『マジック・フォー・ビギナーズ』ケリー・リンク【3】


残り3編、読み終えてしまいました。やっぱ好きだなあ、ケリー・リンク
「妖精のハンドバッグ」はヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞を、表題作の「マジック・フォー・ビギナーズ」は、ネビュラ賞ローカス賞、英国SF協会賞を受賞してるとか。いずれもSFの賞なんですが、ケリー・リンクはSF作家ってことになってるのかな? 版元も早川書房だし、世界SF大会に出席したりもしてるらしいし。
確かに、ジャンル小説の皮をかぶってるところはあるんですが、その中身はどうにも説明しづらいヘンテコな小説になってます。


「大いなる離婚」

昔々、妻が死んでいる男がいた。男が妻に恋したとき彼女は死んでいたし、一緒に暮らした、やはりみな死んでいる子供が三人生まれた十二年のあいだも死んでいた。これから語ろうとしている、妻が不倫をしているのではと夫が疑いはじめた時期にも、彼女はやはり死んでいた。

冒頭。いきなり、トンデモな始まりです。「昔々」というお伽話のような語り出しですが、このあと語られるのはまるで現代の夫婦の話です。奇妙なところといえば、妻のほうは「死んでいる」ことくらい。それにしても、リフレインされる「死んでいた」が、妙に可笑しいですね。何回言うんだと。
どうやらこの作品の世界では、死者と生者が結婚できるようです。ただし、ここで言う死者はゾンビではなくて、幽霊。目には見えません。つまり、この男は見えない妻と結婚し、見えない子供を生んだということになります。見えないんだから、不倫を疑いだしたらキリがない。
2人は間に霊媒を挟んで、離婚調停をすることに。そこで、に3人の子供たちをディズニーランドに連れていき、彼らが遊んでいるあいだに霊媒を通して夫婦で話し合いをします。この世界では、ディズニーランドでは「大幅な死者割引」があるらしいんですよ。
この舞台設定が、すごくいいです。生者が列をなしてアトラクションに興じている横では、目に見えない霊たちもまた大はしゃぎしている。何というか、世界に見えないレイヤーが重なっているようで、しかもそこが虚構の空間ディズニーランドだというのが面白い。

ディズニーランドには死者好みのキャラクターがいろいろいる。たとえばグーフィーがそうだ。あのだぼだぼのコスチュームがいいのか。あの間抜けな帽子とか。尻をつついても思いきりこづいても、絶対すばやく動いたりしないからやりたい放題。ミニーマウスも死者に人気だ。ミニーのハンドバッグを隠すことを死者たちは好む。あるいはバッグのなかに何か入れるとか。

これは、なんとなくわかりますね。ミッキーじゃスマートすぎてつまんないし、ドナルドだといろいろ面倒くさそうです。いたずらをしたくなるような、マヌケなキャラがいい。グーフィーのどこか生気を欠いたのろまさは、死者に近しいのかもしれません。
この作品、最後にちょっとした仕掛けがあります。ふいに「語り」の構造が前面に迫り出してくる。「え? どういうこと? てゆうか、あんた誰?」みたいな。誰って、そんなことするのは幽霊に決まってますが。


「マジック・フォー・ビギナーズ」
これは、素晴らしい。わりと長めの作品で、しかも不思議満載です。まずもって、冒頭から人を食ってる。

フォックスはテレビの登場人物であり、まだ死んでいない。でもまもなく死ぬだろう。彼女はテレビ番組『図書館』の登場人物である。あなたは『図書館』を観たことがないが、観てみたかったなあと思うことだろう。

「観てみたかったなあと思うことだろう」って、いきなりですね。この時点ではまだ「何のことかさっぱり」ですが、このあと徐々に『図書館』という番組がどういうものかがわかってきます。例の情報小出しパターン。
15歳の少年ジェレミーはテレビ番組『図書館』の登場人物だだと宣言されて、物語は始まります。ジェレミーの母親は図書館員で、父親はホラー作家です。2人は目下、仲たがいの最中。ジェレミーには、いつもつるんでる4人の友人がいます。彼は、そのうち2人の女の子エリザベスとタリスにもやもやとした恋心を抱いている。友人のカールはそれが面白くない。彼らはそれぞれユニークなキャラクターの持ち主なんですが、基本はごくごく普通のファミリードラマのような設定です。
ただし普通じゃないのが、ジェレミーの母親が遠い親戚から電話ボックスとラスベガスにあるチャペルを相続したということ。電話ボックスの相続なんて、聞いたことがありません。この本の表紙カバーに描かれているイラストは、それを描いたものでしょう。
そしてもう一つ。ジェレミーを含む5人の男の子と女の子は、みんなある共通のテレビ番組に夢中なんですよ。彼らは、録画した番組をみんなでくり返し鑑賞する。その番組とは…、なんと『図書館』です。

テレビ番組のなかの人たちはどういうテレビ番組を観るんだろう、とジェレミーはときどき考える。テレビの登場人物ってだいたいいつも現実の人物よりもヘアカットが高級だし、愉快な友人がいるし、セックスに対する姿勢は単純明快だ。彼らは魔法使いと結婚し、宝くじに当選し、ハンドバッグに銃を入れている女性と関係を結ぶ。彼らの身には一時間ごとに奇妙な出来事が起きる。ヘアカットはジェレミーも私もまあ許せる。私たちはただ、テレビ番組のことを訊きたいだけだ。

さあ、ややこしいことになってきました。「テレビ番組のなかの人たちは」って言ってるジェレミーも、実は「テレビ番組のなかの人たち」です。『図書館』を観るのを毎回楽しみにしてる、『図書館』の登場人物。このねじれた自己言及は、入れ子というか、クラインの壺ですね。どっちが外かわからない。
『図書館』の基本ストーリーは、組織に背いた図書館員であり女魔法使いフォックスが、世界を守るため様々な悪と戦うというもの。百階以上ある巨大な「〈自由民 世界の樹〉図書館」の各フロアで、ドラマは展開します。この図書館には、「アンジェラ・カーター記念公園」なんてものまである。これは、ケリー・リンクがカーターへのリスペクトをさりげなく表明しているってことでしょう。さらに、この巨大図書館の設定からは、ボルヘスからミルハウザーまで、いろんな作家の名前が連想されます。
この作品の中で、チラチラと『図書館』の各話のストーリーが紹介されていきます。それがいちいちヘンテコで面白い。

目下画面では、〈自由民 世界の樹〉図書館は夜である。図書館員たちはみな棺や刀の鞘(さや)や司祭の隠れ部屋やボタン穴やポケットや秘密の戸棚や魔法のかかった小説のページのあいだに収まって眠っている。月の光が、高いアーチ型の窓や書棚の通路を通って館内に注ぎ込み、そのまま公園に流れてゆく。フォックスは両膝をついて、泥んこの地面を素手で引っかいている。ジョージ・ワシントン像もかたわらで膝をついて手伝っている。

いいですねえ。鞘やボタン穴で眠る図書館員…。このでたらめなスケール感にわくわくします。こんな番組があったら、僕も観たい。穴掘りを手伝うジョージ・ワシントン像というもの可笑しいですね。
さらには他の場面でも、「剣の戦いアレルギー」によって起こるくしゃみ、蔵書カードの引出しの暗闇で展開するドラマ、魔法をかけられ楽器と化したバスタブなどなど奇想がてんこ盛り。ケリー・リンクは、こういうアイディアを惜しげもなく投入してくるんですよ。この密度の濃さに、くらくらします。
また、『図書館』という番組自体も謎めいています。決まった時間ではなくゲリラ的に流される海賊放送らしく、スタッフや俳優も何者かがまったくわからない。番組の合間には、見たこともない飲み物のCMが流れます。番組のファンたちは、ネットで情報交換をしてその全貌を掴もうとするけど、どうにもわからないことだらけです。それがまた、みんなを夢中にさせるんでしょう。

ジェレミーは言う。「電話ボックスに電話したんだよ、相続したやつにさ、そしたら誰かが出て。その人フォックスみたいな声でさ、言ったんだよ。またあとでかけてくれって。それでそのあと何度かかけたんだけど、二度と出ないんだ」
「フォックスは実在の人間じゃないよ」とタリスは言う。「『図書館』ってただのテレビだよ」。でもその声は自信がなさそうだ。これが『図書館』の不思議なところだ。誰もはっきりとはわからないのだ。観る誰もが、これがただの演技でないことを願ってしまう。それが魔法であること、本物の魔法であることを。

夢が現実だったらいいのにという感覚は、小説でもテレビ番組でも映画でも、フィクションを愛する人ならよくわかるでしょう。このあたりは、ジーン・ウルフの「デス博士の島その他の物語」を思わせます。
そして、「ああこれは、青春小説なんだ」と気づく。ジェレミーの前には、大人になることのややこしさが立ちふさがっています。ケンカをしてお互い口をきこうとしない両親、セックスが入ってくるとぎくしゃくしちゃう友情…。魔法があったらいいのにな。
この作品は、そんな少年の通過儀礼の物語として読むこともできます。世界を変えるためには眺めているだけじゃダメで、その中に入っていかなければならない。その方法が、現実を変えるために「ファンタジーを切り捨てる」のではなく、「ファンタジーの中に入り込んでいく」というものであることに、グッときます。テレビを観る側から、テレビの中へ。大丈夫、ここはクラインの壺。中に入っていってぐんぐん進んでいくうちに、気づけば外に出ているはずです。


「しばしの沈黙」
地下室でカードをしながらビールを飲んでいる冴えない中年男たち。彼らは仕事にあぶれ夫婦関係も煮詰まり気味。仲間とこうして集まっては、しょうもない話をしてばかり。例えば、こんな感じです。

新しい住みかは見つかったか、とブレナーがエドに訊く。イエス
「ハイウェイをテキサコのところで降りた、果樹園のなか。誰かが自分で道路を作って、道路の上に家を建てたのさ。まるっきり、もろど真ん中に。なんて言うか、家をしょって道路歩いてきて、疲れたからそこにどさっと降ろしました、みたいな」
「あんまりいい風水(ふうすい)じゃないな」とピートが言う。

しょってきた家を降ろしたという比喩が面白いですね。まるでお伽話の世界です。それに対しての反応も可笑しい。「あんまりいい風水じゃないな」。いやいや、道の上にある家なんて風水以前の話でしょう。
やがて彼らは、テレクラに電話をしてみることにします。暇だなあ。ちなみにそのテレクラはちょっと変わっていて、セクシーな話題じゃなくても、頼めばお話を聞かせてくれるらしい。

エドは言う、「じゃあ君、俺にお話をしてくれるの?」
スターライトは言う、「そのためにあたしここにいるのよ。でもたいていみんな、あたしが何着てるか知りたがるけど」
エドは言う、「チアリーダーと悪魔の話が聞きたい」
ボーンズが言う、「で、何着てるんだい」
ピートが言う、「終わりからはじまりに進む話がいい」
ジェフが言う、「何か怖いもの入れろよ」
アリバイが言う、「セクシー」
ブレナーが言う、「善と悪と真(まこと)の愛をめぐる物語であって、かつ笑える物語がいい。喋る動物とかはお断り。語りの構造は凝りすぎないように。結末はハッピーエンドであるべきだが同時にリアリスティックで信憑性がないといけない。教訓にまとめるのはよくないが、あとで思い返してアッそうだったのかと啓示が訪れるのが望ましい。そして突然目覚めてすべては夢でしたっていうのもなし。わかった?」
スターライトは言う、「オーケ。悪魔とチアリーダーね。わかった。オーケー」

お題は「悪魔とチアリーダー」だとか、「喋る動物」や夢オチはNGだとか、暇なおじさんたちは、やたらと注文多します。ちなみに、「語りの構造は凝りすぎないように」っていうのは、ケリー・リンクにはあてはまらないですね。この作品の構造はかなり複雑で、またしてもお話の入れ子構造になっています。いや、これもやっぱりクラインの壺かな。「マジック・フォー・ビギナーズ」中年版。
さらに、「終わりからはじまりに進む話」というのも輪をかけたややこしさです。この作品では、逆回転のモチーフがくり返し出てくるんですよ。これはもちろん、彼らがどこかで人生の逆回転を望んでいるということでしょう。煮詰まっちゃった彼らは、この先の未来に希望が見出せないんですよ。

チアリーダーは言う、「これからもっとよくなるわよ」。

逆回転の世界では、死から始まり誕生へと向かっていきます。どん詰まりの未来じゃなくて、可能性に満ちた過去へ。もちろん現実にはそんなことはあり得ませんが、お話の中ならばそれができる。
「じゃあ君、俺にお話をしてくれるの?」「じゃあ僕にお話をしてくれよ」「あなた、お話してくれないかしら」…。この作品では、誰もがお話をせがみます。すべての可能性が開かれたお話の「はじまり」は、逆回転世界におけるハッピーエンドなのかもしれません。


ということで、『マジック・フォー・ビギナーズ』読了です。大満足。