『あまりにも騒がしい孤独』ボフミル・フラバル【1】

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
ボスニアの次はチェコスロバキアにいきましょう。バルカン半島からぐぐっと内陸部へ。この国もまた複雑な政治状況を抱えてきた歴史があるんですが、そういう国の小説を読みたい気分なんですよ。
ということで、今回はこれ。
『あまりにも騒がしい孤独』ボフミル・フラバル
です。
フラバルは、実はずーっと気になってた作家。翻訳されている作品は多くはありませんが、最近、フラバル・コレクションというシリーズの刊行が始まったので、これからいろいろ訳されると思います。『あまりにも騒がしい孤独』は、そのフラバル・コレクションではありませんが、同じ松籟社の「東欧の想像力」というシリーズから出ている作品です。このシリーズも惹かれますね。「東欧の想像力」という言葉に、南米のマジックリアリズムに近いものを感じたりして。
ということで、フラバルの想像力を。ボリューム的にはそれほど長くない作品なので、すぐ読めちゃうかな。まあ、いってみましょう。


「1」の章。
まずは冒頭から。

三十五年間、僕は故紙(こし)に埋もれて働いている――これは、そんな僕のラブ・ストーリーだ。三十五年間、僕は故紙や本を潰していて、三十五年間、文字にまみれ、そのために僕は、この年月の間に三トン分は潰したにちがいない、百科事典に似てきている。僕は、魔法の蘇りの水であふれんばかりのピッチャーになっていて、ちょっと身を傾けただけでも、僕の中から美しい思想が滾々(こんこん)と流れ出す。僕は、心ならず教養が身についてしまい、だから、どの思想が僕のもので僕の中から出たものなのか、どの思想が本で読んで覚えたものなのか、もう分からなくなってしまっている。こうして僕は、この三十五年の間に、自分や自分の周りの世界と一つになってしまっているんだ。というのも、僕が本を読むとき、実は読むのじゃなく、自分の嘴(くちばし)に美しい文をすーっと吸い込んで、それをキャンディーみたいになめているからだ。まるで、グラス一杯のリキュールをちびちび啜っては、ついにその思想が僕の体の中でアルコールみたいに溶けるようで、それは長いこと僕の体の中に沁み込んでいき、ついには僕の脳と心臓の中にあるだけではなくて、血管の中を脈打ちながら、毛細血管にまで行き渡るようになる。こうして僕は、月に平均二トンの本を潰しているけれど、自分のその敬虔な仕事をこなす力を奮い起こすために、この三十五年間に五十メートル・プールか、クリスマスに食べる鯉の養殖池ができるくらいのビールを飲んだ。こうして僕は、心ならず知恵がつき、今や僕の脳味噌は、水圧プレスで圧し潰された思想やアイデアの塊になっていると請け合ってもよく、髪の毛が燃え尽きた僕の頭は、アラジンの魔法のランプだ。

故紙を潰す仕事、というのがまず面白いですね。プレスして紙ゴミのキューブを作る。何というか、いかにもブルーカラーの労働という感じで、しんどそうな仕事です。でも、語り手は、この仕事のしんどさから語り起こすということをしません。むしろこの仕事のおかげで、「心ならず教養が身についてしまった」と。
「心ならずも」という屈折した表現が引っかかります。いやあ別に勉強しようと思ったわけじゃないんだけどさあ自然とねこう知識が頭に入ってきちゃって、というような謙遜しつつの自慢、みたいな感じがあるでしょ。この冒頭を読むだけで、語り手が非常にお喋りだということがわかります。私は本を潰す仕事をしているが、本に触れる機会が多いために、そこに書かれていることがまるで自分の考えのように身についてしまった。要約しちゃえば、そんなところでしょう。しかし、この語り手は、それをくどくどと喋り続ける。しかも、ちょっとドヤ顔で。
例えば、連呼される「三十五年間」。もうわかったよ、というくらい、やたらと三十五年を押してくる。もしかして、「すごいねえ」と言ってあげないと止めないタイプ? すごいねえ、そんなに長いこと仕事をやって。すごいねえ、頭がよくって。とかなんとか。あとは、ビールか。プールか池くらいの量を飲んだと豪語してますが、これもちょっと盛ってるのかな。クレイジーキャッツで言うところの、飲んだビールが五万本、ってやつです。すごいねえ、いっぱい飲んで。
と、あれこれツッコミたくなるのは、一人称にチラつく自意識のせいでしょう。まあ、まだ最初なのでわかりませんが、ちょっと面倒な人かもしれません。ただ、本を読むことを「自分の嘴に美しい文をすーっと吸い込んで、それをキャンディーみたいになめている」というのは、わかる気がします。僕も、文を「キャンディみたいに」べろべろ舐め回したくてこのブログをやってるようなものなので…。
このあとも、彼の仕事がどういうものかが改行なしにひたすら語られていきます。彼の名前はハニチャ。プレスし水圧プレス機がある地下室で働いていて、天井に開いた穴からひっきりなしに落ちてくる紙ゴミを、製紙工場へと送るために潰し続けています。古新聞とかそういうものだけじゃなくて、ありとあらゆる紙ゴミが落ちてくる。例えば、「職人が残したペンキの散った壁紙、食肉公社から出た濡れて血の付いた紙の束、写真のアトリエから出た尖った紙切れ」などなど。確かに、見回してみれば僕らの生活は紙だらけですね。

けれども、工場の敷地を通って流れる濁った川の水の中にも美しい小魚がきらめくように、故紙の流れの中にも貴重な本の背がきらめき、僕は一瞬目が眩んで目を背けても、すぐにそれを捕まえて引っぱり出し、エプロンで拭き、ページを開いてテキストの匂いを嗅ぎ、それからホメロスの予言のように最初の文に目を凝らして読み、それからようやく、小さな木箱に入れたすてきな掘り出し物たちの間にその本を置く(中略)。その後、そういう本を一冊一冊ただ読み通すだけではなくて、読み終わった本をそれおぞれの紙塊の中に納めることが、僕のミサ、僕の儀式なんだ。というのも、僕はそれぞれの紙塊に飾りを付けなければ気が済まず、僕の特徴、僕の署名を付けなければ気が済まないからだ。それぞれの紙塊を違ったふうにすることが僕の苦労の種で、僕は平日は毎日二時間残業し、一時間早く出勤しなければならず、時には、決して尽きることのない故紙の山を圧縮するために、土曜日も働かなければならない。

故紙の中から本を救い出すことに、ハニチャは喜びを見出している。まるで魚をつかまえるかのようなこの一連の流れからは、彼が何度もそれをくり返してきたことが窺えます。「心ならずも」教養が身についちゃうくらい、本への愛情とういうか崇拝があるんでしょう。本を開いて最初の文を読んでみる、というのがいいです。そうそう、僕もこの小説の冒頭だけで、ずいぶんとずいぶんと語っちゃいましたからね。本の入り口に立ってあれこれ考えるのって、楽しいんですよ。
なんて思ってたら、どうやら読み終えた本はプレス機にかけてしまうらしい。え、潰しちゃうの? ハニチャは、別の箇所で「本は僕に破壊の快楽と悦びを教えた」とも言っていました。これはなかなか際どい感覚ですね。本を愛していながら、それをプレスすることにも悦びを感じている。しかも、それは「僕の儀式」であり、それをしなければ「気が済まない」らしい。何だか、倒錯というか屈折というか、そういうものを感じます。
もちろん、そんなことをしてるから仕事がなかなか進まず、残業に早出、休日出勤まですることになる。何もそこまでするなら、いいじゃん、儀式なんかしなくても。「苦労の種」なんて言ってるけど、それ、あんたが勝手にやってるんだよと。でも一方で、こういう誰にも気づかれない孤独な喜びって、僕は妙に惹かれるところがあるんですよ。自分の満足のためにだけ、自分で作ったルールに沿って行われる、何の役にも立たないこと。35年間も一人きりで地下で働いてるわけでしょ。孤独との付き合い方って、そういうところあるよなあと。
しかも彼は、引退する際には、この水圧プレス機を買い取りたいと考えています。あと5年で年金生活になるから、余生は自宅でプレス機を動かして楽しむつもりでいます。何でしょう、彼自身がもうプレス機と不可分の関係になっているというか、この孤独な営みを手放せなくなっている。

だって僕は、決して見捨てられた人間ではないけれど、放っておかれるという、贅沢を味わうことができるからだ。僕は、いろいろな思想が住み着いた孤独の中に暮らせるように、独り身でいるだけだ。というのも僕は、ちょっとばかり無限と永遠の偏屈人間だからで、そして無限と永遠ってやつは、たぶん僕みたいな人間が好きなんだ。

ああやっぱり、独身者か。でしょうね。この饒舌なひとり語りには、他者が出てこないんですよ。私はこういう者だということだけを、ひたすら語っている。
というところで、次の章へ。


「2」の章。
ハニチャはある日、自分が地下で暮らす子ネズミたちもろともプレスしていたことに気づきます。

こういった地下室にどれだけたくさんのネズミがいるか、誰も信じないだろうけれど、たぶん二百匹か五百匹くらいはいて、友達づきあいしたがるその小動物たちは、たいてい半盲の状態で生まれてくる。でも、その子ネズミたちはみんな文字を食べて生きているという点が僕と同じで、革装のゲーテとシラーを味わうのが一番好きだ。それで僕の地下室は、ひっきりなしに本がカサカサ動いたりカリカリ齧られたりする音に満ちていて、子ネズミたちは暇な時には子猫みたいに飛び跳ね、僕のそばでプレスの圧縮機の枠や横軸に沿って這う。圧縮室の壁が緑のボタンで、全部の紙を子ネズミもろとも宿命的にストレス状態に押し込んで、子ネズミのピイピイいう声が消えてゆくちょうどそのとき、僕の地下室の子ネズミたちは急に真顔になって、後ろ足でちょこんと立ち、人形みたいに突っ立ったまま、これは一体なんの音だろうと耳を澄ませる。けれども、子ネズミたちは現在が過ぎ去るとすぐに記憶をなくしてしまうので、その後でまた自分たちの遊びを続け、本のテキストをカリカリ齧り続ける。本が古ければ古いほど、熟成したチーズみたいに、熟成したワインみたいに、子ネズミたちはその故紙をおいしがる。

どうやら彼は、ネズミにある種の共感を持っているようです。どちらも地下に暮らし、「文字を食べて生きている」。しかし、知らず知らずのうちに彼はネズミたちを「ストレス状態に押し込んで」、つまりプレス機の圧力でもって潰してしまう。気分のいい話ではないですね。しかし、もっとイヤなのはそのあと。潰されていく子ネズミの声を聞いた他の子ネズミたちは、聞き耳を立てるけど「現在が過ぎ去るとすぐに記憶をなくしてしま」い、すぐに遊びに戻ってしまう。これは、ネズミに限った話ではありません。例えば、昨年の震災の風化する早さを思ったりします。びくびくと耳を澄ましていた時間はあっという間に過ぎてしまい、過ぎてしまえばすぐに忘れてしまうんですよ、僕らは。次は自分がプレス機に潰されるかもしれないのに。
独身者ハニチャの暮らしぶりも、この章には出てきます。彼のアパートは、仕事から持ち帰った本であふれているんですが、その量が凄まじい。

ホレショヴィツェの三階にある僕のアパートは、ただもう本だけで満杯になっていて、ふさがった地下倉庫と物置では足りず、台所も一杯だ――食費置き場とトイレもそうで、窓とレンジの方に行く通り道だけが空いていて、トイレは僕が座れるだけのスペースしかない。水洗トイレの便器の上には、一メートル五十センチの高さに梁と棚板があって、その上に天井まで本が、五百キログラムの本が聳えている。一度でも不注意に座ろうとしたり、不注意に立とうとして、梁にぶつかろうものなら、僕の上に半トンの本が崩れ落ちて来て、ズボンを下げている僕を圧し潰すだろう。けれどもここにも、もう一冊の本も付け足すことができず、それで僕は部屋の中で、ぴったりとくっつけて置いた二つのベッドの上に角材と棚板を立ててもらい、そうして僕はベッドの上に天蓋を作って、そこに天井まで本を積んでいる。僕はこの三十五年間に二トンの本を家に持ち帰ったけれど、僕が眠りに落ちると、二トンの本が二千キログラムの悪夢のように僕の眠りを圧迫する。時々、不用意に体の向きを変えたり、眠りの中から叫んで飛び起きたりすると、本がズルッとずれる音が聞こえてぞっとする。ちょっと膝が当たっただけでも、例えば叫び声を上げただけでも、雪崩のように天からすべてが僕の上に崩れ落ちてきて、貴重な本で一杯の豊穣の角(コルヌコピアイ)の中身が僕の上にばら撒かれ、僕はシラミみたいに潰されてしまうだろう。

ああ、床だけじゃ足りないんですね。なので、頭上に棚を作ってその上にさらなる本を積み上げる。これは落ち着かないですね。しかも、トイレで1.5メートルの高さってのは低すぎないかなあ。しゃがんでる間はいいけど、立ったらぶつかっちゃうんじゃない? ベッドの上の棚ってのもイヤです。寝ている間に落ちてきたどうするのよ? 不安の種は尽きませんが、これまた彼が自分で勝手にやっていることです。イヤなら止めればいいんですが、それができないという屈折。本を救出する喜びと本に潰される不安の板挟み。一方だけ取るということができないんですよ。
実は我が家も床に本を積み上げてひどい状態になってるので、あまり人のことは言えません。地震がきたらひとたまりもないでしょう。震災直後はビビって本を移動したりしてたんですが、結局、また積み上っていっちゃって…。さっさと何とかしろよという感じなんですが、「現在が過ぎ去るとすぐに記憶をなくしてしまう」。お恥ずかしい話ですが、僕もまた彼の同類であり、忘れっぽいネズミの一種です。
ところで、ハニチャは何かというと数字に換算するクセがあるようです。「三十五年間に二トンの本を家に持ち帰った」ってどうやって測ったのかわかりませんが、妙なこだわりを感じさせます。しかも、「二千キログラムの悪夢」と何故かキログラムで言い直したりして。それとも、ここもあれかなあ? すごいねえ、って言ってあげるところなのかもしれません。
この章の最後で、彼は自分の背が縮んでいることに気づきます。感覚で済ませず、ちゃんと計ってみるところが彼らしいんですが、何と9センチも背が低くなっている。リアリズム小説ではないと思っていたので、このくらいのことでは驚きませんが、9センチってのはまた微妙なラインだなあ。

僕はベッドの上の本の天蓋を見上げて、その二トンの本の天をいわば絶えず背負っているせいで、自分の背中がたわんでしまったんだと思った。

彼もまた、プレス機の中にいるのかもしれません。


ということで、今日はここ(P31)まで。物語はまだ動き出しませんが、設定がいちいち興味深いです。主人公がどういう仕事をしていて、何に喜びを感じてて、どんな不安にさいなまれているのか。そして、語り口から浮かび上がってくる主人公の屈折した自意識。これは、ひょっとしてあれか? 僕の得意ジャンル、孤独な中年男パターン。