『あまりにも騒がしい孤独』ボフミル・フラバル【2】


どうもこの作品は、語り手であるハニチャひたすら自分語りをするというスタイルで書かれているようです。ハニチャの目を通して描かれる世界は、どこかグロテスクに歪んでいる。今回読んだあたりには、そんな場面が頻出します。
では、続きです。


「3」の章。
紙塊を作ってはそこに素晴らしい本を納め、ときに名画の複製で飾り立てたりしているハニチャ。それなりに仕事に意義を見出しているようですが、そんな彼もときにはうんざりしてしまうことがある。そういうとき彼は、別の地下室へ息抜きに行くんですよ。面白いですね。地上でのんびりするんじゃなくて、また別の地下へ。そこでは「大卒の教養人たち」が、ブルーカラー的な「労働に縛り付けられて」働いているようです。

でも、僕が一番仲良くしたのは下水掃除人たちで、二人の元科学アカデミー会員がそこで働きながら、プラハ全体の下を走って交差している排水溝や下水道についての本を書いていた。ここで僕は、日曜日にポドババの下水処理場に流れ込む汚物と、月曜日のそれとは、全然違うことを知った。平日にはそれぞれの曜日の特徴があり、だから汚物の流動性をグラフにすることができて、コンドームを処理するための電力需要から逆算して、プラハのどの地区でベッドインが多くてどの地区で少ないかを確定することができるんだ。でも、僕が一番感銘を受けたのは、クマネズミとドブネズミがちょうど人間と同じように全面戦争を行って、その一つの戦争はもうクマネズミの完勝に終わったという、学問的知見だった。けれども、クマネズミはすぐに二つのグループ、二つのクマネズミ党派、二つの組織されたネズミ社会に分裂して、ちょうど今、プラハの下のあらゆる下水道、あらゆる排水溝で、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている――どちらが勝者になり、したがって、傾斜下水道を通ってポドドバに流れ込むあらゆるゴミと汚物への権利をどちらが獲得するかをめぐる、大クマネズミ戦争が行われているんだ。

下水掃除をしながらも、本来の業務とは関係がないと思われる執筆活動をしているということでしょう。大学から世間を見下ろすんじゃなくて、地下から見上げる社会学。ゴミを見ればその社会がわかるみたいなことを言ってたのは、村崎百郎だったっけ? 下水に流れてくるコンドームに傾向があるとか、面白いですね。そう考えると、ハニチャの仕事からもチェコスロバキアの状況が読み取れそうです。本に代表されるような教養が排除されていく社会、というような…。
クマネズミの話も興味深いです。二派に分かれたネズミは、どちらかが勝利するとまたその中で二派に分かれて戦いはじめる。うーん、これまた、ナチスの圧政が終わったと思ったら共産主義に翻弄されるという、チェコスロバキアの状況の相似形になっているんじゃないかな。このすぐあとに、「永久に建築現場である世界のメランコリー」というフレーズが出てきますが、これは不安定な状況が常態となってしまっているってことでしょう。
このあと、ハニチャは若かりし日を回想します。マンチンカという女性とダンスパーティに行ったときの思い出。この回想シーン、甘酸っぱい恋のエピソードが始まるのかと思って読み進めていくと、悲惨な結末が待っている。なんと、ある出来事のおかげで、マンチンカはパーティ会場にいた人々から「クソまみれのマンチャ」と呼ばれることになっちゃうんですよ。ええーっ、クソまみれって…。この辺は引用したいところですが、楽しみを奪っちゃうことになるのでぐっとこらえます。こらえますが、かなりひどい話ですよ。可笑しいけど可哀想すぎる。
この出来事からハニチャが得た教訓は、こうです。「天は人道的じゃなく、頭の切れる人間も人道的になれさえしないんだ」。この「頭の切れる人間」というのが誰を指してるのかはよく読み取れませんが、ひょっとして「心ならず教養が身についてしまった」自分のことかな。


「4」の章。
ハニチャの地下室に、食肉解体に使われていた肉の包み紙が大量に運ばれてきます。これが血まみれの紙の山で、作業しているとあちこちに血がついてしまう。しかも、うっとおしいことに紙と共に大量の蝿までついてきてしまいます。「肉蝿の雲はブーンブーンと気違いじみた唸りを上げて渦を巻き、霰みたいに牧の顔に叩き付けた」。うわー、ニクバエって何よ? 調べてみたらそういう種類の蝿がいるらしいんですが、字面がイヤですね、肉蝿…。
この章では、ハニチャがイエス老子の幻覚を見たり、故紙回収をしているジプシー女たちが現れたり、ボスに叱られたりするんですが、その間もずっと地下室を大量の肉蝿が飛び交っている。これはジャマ臭い。しかも、この蝿の描写がいちいち気色悪いんですよ。前章の「クソまみれ」もそうですが、こういう悪趣味なことをとぼけて書くときに、フラバルの描写は冴えまくります。

僕は、赤く濡れた紙を血まみれの両手で重ね、顔は血のしみだらけになった。緑のボタンを押すと、僕のプレスの壁がその恐ろしい紙もろとも、肉のかけらから離れられない蝿どもも潰した。肉蝿どもは、血の臭いで気が狂ったように発情して交尾し、それから発作的に旋回しながらますます情熱的に、まるで原子の中で中性子や陽子が旋回するように、紙で一杯になった圧縮室の周りに狂気のぶ厚い茂みを形作った。

僕がその圧縮された不快の立方体を縛り、紐を交差させて縛り上げ、その紙塊をほかの十五個の方へ運んで行くとき、僕の後から、残った気違い蝿の群れが丸ごとついて来た。どの紙塊も肉蝿にびっしりと覆われ、紙塊から押し出されたどの滴にも、どす黒い赤の中で、緑か金属的な青の蠅が光っていた。それはまるで、暑い夏の昼下がりに田舎の肉屋の鉤に吊された、巨大な牛のモモ肉みたいだった。

気持ち悪いなあ、もう。この、わしゃわしゃ感。蝿が交尾しているって考えるだけで気分が悪いし、蝿の「ぶ厚い茂み」ってのもイヤです。その落ち着きのない動きを、「中性子や陽子」に例えているのも上手いですね。ハニチャは、紙と共にそこに群がっていた蝿も一緒にプレスしちゃうんですが、それでも紙塊に群がってくる。「不快の立方体」とはよく言ったもんです。したたる血の中に潰された蝿が光ってる、ってのも恐ろしい。毛羽立った脚とかがはみ出してるんでしょうね。げー。
このあと、よくわからない老人とのエピソードが出てきます。彼も、社会状況の変化を受けて地下で働くことになった「教養人」っぽいんですが、どうもボケちゃってるらしい。意味ありげなシーンですが、そんなことより蝿ですよ、蝿。読んでる僕の気持ちは、すっかり蝿まみれです。ちくしょう、肉蝿め!

僕は穴の中に(中略)仰向けに横たわり、そうして横になったまま、通りから聞こえて来る物音に――あの美しい具体音楽(ミュージック・コンクレート)に――耳を傾けていた。僕たちの故紙集積場のある六階建てのアパートを通ってどこかで絶えず下水が流れ、ピシャピシャはねるのに耳を傾けていた。水洗トイレの鎖が引かれるのが聞こえた。そして僕が地面の深みに耳を澄ませると、向こうのどこかで下水と糞便が排水溝と下水道を流れるのが、はっきりと静かに聞こえた。そして肉蝿が全軍団と一緒に去って行った一方で、クマネズミの甲高い声とピーピーいう悲しげな鳴き声が聞こえた。それは首都プラハの下水道の至る所で相変わらず、どちらの町の排水溝と下水道全部の支配者になるかをめぐる、クマネズミの二つの党派の熾烈な戦いが行われている音だった。天は人道的じゃなく、僕の上の生も、僕の下の生も、僕の中の生も、やっぱり人道的じゃないんだ。

糞便、肉蝿、ネズミとこれまでのオールスターが登場するような一節ですが、ここにも僕は地下から世界を見る視点を感じます。チェコスロバキアは非常に抑圧的な社会状況にあるんでしょう。まったくもって、人道的じゃない。それを俯瞰で眺めるのではなく、地下から眺める。眺めるというか、音楽を聴くように耳を澄ます。しかも、そんな下水の音を、ハニチャは「美しい具体音楽」と呼ぶんですよ。ミュージック・コンクレートってのは、楽器ではなく自然音や生活音なんかを取り入れた音楽のこと。この「美しい」が引っかかりますね。これは、ゴミの中からお宝本を拾い出し、紙塊を絵画で飾り立てるようという感覚とつながっているような気がします。


「5」の章。
この章は、ハニチャの叔父さんが亡くなるところから始まります。この叔父さんもまた変わり者の独身者なんですが、どう変わってるかは読んでもらうとして、その死体の描写でフラバルはまたやらかしてくれます。一人暮らしの叔父さんは死後なかなか発見されず、真夏の暑さにすっかり腐って「カマンベール・チーズみたいに」溶けてしまうんですよ。悪趣味な例えだなあ、もう。

葬儀公社の職員がやって来ると、彼らは叔父さんの体のうち服の中に残っていたものだけを取り出して、それから僕を呼びに駆けつけた。僕は地下室の作業で慣れていたので、シャベルとそのあと鏝(こて)を使って、床にこびりついた残りをリノリウムから剥がさなければならなかった。僕は一瓶のラム酒をもらい、叔父さんの肉体の残りらしきものを全部、静かに丹念に剥がした。一番厄介だったのは、叔父さんの赤い髪の毛をリノリウムから取り出すことで、それはまるで高速道路でハリネズミがトラックに轢かれたみたいに食い込んでいたので、ノミを使わなければならなかった。

溶けた死体ってだけでもイヤなのに、それを床からこそげ落とさなきゃならない。イヤですね、まったく。このあとの、ハニチャは叔父さんの棺に本と叔父さんのコレクションを入れて丁寧に飾ります。本のページをどうするか、あれこれ悩むところが可笑しい。これって、まるで紙塊に本を納め名画の複製で飾り立ててる、例の行為にそっくりじゃないですか。ハニチャ・オリジナルの紙塊を作るように、叔父さんを埋葬する。
ハニチャのここのところの仕事は、点検に向けて地下室を空にするための掃除です。ここでも、叔父さんの死体の片づけによく似た行為が反復されます。湿気でこびりついた紙をツルハシでひっぺがし、「エメンタール・チーズみたいな穴」があいているその塊をネズミの巣ごとプレス機に放り込む。底のほうの紙はすっかり腐っちゃって固まっちゃってるし、「鍋の中に半年間置き忘れていたカッテージ・チーズみたいな」匂いを放っています。紙の死骸。
それにしても何でしょうね、このチーズづくしの比喩は。ネズミだから? まあ、わかりませんが、次々とネズミたちを潰しながら彼は、それが「非人道的」な仕事だと思っています。

僕はそのあまりにも騒がしい孤独の中で見たもの、自分の肉体と精神で経験し体験したことすべてのせいで気がふれてしまわないだけ、肝が据わったんだ。

孤独との付き合い方を身につけてきたように、ハニチャはこの非情な営みになんとか折り合いをつけようとしています。「肝が据わったんだ」って、本当にそうなのかな? 思考のヒューズを飛ばして、麻痺させているだけなんじゃないかな? そうでもしなくちゃ、やっていけない。気がふれてしまいかねない。
ハニチャは、青春時代の恋人、一時期共に過ごしたジプシー娘のことを思い出します。ここでまた、回想シーン。くすぐったいような思い出が語られますが、この恋もまた悲惨な終わりを迎えます。彼女はゲシュタポに捕らえられて、強制収容所に送られてしまうんですよ。彼はこの出来事を、非常にさらっと語ります。激しい感情を吐露するような記述はありません。ただひたすら紙をプレスするように、起きた出来事を語るだけです。それは、あまりにも騒がしい孤独の中で生きるために、彼が身につけた語り方なのかもしれません。

じきに雨だな、と僕は呟いたけれど、仰向けに横たわったまま、手足一本動かせなかった。この二日間で、数百匹のネズミを犠牲にしながら地下室じゅうを大掃除して、ビールと仕事でそれほどぐったりしていた。つつましい小動物のネズミたちも、本のテキストを齧って故紙の穴に住み、子ネズミを生んで小さな巣の中で乳をやること以外、何も欲していなかったんだ。あの僕の小さなジプシー娘が、寒い夜に丸くなって僕にすり寄ったみたいに、子ネズミたちは、巣の中で丸くなっていたんだ。天は人道的じゃないけれど、きっとこの天以上の何かがあるんだ――それは同情と愛だけれど、僕はもう愛なんか、とんと忘れてしまった。

「天は人道的じゃない」というフレーズを、ハニチャは何度も何度もくり返します。でも、それをどうにかするわけじゃありません。「同情と愛」が非人道的な運命を変えると言いながら、「愛なんか、とんと忘れてしまった」と終わる。この諦念、ズシンときますね。


ということで、今日はここ(P85)まで。それにしても、『あまりにも騒がしい孤独』っていいタイトルだなあ。まるで、プレス機のがしゃこんがしゃこんいう音が聞こえてくるようです。