『ノーホエア・マン』アレクサンダル・ヘモン【7】


文章を味わう、久しぶりにそんな読み方ができる小説を読んだなあという実感がありました。前もちょっとだけ触れましたが、アレクサンダル・ヘモンは、母国語ではなく習得した英語で小説を書くことを選んだ作家です。だから、一語一文に繊細にならざるをえない。その繊細な言葉遣いが素晴らしくて、読む側もその一文に込められた様々な意味を丁寧に味わいたくなるんですよ。
構成は複雑です。すべての章に何らかの形でヨーゼフ・プローネクという人物が登場します。しかし、各章の語り手が異なるため、プローネクの人物像は微妙に揺らいでいます。プローネクが感情を吐露するシーンもギリギリまで出てこないため、彼が何を考えているのかもよくわかりません。第一章と第七章の語り手は同一人物のようにも思えますが、違うかもしれません。第二章と第六章の語り手は、常にプローネクに寄り添いながらも、透明人間のように実体がよくわかりません。第三章を読むと、語り手が勝手にプローネク像を作り上げちゃってる節もあります。
このように、物語の辻褄を追っていくと迷路に入り込んじゃうような作品ですが、一文一文を追っていくと共通するモチーフがくり返されていることに気づきます。僕が何度か言及した言語のギャップの問題。アメリカでプローネクは周囲からたびたび言葉を訂正されます。「あんた、ザの使いすぎだよ」とかなんとか。例えば、第七章で突如前面にせり出してきたスパイについて。キエフでプローネクはスパイに関するジョークを飛ばし、探偵の面接の際には「で、あんた、スパイになりたいのか」と訊かれます。
その他にも、前にチラっと出てきたシーンが反復されたり、同じアイテムが別の文脈で登場したりします。ビー玉、ドストエフスキーの『白痴』、星の寿命の話や「真夜中の帝王」という小説や「新世界」という店などなど。最も印象的なのは、動物たちです。くり返し出てくるネズミ、馬、さらにはゴキブリやリスやイルカやシカやハトなどなど。注意深く読んでいけば、もっといろいろあるんでしょうね。
僕は、プローネクが何故祖国へ帰らないんだろうということが気になっていました。紛争が勃発したために帰れなくなってしまった、というのはわかりますが、停戦後もアメリカに留まる理由は何なんでしょう? 決定的な瞬間にその場にいなかったということかもしれません。厳しい状況下に置かれた両親や親友から遠く離れているということが、彼を引き裂いてしまった。祖国に属しているという気持ちを持てなくなってしまった。かと言って、アメリカ人にもなれない。第四章は、友人ミルザの手紙をプローネクが拙い英語に翻訳したという形になっています。ミルザの手紙そのものではなく、流暢な英語でもない。プローネクはその狭間にすべり落ちてしまったんです。
異なる語り手と共通するモチーフ。まるで、一つの泉からいくつもの語りを汲み上げているように思えてきます。ひょっとしたら、この作品全編が「プローネクの夢想」なんじゃないでしょうか。はっきりとした自分の輪郭を失ってしまった「ノーホエア・マン」。一度他者の揺らぐ視点を取り入れなければ自らを語ることができない、そんなプローネクの寄る辺なさを思ってしまいます。母国語ではない言葉で物語を綴るということは、他者の視点からもう一度言葉を編み直すということです。
プローネクはサラエヴォでブルースバンドを組んでいました。そのベースには、ボスニアの「セヴダ」という音楽があります。このセヴダとブルースの共通点を、彼はこんな風に語っていました。

「すごく悲しい歌だけど、あんまり悲しいから自由になれるんです。ボスニアのブルースみたいなものです」

この作品もまた、セヴダをベースにしたブルースだったのかもしれません。


『ノーホエア・マン』については、これでおしまいです。いや、読んでよかった。んで、書いてよかった。