『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ【2】


残りの8編を読み終えました。前半同様、イタイ人たちが次々と登場します。ちょっと対処に困るけど、身近なところにもいるかもしれない、そんなタイプの人たち。
では、いきましょう。


「わたしはドアにキスをする」
2年間だけしか活動しなかったバンドのボーカルだった女の子のことが、もう一人の女性の目から語られます。ちなみに彼女が歌うのは、こんな歌。

あの人は まるでドアみたい
あの人の肌は まるでドアの味
あの人に キスをするとき
わたしはドアに キスするの

外につながるドア、それが恋人だということでしょうか。しかし、彼女のこのドアは家の内側につながっていたんじゃないか、というお話。


「ラム・キエンの男の子」
家から27歩先までしか離れられない女性の話。原因はわかりませんが、引きこもり的なことかもしれません。その27歩目のところで立ちつくす彼女は、向かいの「ラム・キエン美容室」の男の子と知り合います。

もしかしたらこの子は私に嘘をついた罪で刑務所に入れられるかもしれない。私は彼のはいているすごいスニーカーを見て、この子ならきっと大丈夫だ、と思った。私はだめ。スポーツウェアを自然な感じに着こなせたためしがない私みたいな人間は、牢屋なんかに入ったらすぐに死んでしまう。

スポーツウェアが似合わないタイプの人って、確かにいますね。「自然な感じ」というのがポイントです。男の子ののびのびとした屈託のなさと対称的に、彼女は自分の振る舞いや身体を上手く把握できない。どこかちぐはぐになってしまう。「自然」は、意識した途端に自然じゃなくなっちゃうんですよね。そんな彼女だから、外へと歩き出せないんでしょう。ああ、なんてやっかいな自意識。


「2003年のメイク・ラブ」
まず、冒頭がすごく可笑しいです。

〈メイク・ラブ in 2002〉。居間のクッションにはそう刺繍されていた。カウチの反対側のクッションには〈メイク・ラブ in 1997〉、こっちはブルーで、まわりにフリルがついていた。きっと他にもあるのだろうけれど探さないようにした。今年のを見たくなかったし、なかったらなかったで理由を知りたくなかった。二人であの人の帰りを待ちながら、奥さんはわたしに当たり障りのない質問をした。

他人の家でこんなクッションを見つけたら、ちょっと微妙な気持ちになるだろうなあ。気になっちゃうけどそのことには深入りしたくないというか。ファンシーでくるまれた中に生々しいものがチラついて、扱いづらいんですよ。できれば、最初っから見ずにおきたかった。
二人が帰りを待っていた「あの人」とは、大学で創作を教えている指導教官です。語り手の女性は、その講座で自らの実体験を元にした小説を書いていたとか。で、ちょっと褒められたもんだから、自分の作品を見せに彼の家までやってきたというわけです。どうやら思い込みの激しいタイプのようです。
しかも彼女の小説は、10代の頃に宇宙生命体と恋をして情事を重ねていたがやがて別れてしまったというもの。うーん、これが実体験というところがイタイです。メイク・ラブのクッションよりも、扱いづらい。もっと言ってしまえば、それが彼女の妄想かもしれないというのも困りものです。そのへんは僕らの解釈次第ですが、彼女の話を素直に受け止めづらいことは確かです。
ミランダ・ジュライ作品の主人公たちは、みんな他者を強烈に求めています。それが宇宙人だろうが、年下の少年だろうが関係ありません。誰かと愛し合いたい、誰かに必要とされたい。でも、それはなかなかかなえられない。

行き先がはっきりしないまま車を運転していると、運転しているという実感がわかないものだ。自動車にはオプションで、1か所で足踏みしていられる機能をつけるべきだと思う。水の上も走れる機能みたいに。それが無理なら、せめてブレーキランプの間にもう一つランプをつけて、どこにも行き先がないときに点滅させて、周りに知らせるようにしてほしい。このままだと他のドライバーたちをだましているみたいで、ちゃんと正直に申告したかった。

「1か所で足踏みしていられる機能」というのは面白いですね。移動の手段である自動車は、立ち止まることを許してくれない。でも、ちょっと足踏みさせてよ、というときだってあるんですよ。もうわかんなくなっちゃったわ、ちょっとここにいさせて、みたいな。
誰かと愛し合いたい、誰かに必要とされたい。でも、それはなかなかかなえられない。彼女はラストシーンで、思いっきり足踏みしたあと、また歩き出そうとします。これはちょっといいですね。まったく関わりがないはずの他人にだって、僕たちは生かされることがある。最後の一文から、そんなかすかな希望が伝わってきます。


「十の本当のこと」
主人公は会計事務所で働く女性。彼女は、いつも電話をかけてくる上司の奥さんに興味を持ち、奥さんの通う裁縫教室に参加して親しくなろうとします。たまたま生地屋で見かけた奥さんを、「ネイチャー系のドキュメンタリー番組で、カメラにすこしも気づかずに動きまわる野生動物を見るように」見つめたり。まあそういうこともあるかもしれませんが、ちょっとストーカーじみてますね。

でも彼女とわたしは、ツタがあいている場所に向かって伸びていくようにして伸びていった。彼女のなかには、わたしのための場所がある気がした。拒絶しようと思えばできるタイミングがあっても、彼女はそうしなかった。彼女は自分からは何も訊いてこないかわりに、逃げもしなかった。わたしが他人にまず求めるのはそれだった。逃げないこと。足元に赤いカーペットを敷いてあげないと友情関係に踏みだせない人というのはいる。周りじゅうから、いくつもの小さな手が自分に向かって木の葉みたいに差し伸べられていても、その人たちにはそれが見えないのだ。

伸びていくツタの比喩は、ミランダ・ジュライの作品のほとんどの主人公たちに当てはまります。みんなそうやって手を伸ばす。でも本当は、「足元に赤いカーペットを敷いて」欲しいのは、彼女たちのほうかもしれません。そのことが、ヒリつくような切実さにつながっているんじゃないかと。


「動き」
わずか2ページの掌編。父親から「女の人をイかせるための指づかい」を教わった女性の話。ミランダ・ジュライの作品には、こうしたジェンダーのゆらぎがいつも背後にあるような気がします。


「モン・プレジール」
倦怠期の夫婦。「おっぱい飲み」と呼ばれる夫婦での疑似性行為からもわかるように、この夫婦はお互いが一人相撲をすることに慣れちゃってます。でもそれじゃあ満足できないと、彼女は「次の段階」を目指します。

大通りに出て、学生がよくたむろしている流行りのカフェに入った。財布を持ってこなかったので何も頼めなかったけれど、トイレは使った。便器を使い、トイレットペーパーを使い、石鹸を使い、水を使い、ペーパータオルを使い、トイレで使えるものはすべて使った。トイレを出て壁の掲示板を眺めた。貼りだされているチラシのなかには、下の方をちぎって持ち帰れるようになっているのがいくつもあった。それもタダだったので、全部を一枚ずつちぎった。

いいですねえ。ちょっとだけ大胆。「トイレで使えるものはすべて使った」「全部を一枚ずつちぎった」というささやかな過剰さから、彼女が変化を痛切に望んでいることが伝わってきます。
そして、そのチラシから、映画のエキストラに夫と一緒に応募することになる。彼女にとって、これが倦怠期を乗り越えるためのチャレンジなんですよ。このあたりは、コミカルでなかなか面白いです。
でも、現実は映画じゃないんですよね。撮影中の幸福な無言のやり取りが、撮影が終わったあとには沈黙地獄に変わってしまう。エキストラの経験はなくても、こうした変化は身に覚えがある人多いんじゃないかな。楽しく旅行をしてきたのに、帰ってきた途端、日常に決定的なものが欠けていることに気づく、とか。
最終的に、彼女は自ら選んだ変化を受け入れます。それがどんなに辛い結果になろうとも、自らのジャンプを受け入れ次の段階へ進むのです。


「あざ」
顔にあざを持つ女性の話。

彼女は飛行機が離陸するように、トランスから脱した。さっきまであざの内側にいたのが、今は高いところからそれを見ていた。あざはまるで湖のようにどんどん小さくなり、やがて広大な大地の中のちっぽけな点になった。パイロットはそれを懐かしみ、その上をしばらく旋回するけれども、おそらくもう二度とそこに着陸することはない。彼女はトイレットペーパーをからからと引き出し、鼻をかんだ。

こういう表現が、ミランダ・ジュライの作品にはたびたび出てきます。内面における認識がそのまんま世界に直結しちゃうというか。それが僕には、他者との関係をクッションとすることができず、剥き出しで世界に向きあわざるを得ない、ということのように思えます。それはしんどいだろうなあと。


「子供にお話を聞かせる方法」
ケンカばかりしている友人夫婦の娘を何度も預かるうちに、主人公の女性とその女の子は親密な関係を築いていきます。この女の子の口調が魅力的です。岸本佐知子さんの訳がいいのかな。例えば、主人公の失恋についての会話。

わたしがあっちを振ったのよ。
もっといっぱいフレンチキスをしなくちゃいけなかったのかもよ。
そういう問題じゃないの。
じゃ、一日に何回キスしてたか言ってみて。足りてたかどうか言ったげる。
四百回。
足りなあーい。

「足りなあーい」がいいです。かわあいーい。でもこの子、かなりおませさん。家族関係がこじれている家の子供は、早く成長するんでしょうね。高校生になるころには、主人公にオナニーについてのジョークを飛ばすようになったりします。
でも、こうした関係はいつまでも続きはしません。最初のキャッキャした楽しさはどこへやら、あるポイントを境に、あんなになついていた子が素っ気ない態度を取るようになる。この短編が作品集の最後っていうのは、ちょっとエグいですね。うへえ、という気分を抱えたまま終わります。


孤独ってのは非常にやっかいで、下手に扱うと嘘くさい癒しにつながりかねない。でも、ミランダ・ジュライは癒そうとしないんですよね。それが読んでいて刺激的でもあり、しんどくもある。そんなタイプの作品集でした。
ということで、『いちばんここに似合う人』読了です。