『マジック・フォー・ビギナーズ』ケリー・リンク【1】


マジック・フォー・ビギナーズ (プラチナ・ファンタジイ)

ミランダ・ジュライは、面白いけど乗りきれない部分もあったりしたので、別の女性作家の短編集に再度チャレンジします。
前回予告した通り、
『マジック・フォー・ビギナーズ』ケリー・リンク
です。
ケリー・リンクは、以前読んだ第一短編集『スペシャリストの帽子』が、すっごくよかったんですよ。わけがわからないのにその独特の世界に持ってかれるというか。このサイトではこれまで、エイミー・ベンダーミランダ・ジュライと、現代アメリカの女性作家を読んできましたが、その中ではケリー・リンクが最もポップで最もヘンテコ。一番僕好みです。
『マジック・フォー・ビギナーズ』はそんなケリー・リンクの第二短編集。全9編収録で、翻訳は柴田元幸。これは楽しみです。
では、いきましょう。


「妖精のハンドバッグ」
邦題を見ると、「精」の漢字の代わりに旧字が使われています(PCでは出ないのでここでは「精」のまま表記してます)。これ、原題は「The Feary Handbag」となっています。「Fairy=妖精」の綴り違いをそのまま使ってるんですが、この原題のちょっとした違和感を翻訳にも活かしてるわけ。柴田さん、芸が細かいです。
さて、本編です。主人公の祖母ゾフィアが持っていた不思議なハンドバッグについてのお話。これ、ケリー・リンク作品の中では、わりとわかりやすいほうですね。お話としての骨格が、しっかりしているというか。SF作品の賞で三冠に輝いてるし、この作品集の入口にふさわしい短編じゃないかな。

こんな話、誰も全然信じないことはわかってる。それで構わない。これを読んでいるあなたが信じると思ったら、こんな話できるわけない。約束してほしい、こんな話、一言も信じないって。ゾフィアも何か話を聞かせるとき、あたしによくそう言った。お葬式の日、あたしの母親は、半分笑って半分泣きながら、私の母さんは世界最高の嘘つきだったわよと言った。

この作品は、ティーンの女の子の一人称で語られています。いきなり読者に喋りかけたりしてますが、読み始めて3ページのこの時点では、まだどんな話かさっぱりわかりません。でも、どうやらこれから信じられないことが語られるらしい。なかなか、気をもたせますね。
こういう場合、たいていは「どうか信じてほしい」って言いそうなもんですが、このお話では逆なんですよね。「約束してほしい、こんな話、一言も信じないって」。何故そんなことを言うのかちょっと引っかかりますが、このねじれがのちのち効いてきます。
それにしても、ケリー・リンクは情報を小出しにするのがすごく上手いですね。あっちこっちに話題が飛ぶ女子語りそのまんまに、断片の中に気になるフレーズをちりばめられている。そしてその意味が、後になってわかってくるという…。おそらく「語り」に意識的な作家なんだと思います。

そこで女シャーマン=司祭はさらに占いを続け、その結果丘の下に住む人々から、黒い犬を一匹殺して皮を剥ぎその皮を使って鶏一羽、卵一個、鍋一個が入るハンドバッグを作るよう指示された。彼女が言いつけに従うと、丘の下の人々はそのハンドバッグの内部を広げて、村人全員、丘の下の人々全員、すべての山、森、海、川、湖、果樹園、空、星、霊、伝説の怪物、海の妖女、竜、木の精、人魚、獣、そしてバルデツィヴルレキスタン人と丘の下の人々が崇拝するささやかな神々みんなが入れる広さにした。

これが、祖母ゾフィアの大切にしている妖精のハンドバッグ。「鶏一羽、卵一個、鍋一個」と妙に具体的なところは、いかにも昔話という感じです。この話を女の子は「世界最高の嘘つき」であるおばあちゃんから聞かされた、というわけです。
ほら吹き話によくあるスケールの混乱が面白いですね。村がすっぽり収まるなんて、まるで四次元ポケットです。村だけじゃありません。この書き方だと、世界がまるごと入っちゃいそうです。あと、「伝説の怪物」や「神々」までバッグに入るというのも面白い。何というか、不思議の入れ子みたいな妙な感覚があります。
バッグの不思議はこれだけではありません。皮を剥がれた黒犬はどうしたのか、バッグの中の人々の娯楽は何か、そして祖母ゾフィアは何故片時もバッグを手放さないのか。詳しくは書きませんが、このへんの話もいちいち面白い。まさに、センス・オブ・ワンダー
こうしたファンタジックなお話に、語り手の女の子のラブストーリーが絡んできます。「とにかくキスはスポーツの勝負みたいであってはならないと思う。テニスじゃないんだから」なんていう、キュートなセリフが出てきたりして、これもなかなか甘酸っぱくていい感じ。
やがて、小出しにされてきたパズルのピースが、徐々に揃っていきます。ハンドバッグをめぐる事件も、女の子の恋の顛末も、核心へと迫っていく。

男がどこか遠くへ行って冒険をして、そのあいだ女の子は家にいて待ってなきゃいけない類の映画や本って嫌い。あたしはフェミニストなのだ。(中略)だからそういうクソ話なんか信じない。

ハンドバッグが祖母の手から孫娘へと移るとき、それにまつわる物語もまた手渡されます。祖母から聞かされた話を、今度は孫娘が誰かに語って聞かせる。だから、この作品は一人称で語られているんですよ。つまり、「物語ること」についての物語になっている。
それだけではありません。「クソ話」にならないように、彼女は自分で物語を作り変える。そのとき、祖母の物語は、孫である彼女自身の物語となって甦るのです。さあ、今度は彼女が、「世界最高の嘘つき」になる番です。


「ザ・ホルトラク

エリックが夜で、バトゥが昼だった。女の子のチャーリーは月。

え、何のこと? これ、冒頭のフレーズですが、実はコンビニバイトのシフトです。エリックが夜間勤務で、バトゥが昼間勤務というわけです。チャーリーはコンビニを訪れるお客で、動物シェルターの夜勤で犬の殺処分を担当しています。
エリックとバトゥは、在庫品室で寝起きしこのコンビニで暮らしています。しかも、このコンビニは普通のコンビニじゃありません。一般客のほかに、すぐ近くにある「聞こ見ゆる深淵」から出てきたゾンビたちが訪れるんですよ。映画『ゾンビ』では、ショッピングモールにゾンビが押し寄せていましたが、21世紀には彼らはコンビニにやってくる。この設定だけで、もうかなりそそられるものがあります。
このゾンビたちは、特に襲ってくることはありません。買い物をするだけ。ただしゾンビなので、それが買い物として成立しているのかはよくわかりません。彼らが話すことも、「ガラスの脚。一日じゅう女房に乗って走り回った。ラジオで私を聞いたことがありますか?」とかなんとか、まったく意味がわからない。
エリックとバトゥとチャーリーの微妙な三角関係を縦糸に、奇妙なコンビニの様子を横糸に物語は展開していきます。そこに積み上げられていく不条理なディテールがすごく面白い。例えば、バトゥのパジャマ。彼は、コンビニのどこに仕舞ってあるんだろうというぐらいたくさんのパジャマを持っています。しかも、そのパジャマの柄が狂ってる。

バトゥのパジャマのズボンは絹だった。パジャマにはニコニコ笑ってる水頭症の漫画猫たちがいて、猫はみな口に人間の子供をくわえていた。人間の子供が鼠サイズなのか、猫が熊サイズなのか、どちらかだった。人間の子供たちは悲鳴を上げているのかゲラゲラ笑っているのか、どちらかだった。パジャマのシャツの方は赤いフランネルで、色あせていて、ギロチンと、籠に入った首があった。

何これ? 「水頭症の漫画猫」? 奇妙すぎます。しかも「籠に入った首」とか血なまぐさい。こんなの着てたら悪夢を見そうです。この他にも何度も出てくるパジャマの描写は、いちいち変で可笑しいです。

菓子コーナーを「噛み応え」と「溶け具合」に従って再編することにバトゥは多大の時間を費やしていた。前の週には、すべての菓子の頭文字を左から右に読んでいってそれから下に降りていくと『アラバマ物語』の最初の一文になってそれからトルコ語の詩の一行になるように並べ替えた。月がどうこうという詩だった。
ゾンビたちは出入りを続け、バトゥはメモ帳をしまった。「ジャーキーとシュガー・ダディを並べることにするよ」とバトゥは言った。「ジャーキーってほとんど菓子みたいなもんだものな。すごく噛み応えもあるし。これ以上はないってくらいの噛み応えだよ。噛み応え満天のミート・ガム」
「泡立ち満天ミート・ドリンク」とエリックも反射的に答えた。二人はいつも、絶対誰も買いたがらない、絶対誰も売ろうとしない商品のことを考えていた。

商品棚の並びも変です。「噛み応え」と「溶け具合」って…。この他にも「べたつくもの」「吐き出すもの」なんていうコーナーがあったりします。ゾンビ向けの区分、ってことなんでしょうか?
「泡立ち満天ミート・ドリンク」も可笑しいですね。これは、エリックのジョークでしょうけど、マックシェイクの肉バージョンみたいなものかな。想像するだけで気持ちの悪いお菓子です。「誰も買いたがらない」なんて言ってますが、ゾンビなら喜ぶかもしれません。
こうした奇妙なディテールから伝わってくるのは、このコンビニが世界から切り離されているという感覚です。僕らの知っている理屈とは違うルールで動いている。その根本的なルールは、最後まで謎めいたままです。でも、わけがわからないからこそ、エリックとバトゥの暮らす閉鎖空間の居心地のよさと孤独が、じわーっと伝わってくる。
そもそもコンビニとはそういうものかもしれません。かくして、僕らもゾンビも、コンビニのぽつんとした明かりに惹きつけられてしまうのです。


「大砲」
これは、わずか9ページのQ&A方式の作品。訳者の柴田元幸は、解説でドナルド・バーセルミからの影響を指摘しています。ああ、バーセルミ、読み返したくなっちゃうなあ。

Q そして誰が大砲から発射されるのですか。
A 私の兄が大砲から発射されるでしょう。

Q 大砲は幸福な幼年時代を送りましたか。
A 昔むかし、まだすべての戦争のケリがついておらず、大砲の火砲にまだほかの使い道があったころ、大砲を愛した砲手長がいました。どこへ行くにも、彼は大砲を連れていきました。(中略)老いて財を成し戦争に行くのも倦(う)むと、砲手長はリビエラに隠居して城を建てました。そして大砲と結婚し、彼女が貴婦人に見えるよう砲口に白い絹のボンネットを結びました。日曜日には妻を元騎兵隊の馬四頭につないで礼拝堂まで連れていきました。

うふふ、またしても不条理。あれこれ説明するのも野暮なタイプの作品ですね。このヘンテコさを楽しめばいいんじゃないかと。このあと途中で、いきなり第三者が現われるところは、Q&A方式を逆手にとった展開でびっくりしました。やるなあ、ケリー・リンク


というところで、今日はここ(P91)まで。どちらかと言えば天然系のミランダ・ジュライに比べると、リンクは理知的という感じがします。しかも奇想の飛距離が大きい。やっぱ好きだなあ、こういうの。