『いちばんここに似合う人』ミランダ・ジュライ【1】


いちばんここに似合う人 (新潮クレスト・ブックス)
友人がブログで感想を書いていたので、ならば僕も、ということで読んでみることにしました。
最近出たばかりの話題の海外文学のこれ、
いちばんここに似合う人ミランダ・ジュライ
です。
作者のミランダ・ジュライは、ロサンジェルス在住。カンヌでの受賞歴もある映像作家で、パフォーマンスアーティストでもあるという、マルチな才能を持つ女性です。『いちばんここに似合う人』は、そんな彼女の初の小説作品となる短編集。
翻訳は、エッセイもべらぼうに面白いという岸本佐知子。「変愛小説」に鼻が利く岸本さんの訳した作品というだけで、きっとヘンテコな小説なんだろうなと思われます。ヘンテコ大好き! ということで、全16編中前半のひとまずざざっと半分まで読んでみました。


「共同パティオ」

ヴィンセントは共同のパティオにいた。このパティオについて説明しておくと、ここは共同のスペースだ。ヘレナとヴィンセントのところの勝手口から直接行けるようになっているので、ぱっと見には彼ら専用のパティオのように見える。でも引っ越してきたとき、大家さんはわたしにパティオは一階と二階の共用だと言った。私は二階に住んでいる。遠慮せずに使ってくださいよ、同じだけ家賃を払ってるんですからね、そう大家さんは言った。ただ、ヴィンセントとヘレナにも同じことを言っているかどうかはわからない。わたしは自分にも権利があることを主張するために、たまにパティオに自分のものを置いておく。靴とか、一度はイースターの旗を置いてみたこともある。それからなるべく彼らと同じ時間だけパティオで過ごすように心がけている。そうすればどちらか一方だけが損するという事態を避けられるから。二人がパティオにいるのを見かけたら、わたしはカレンダーに小さい印をつけておく。そしてつぎにパティオに誰もいないときに、行って座る。そしてカレンダーの印を×で消す。たまに大幅に遅れをとって、月末近くにせっせと行って座らないと追いつかなくなることもある。

共有スペースを交互に使うというのは、ごくごく普通にある話でしょう。でも、語り手である主人公の女性は、こだわる箇所をちょっと間違えてる感があります。月末に遅れを取り戻そうとするあたり、生真面目すぎるというか、目的が変わっちゃってる。しかも、そんなこだわりを彼女が持っているということを、同じアパートの住人であるヴィンセントたちは知りません。彼らがパティオにいないときにしか彼女は現われないので気づくわけがないんですが、これじゃあ彼女の一人相撲です。
せっかくヴィンセントとお喋りをする機会が訪れても、自分の話ばかり延々喋り続ける彼を見て、彼女はうんざりしてしまう。「まるで休みの日に急に仕事をするはめになったみたいな気分」。そのくせ、妄想のなかでヴィンセントと甘い会話を交わしたりします。
同じアパートにいても、同じパティオにいても、一緒に会話をしていても、まったく別の方角を向いている。彼女の一方通行っぷりを読んでいると、世の中はなんて不均衡なんだと思います。バランスを欠いた世界。
この作品では、ところどころに「人生へのアドバイス」風の文章が挿入されています。一風変わった自己啓発セミナーみたいな、落ち込んでいる人への励ましの言葉たち。これが何なのかは伏せておきますが、最終的に浮かび上がってくるのは、そうしたアドバイスを本当に必要としている人へ届けることは難しい、ということです。ここにも、人生の不均衡がぱっくりと口を空けている。でも、それでも手を伸ばさずにはいられない、そんなお話。


「水泳チーム」
これは、すごく気に入りました。今回読んだ中で、一番好き。田舎町で暮らす女性が、偶然知りあった三人の老人に水泳を教えるという話。

わたしは高校のときに水泳部に入っていたことや州大会にまで出たこと、でもビショップ・オダウド校っていうカトリックの学校に、はやばやと負けてしまったことや何かを話した。三人は本当に、すごく興味深げにその話を聞いていた。わたしはそれまでこんなの話のうちにも入らないと思ってたけれど、急にものすごく波瀾万丈で、ドラマや塩素や、その他エリザベスとケルダとジャックジャックが見たことも聞いたこともないいろんなものであふれた、すごい物語であるような気がしてきた。

ああ、いいなあ。さりげなく出てくる「塩素」がすごくいい。人生の中で塩素の占める割合は、普通そこまで多くはないでしょ。でも、彼女にとっては塩素もまた人生の一部なんですよ。そしてそのことを、彼女自身がここで初めて発見している。水泳を知らない三人の老人、エリザベスとケルダとジャックジャックのおかげで、彼女の高校時代は「すごい物語」へと変わるのです。
このあと、彼女は老人たちの水泳コーチになります。ただし、この町にはプールはありません。なので、ぬるま湯を張ったボウルを使ってエア水泳で練習をする。でも、そんなことに意味があるんでしょうか? そもそも80過ぎの老人に、水泳を教えたところで何になるんでしょう?
いやいや、こんな意味のない行動にも、僕らは喜びを感じられるんですよ。彼女の高校時代が「塩素」やその他諸々に満ちあふれていたように、この水に入らない水泳チーム練習もまた、ボウルやキッチンの床や口で奏でる効果音などであふれている。そうした一つひとつのディテールが、人生を満たしていく。
ただ切ないのは、これが回想という形で語られていること。それは既に失われてしまった時間なのです。だからもう一度彼女は言ってもらわなければならない。かつての三人の老人たちがそうしたように、それはとても魅力的な「すごい物語」だと。この作品の最後の一節は、胸を打ちます。ユーモラスだけど切ない、独特の余韻が残ります。


「マジェスティ」
英国のウィリアム王子との性行為を妄想する女性の話。現実の彼女は、セックスに縁のないタイプのようです。つまり、これまた彼女の一人相撲。
このあともちょいちょい出てきますが、一人相撲はミランダ・ジュライ作品の登場人物の大きな特徴だと思います。彼女たちのおかしな行動や妄想は、誰にも理解されない。でも、彼女たちは必死にその一人相撲を続けます。
彼女たちは奇人変人というほどぶっ飛んでいるわけでもなく、言ってしまえば「イタイ人」なんですよ。こういう人いるかもなあ、というキワキワの線を突いてくる。ミランダ・ジュライは、そうしたイタイ人の中にもそうなる必然性があるということを、描き出しているように思います。


「階段の男」

わたしが人からウザがられる要因は、おもに三つある。

留守電を折り返さない。
謙遜のしかたが嘘くさい。
右の二つのことを異常に気にしすぎるあまり、一緒にいる人たちを不快な気分にさせる。

ほら、「イタイ人」感たっぷりでしょ。自意識の罠にはまりこんじゃってる。たぶん、これら三つのことを異常に気にしすぎるあまり、一緒にいる人たちをさらに不快な気分にさせるのでしょう。


「妹」
これはなかなか可笑しい話でした。「われわれはしょっちゅう人から妹を紹介される」。独身の初老の男が、友人から妹を紹介されるところから始まります。でも、彼はその妹とニアミスするばかりで、一向に出会えない。だもんで、彼の頭の中で友人の妹への想像はどんどん膨らんでいく。

彼女、ブロンドか。
いいや黒髪だ。俺みたいな。
へえ、ブルネットか。
いや、そんなんじゃない。
いま自分で黒い髪だって言ったじゃないか。
ああ、だが俺の妹をそんな言葉で呼んでもらいたくないな。
ブルネットがか? それのどこが悪いんだ。
悪かないが、あんたの言い方が気にくわん。
たしかにそれは、彼女のことを毎晩想いながらせっせと両手を動かしている男の口から出る“ブルネット”だった。

面白いなあ。「男友達に妹を紹介する」ということの微妙な感じが、じわんと伝わってきます。僕には妹がいないんで正確なところはわかりませんが、自分の肉親が友人にとっての性の対象となるというというのは、なかなか対処しづらい気持ちになるんじゃないでしょうか。自分から紹介しておきながら、「あんたの言い方が気にくわん」って言っちゃったりして。
このあと、最後には意外な展開を見せます。でも、ない話じゃないよねと思わせるところが上手い。この作品集では珍しいハッピーエンドだと思います。


「その人」
うまくいかない人生は実は全部まやかしだった、そんな瞬間が「その人」に訪れます。でも、やっかいなのは「人生は本当はもっとずっといいものなんだよ」というメッセージを、僕らは素直に信じられないということです。すべてが自分に向かって微笑みかけている世界を、僕らは書き割りのようにしか感じられない。
これもまた自意識の罠でしょう。あのメッセージが本当だったらいいのに。でも、それこそペラペラのまやかしじゃないか。その間で引き裂かれてしまうんです。


「ロマンスだった」
ロマンス体質になるためのセミナーの話。この設定だけで、ちょっと「イタイ」ですね。ロマンス教室なんて、バカバカしいと思いますよ。でも、そこに通う人にだって、それぞれ切実な思いがあるわけで。

廊下を歩いていくと、テレサが椅子の横の床にぺたんと座っているのが見えた。よくない兆候だ。わたしたちが住むこの世界はつるつるすべる斜面で、ただ椅子に座り、お腹が空けば食べ、眠って起きて仕事に行ければそれで万万歳だ。でも誰だって一度くらい経験があるはず。椅子は人間が座るためにあるものだけれど、自分が本当に人間なのか、わからなくなってしまう瞬間が。わたしは彼女の横に膝をついた。彼女の背中をさすったけれど、ちょっと親密すぎる気がしてすぐにやめて、でもそれだと冷たい気がしたので、かわりに肩をぽんぽんと叩いた。これなら実際に彼女に触れている時間は三分の一だけで、あとの三分の二は、手は彼女に近づいているか彼女から離れているかのどちらかだ。でもそのうちに、だんだん難しくなってきた。「ぽん」と「ぽん」のあいだの間隔を意識しすぎて、自然なリズムがわからなくなってきた。なんだかコンガを叩いているみたいだ。そう思ったとたん、ついうっかり軽いチャチャチャのリズムを刻んでしまい、とうとうテレサは泣きだした。

このシーンは、素晴らしい。プツッと何かが切れちゃった友人を慰める主人公。「この世界はつるつるすべる斜面」という感覚も面白いんですが、そのあと肩を叩くうちにチャチャチャのリズムになってしまうというところが、とってもいいです。可笑しいような痛ましいような、どう捉えたらいいのかわからないシーン。人生には、名付けようのないこんな瞬間があるんですよ。
語り手の女性は、自然に友人を慰めるということができない。親密すぎる気がするとか、三分の一だけ触れているとか、あれこれ考えすぎるんでしょう。またしても自意識過剰。でも、わかるなあ。僕だって同じような場面に出くわしたら、自然に振る舞えるかどうかわからない。自然に振る舞ってるように見えるだろうか、とか考えちゃいそうです。
ややこしい話ですね。でもこの作品は、そんな滑稽で哀しいややこしさをまるごと受け止めているように思えます。二人がゆっくりと立ち直るシーンは、なんだかとてもあたたかい。語り手は、「それはロマンスだった」と言います。そう、肩を叩くチャチャチャもロマンスで、僕たちはときにロマンスが必要なんです。


「何も必要としないなにか」
家を出て友人と二人暮らしをはじめるレズビアンの女の子の話。

わたしたちはちょっとしたリフォームに取りかかっていた。部屋の中に地下室を作ろうとしていたのだ。ここのワンルームは狭いわりに天井は高くて、頭の上の空きスペースがいかにももったいなかった。でもピップに言わせると、ロフトなんてヒッピーくさい。そこで彼女が描いてみせたのが、地下室の――わたしたちの部屋は二階にあったのに――イメージ図だった。ふだんは上の天井の低いフロアで生活して、落ちこんだり引きこもりたい気分になったら、はしごを降りて地下室にこもる。冷蔵庫とかバスタブみたいな重いものだけ下にそのまま残しておいて、他はみんな上の階にあげてしまう。わたしたちの頭の中で地下室のイメージはばっちりできあがっていた。湿った、岩っぽいにおい。天井の隙間から上の階のあたたかな光が筋になって漏れてくる。おうちは頭の上だ。ごはんがわたしたちを待っている。

ものは言いようですね。それってロフトとどう違うんだ、と思いますが、彼女たちにとっては地下室なんですよ。こういう計画を立てているときが、一番楽しい。二人が同じ感覚を共有しているということが、主人公の彼女をうれしくさせる。具体的なイメージが、どんどん湧き出てくる。
でも、それは長くは続きません。やっぱり、違う方を向いていることがだんだん明らかになってくるんですよ。ああ、不均衡。ズレが広がっていく。
この作品は「ここが理想の世界なら、わたしたちは二人ともみなしごのはずだった」と始まりますが、彼女はついに一人になってしまう。みなしごと言うなら、これこそそれにふさわしい。でも、世界はつるつるの斜面で、滑り落ちてしまいそうです。最後に出てくる彼女のカウントダウンは、つかまるものを探してもがいているかのようで。


というところで、今日はここ(P128)まで。
ケリー・リンクみたいな奇想を期待していたんですが、ちょっと違いましたね。むしろ、エイミー・ベンダーに近い。孤独にならざるをえない人たちの、ひりひりするような切実さがあるというか。