった名前が口にされるとき、ああ、そういうことだったのかと気づく。冒頭の一節を思い出してください。「これは、そんな僕のラブ・ストーリーだ」。そうこれは、ラブストーリーだったんですよ。


ということで、『あまりにも騒がしい孤独』、読了です。