『あまりにも騒がしい孤独』ボフミル・フラバル【4】

すっかり慣れてしまった悪夢、そんな感じがする小説でした。フラバルのタッチは決してリアリズムではありませんが、これ見よがしなぶっ飛んだ奇想で押してくるようなタイプでもありません。ゴミ、下水、糞便などなど、汚物まみれの世界を描きながら、それがあくまで日常の一部となっている。悪夢的な状況だとは思うんですよ。知識人たちは地下での労働を強いられ、ネズミは下水道で終わることのない戦争を続け、ベッドの上では今にも崩れそうな本の山がひしめいています。しかも、それがずーっと続いている。何度もくり返される「三十五年間」というフレーズ。それだけあれば、悪夢が日常化するには十分な年月です。
ハニチャの一人称の語りからは、そうした「悪夢慣れ」したのん気さやトボケたユーモアが漂ってきます。政治状況を俯瞰したような記述は出てこず、彼の半径数メートルの範囲の出来事ばかりが描かれているため、ことの深刻さはいまひとつ伝わってこない。いや、伝わってこないというところから、じわじわにじみ出してくるという感じかな。社会的な背景がはっきりわからなくても、そこが抑圧的な社会であるということはわかる。この作品の中心となる設定、故紙をプレス機で潰すという仕事。これは、背景に言論弾圧があるってことですね。でも、それが明確に書かれることはありません。書かれないというところに、根深い抑圧がある。
例えば、「心ならずも教養が身に付いてしまった」と言いますが、本当に「心ならずも」なんでしょうか? このエクスキューズによって、したたかに教養をかすめ取っているようにも、深刻な事態と直面するのを避けているようにも思えます。そんな風にしてハニチャは社会と折り合いをつけているわけです。終わらない悪夢の中でハニチャが選んだのは、趣味に生き孤独に生きるということでした。この作品の前半では、そんな彼が35年間かけて築き上げてきたライフスタイルが、延々と綴られています。
『あまりにも騒がしい孤独』というタイトルを別な言葉で言い換えると、「永遠に建築現場であるメランコリー」ということになるんでしょうね。建築現場の騒がしさに慣れてしまったとしても、不安定な世界は常に崩壊の予感をはらんでいるんですよ。案の定、後半ではハニチャの世界が無惨にもガラガラと崩れていきます。
「僕はもう愛なんか、とんと忘れてしまった」と孤独を選んだわけですが、ラストシーンからは、実はハニチャは何よりも愛を希求していたんだということが伝わってきます。彼がここまでやってくるには、本も教養も必要でした。でも、それだけじゃ足りない。あまりにも騒がしい孤独から逃れるには、誰かと手をつながなければならないんです。


訳者の石川達夫氏の解説によれば、この作品が書かれたのは1976年、いわゆる「プラハの春」が軍事的に潰され自由が圧殺されていった暗黒時代だそうです。そういう政治状況下で書かれた作品だということは押えておいたほうがいいでしょうが、それだけで読んでしまってはもったいない。「永遠に建築現場であるメランコリー」というのは原発を意識せざるを得なくなった日本にも十分当てはまるし、前回も書きましたが本が必要とされていないという状況もまた現代とよく似ています。
僕らもまた、巨大プレス機の中にいるのです。


ということで、『あまりにも騒がしい孤独』については、これでおしまいです。