『ノーホエア・マン』アレクサンダル・ヘモン【5】

面白いもんだからなかなか本を閉じられず、二章分読んじゃいました。なので、一気にいっちゃいます。


「5 深い眠り/シカゴ、1995年9月1日/10月15日」。

守衛は眠りこけ、椅子からすべり落ちそうになりながらホルスターの拳銃に指をかけていた。プローネクはその前を通り、鉄格子の扉を開けてエレベーターに乗りこんだ。エレベーターには女の香り高い不在がたちこめていた――桃のようにかぐわしく、細身で、濃密だった。プローネクはその香りを発したであろう女を想像した。熱い視線に値する女だった。背が高く、手足が長く、いかにも強靭で、硬い黒髪を中央で分け、瞳は黒く、くちびるの両端が不機嫌に垂れていた。女はハンドバッグから煙草を一本とりだし――その煙草は必要以上に重かった――火を貸してもらうのを期待して、彼のほうを向いて言った。「ずっとだれかを探していたけど、やっとだれだかわかったわ」

第五章の冒頭です。早速、ヨーゼフ・プローネクが登場。エレベーターに残る香りから、そこにいたかもしれない女を妄想するというシーンから始まります。やけに具体的なところが可笑しいんですが、この女性像はまるでフィルムノワールに出てくる魔性の女ですね。また、女のセリフが謎めいている。「あなたが運命の男よ」という意味でしょうが、プローネク自身のアイデンティティを指しているようにも思えます。
プローネクは、これから探偵事務所のオフィスを訪ねるところです。そこで雇ってもらうつもりなんですが、すっかりその気になっちゃってるのか、何かを見たり聞いたり嗅いだりするたびに、探偵小説や犯罪映画のような妄想に入り込んでしまう。ジェームズ・サーバーの「虹をつかむ男」みたいな感じです。そればかりか、窓にとまる鳩に監視カメラがついていたらとか、煙草の灰と吸い殻で拷問できるだろうかとか、ちょっとどうかと思うようなことまで考えたりして、要するにどこか地に足がついていないんですよ。
プローネクと対面した事務所の男は「いいか、このあたりにはもう探偵なんていないんだ」と言います。もう、フィルムノワールの時代じゃないんですよ。探偵が犯罪を扱うことなんかほとんどなく、浮気現場の証拠を撮るとかその程度。

「尾行(テール)のやりかたは知ってるか」
「物語(テール)ですか?」プローネクは混乱した。「物語を話すんですか」

言葉の問題は、常にプローネクにつきまといます。「物語」というところが面白い。プローネクの知っているアメリカの探偵は、すべて物語の中のものです。しかし、現実のアメリカは彼の知っているアメリカではないということです。地に足がついていないのは、そのあたりに原因があるんじゃないかな。もちろん、それは彼のせいではありません。そこに僕はヒリっときてしまう。
このあと、プローネクは一度だけ探偵の手伝いをします。その仕事は、彼にとって気の滅入るようなものでした。祖国の紛争が停戦となる少し前、新聞には「スレブレニツァで数千人殺害」の文字が見えます。


「6 兵隊たちがやってくる/シカゴ、1997年4月―1998年3月」。
職を探していたプローネクは、グリーンピースで働くことになります。戸別訪問をして寄付を募るという仕事。レイチェルという女性に仕事を教わり、扉を開けてこう切り出します。「僕はヨーゼフと言います。グリーンピースから来ました、お話ししたいことがあるんですが」。まるで教科書の例文のような挨拶。

「仕事、難しいね。僕の英語はひどいから」
「リラックスが肝心。訛りのある英語を話すってことは、少なくともふたつの言葉が話せるってことだよね。それって、この神に見放された土地にいる人たちの二倍も話せるってことだよ。あんたを気に入った人はお金をくれるだろうし、気に入らなかった人はくれないだけのことさ」

二つの言語が話せるということは、二つの場所に属しているということでもあり、どちらにも属していないということでもある。この作品を読んでいるとそんな気がしてきます。プローネクは、過去と現在に、サラエヴォとシカゴに引き裂かれている。彼は、仕事にも慣れていき、やがて「僕はヨーゼフと言います」のバリエーションを使いはじめます。

手をつないでソファに座っていたエヴァンストンの若いカップルには、プローネクはボスニアのミルザと自己紹介した。胸いっぱいに「デボー」の文字があるグランジの女子学生には、ウクライナのセルゲイ・カタストロフェンコ(大惨事くん)と名乗った。安っぽい髪が肩に垂れ、頭のてっぺんが汗で光っているオークパークの男には、エストニアのユッカ・スムルディプルディウスカス(臭いおなら氏)と名乗った。英語をまったく話せず、両手をそっとひざに置いて座っていたホームウッドのルーマニア出身の老夫婦には、リヴァプールのジョンと名乗った。乱暴にドアを開けて「うるせえな、だれだ」と言った疲れた建設作業員には、だれでもない人間になった。

どうせ言葉が通じないならとデタラメな名前を名乗るところは、子どもの頃、勝手にでっち上げた歌の内容を両親に話して聞かせたエピソードを思い出させます。ここに出てくるいくつかの名前は、プローネクの過去に根ざしたものですね。ボスニアのミルザ、ああ、ミルザはどうしてるんでしょうか? リヴァプールのジョン、ああ、憧れのジョン。「だれでもない人間になった」、ノーホエア・マン。どこにもない国に座ってどこにもない計画を立てている誰でもない男。
このあともいろいろあるんですが、レイチェルと恋に落ちるということを押さえておくくらいでいいでしょう。そして、これまでの章で語られたエピソードやモチーフ、テーマなどが様々な形で変奏され、祖国を離れて異国の言葉を話すというプローネクの寄る辺なさが浮かび上がってきます。第一章で引用したゴキブリのシーンを思わせる部分もあり、何度か言及されていたビー玉やネズミもくり返し登場します。僕が特にグッときたのは音楽の話。例えば、こんな会話です。

「ヨーゼフもむかしバンドをやってたんだって」レイチェルが言った。「でしょ、ヨーゼフ?」
「冗談だろ」アローンが言った。「なんのバンドだい?」
「ブルース」プローネクは言った。
「ブルースのバンド?」マクスウェルは頭を左右に振った。「ちょっと待てよ、あんたの先祖は奴隷だったのか?」
「違う」プローネクは言った。「でも、ボスニアの音楽はブルースに似てるんだ」
「ザ・ブルースじゃなくて、ブルース」レイチェルは言った。

ここもまた、ヒリっとくる。「あんたの先祖は奴隷だったのか」というデリカシーのないジョークにイラっときますが、そのくらいブルースが若者からかけ離れた音楽だということでしょう。かつての探偵小説と現在のアメリカの間にギャップがあるように、ブルースと90年代のアメリカの間にもギャップがある。「ボスニアの音楽はブルースと似てる」というのは、第二章ででてきた「セヴダ」のことですね。でも、それは似ているけれどブルースではない。「ザ」一個分の差異が、プローネクの世界とアメリカの間にある超え難いギャップとなって横たわっています。
さあ、もうすぐラストスパートです。このあとの展開はもう触れないでおきましょう。あと一つだけ。語り手の問題について書いておきます。第五章は、三人称の語りが採用されていました。要するに語り手を意識させない語り、です。そしてこの第六章は、冒頭でいきなり「そこで私は幸運を祈ってプローネクのひたいにくちづけし、送りだした」と始まります。それ以降は、しばらく三人称の語りが続き、途中でふいに再び「私」が顔を出す。しかし、これが何者かはわかりません。まるで透明人間のように、ヨーゼフとレイチェルの寝室にまで潜り込み、メイクラブの様子を描写する。第二章同様、謎めいた語り手なんですよ。この章のラストにもまた、「私」が前面へと現れます。

だが、ほほをなでているのは私の手であることを彼は知らない。彼には私が話しかける声が聞こえない。「ネ・プラーチ。スヴェ・チェ・ビティ・ウ・レードゥ」落ち着いて、きっと大丈夫だからと私は彼に言う。われわれはただ、この破壊をかきわけて進もう。われわれはただ、ここに至った道のりを記憶に刻もう。ただ記憶にとどめよう。

「私」は、ヨーゼフ・プローネクのひたいにくちづけをし、ほほをなでる。プローネクはそのことに気づいていない。「ネ・プラーチ〜」は、おそらくボスニアの言葉でしょう。セヴダに出てくるフレーズかもしれません。「われわれ」という複数形の一人称に、祖国を同じくする者の悲痛な連帯を感じます。ノーホエア・マンとなったヨーゼフを見守る、見えない祖国。「私」の正体とは、その祖国かもしれません。


というところで、今日はここ(P238)まで。残りあと1章です。短い章なのですぐ読み終わっちゃうと思いますが、今日のところはひとまず、楽しみを先に延ばしにしておきます。