『文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子』室生犀星【4】


はいっ、最後まで読み終えました。今回は、3パート目の3編、「三階の家」「香爐を盗む」「幻影の都市」と、最後の1編「しゃりこうべ」。3パート目は、都市を舞台にした怪奇譚という位置づけのようですが、これがいずれも薄気味悪い話ばかりで大満足。そうそう、怪談はこうでなくっちゃ。


「三階の家」
坂の中ほどにある三階建てのアパート。その三階に住む松岡という新聞記者が主人公。このアパート、一階は商店で二階は借り手がつかない空き部屋になっています。松岡は、内職で戦死将校の肖像画を描いている。最初に語られるこの設定が、もう既にちょっとイヤですね。彼の部屋は、死者の顔の木炭画で埋め尽くされているんですよ。
ある夜更け、松岡は二階に人の気配を感じます。坂の途中の家。一階でもなく三階でもない、宙吊りというか境界にある階、この中途半端さが怪異にふさわしく思えます。そして、この怪異の描写がいちいち巧い。いくつか挙げてみましょう。

二階を上りつめると、往来へのとっつきの硝子雨戸(ガラスあまど)が、鉄橋の電燈の余映で仄明(ほのあか)るかった、いつも見るのだが、今夜はそれがわけて際立って仄明るかった感じであったが、その腰硝子を横の方へ、北側の部屋の方へ何かかげが動いたように思われたが、よくあることで莫迦(ばか)なと思うた。しかし何か量(かさ)のある物かげであった。誇張して言ったら人かげであったかも知れない、――もう一歩、進んでいいうとその北側へ逃(のが)れた逃げ方、かげの動き方が非常にのろかったのが、松岡にもふしぎに思われた。

ほの明かりや薄暗がりが犀星怪談の魅力だと僕は思っているんですが、ここでもそれが登場します。巧いのは、いつもとちょっとだけ明るいこと。はっきりと意識されないまま、「ん?」と窓に目が留まるわけです。もう一つ、「かげの動き方が非常にのろかった」というのも怖い。速いよりも怖い。より「死」に近いというか、この世のものとは思えない感じがひたひたと伝わってきます。

そして自分の部屋へ這入ると初めて先刻の影が或る幽(かす)かな物音を引いていたことを瞭乎(はっきり)と思い出した。廊下の坂の上にたまった埃とも砂とも云えない細かなざらざらしたものの上を、強く、踏んで引いた一種のすれた物音であった。物音というよりも、どう言ったらいいか、西洋紙を幾枚も重ねたのを上の方の一枚を引いた、ああいう幽かな物音であった。

この物音の描写も気色悪い。ざらざらとした砂粒の感触は生理的にイヤな感じがするし、紙を引き抜くときの音という例えもすごく巧い。西洋のポルターガイストのように賑やかなものイヤですが、幽かな音というのも神経に触るんですよ。あれこれ想像する隙間が多いから、そこに恐怖が入り込む。そうなったら最後、もう気になって眠れない。

松岡はうつらうつらした時分に急に誰かが襖のそとに佇(た)っているような気がした。そして起き上ると、曾つて一度も覚えたことのない恐怖に充ちた気もちで、襖のそとを窺うた。誰かが佇って呼吸をしている、すくなくとも或る量のある肉体が、襖一枚の外にどっしりと、暗みを浴びながら部屋の内側を圧しているような気がして、息苦しいばかりの静かさであった。

ああ、怖い。今度は影も見えなければ物音もしません。でも襖の向こうに気配を感じる。これまた巧い表現だと思いますが、そこにある肉体の分だけ空気を圧されている感じ、見えないけど確かにいる。気配だから、目を閉じたり耳を塞いだりするわけにはいきません。やっかいなことに、逃れられない。
という具合に、何てことないストーリーなんですが、描写の力でずぶずぶと怪談の世界に引き込まれてしまいます。最後に、ちょっとした場面ですが僕がいいなと思ったしーんをもう一つ挙げておきます。

松岡は二階へめしめしと階段を下りはじめた。

めしめし! 木造の建物なのでしょう。この階段が軋む音は、印象深いです。みしみしよりも、湿った感じで。そして、松岡が二階で見たものは?


「香爐を盗む」
家を留守にして浮気をする夫と、それに気づきながらも何も言わない妻の愛憎劇。夫を送り出したあと、部屋でじとーっと待っている妻が恐ろしい。
犀星の比喩はいちいち巧みで、生理に訴えかけてくるものがあります。「海苔のような布片(ぬのきれ)」「女のやつれようの烈しさは(中略)細れきって精根もないそうめんのように小寂しく」「黒ずんだ分厚な唇はまるで一疋(ぴき)のいもりのように跳ね返って」「黒い大きなひらめのような影」「ねじ切れそうな白葱のような首すじ」などなど。中でも、ドキッとしたのがこんな比喩。

女は自分の室にかえると、ぺっとりと糊のように坐って、手を膝の上においてぼんやり何か考えこんだ。

糊のように座る! もちろん比喩ですが、腰から下が溶けて畳にべちゃーっとくっついているようなイメージが浮かびます。この妻は、家から外へは出ないんですよ。家にくっついちゃってる。だから足がなくなっちゃう。
そんな風にして家にじっとしている女が何をしているかといえば…

「わたしが毎晩こうしてあのひとのことを考えているうちに、だんだん痩せほそってゆくのだ。わたしはあのひとが毎晩出て行ってからのことをすっかり永い間見ている。あのひとはそれを知らない。わたしは見まいとしながらも引き摺(ず)られるように毎日あのひとのことを考えなければならないのだ。」女はそう思いながら、ふと一時に気のぬけたように踵(かかと)と踵の間におしりをおとした。

怖い怖いっ。いつも通り夫を送り出しながら、夫の外での行動について考えている。「見まいとしながらも引き摺られるように」考えてしまう。これはもう神経症でしょう。彼女の思いはどんどんエスカレートしてゆき、それに伴ってやつれていきます。それでも考えるのを止められない。いや、考えるというよりも「見ている」。後をつけたりするわけじゃないんですが、部屋にいながら「見ている」。

かの女はそのとき目を閉じて耳だけを澄ましていたのである。奇妙な下駄の音はすこしずつはっきりしてきて、坂のようなところを上ってきた。ふた側の新しい家並みも寝しずまっていて、男の黒ずんだ姿だけが闇のなかに、もっと暗い影をひいていた。「あそこの角は果物屋になって居り、となりが床屋になっている。床屋だけが寝しずまった通りに明るい電燈を道路に投げている。そこへ暗い影が浮き出た。男がいまそこを通ったのである。それから溝川(どぶがわ)のごぼごぼいう重い音がして、男がそこをそっと通ると、暗い小路をまがった。漆のような闇がつづいた五軒目の、ぼんやり点(とも)れた電燈にまざまざと格子戸がはまっている。……。」と考えが沈んだとき、がったりと音がした。女がびっくりして目をあけた。格子戸があいて男がかえってきたのである。
おんなはすっと立って玄関へでた。
「おかえりなさいまし。」

ひえー。自分の留守中に奥さんがこんなことを考えていたらと思うと、ゾッとします。このカメラで追うようなありありとした描写。目を閉じているのに逐一「見ている」。闇の中の影まで、見えちゃってるんですよ。しかも、平然と「おかえりなさいまし」って! おっかないです。
こんな妻だから、夫も気味悪がって余計に家を留守がちになります。そうなると、ますます外にいる夫のことを考えて妻はやつれていきます。もはや二人の溝は修復しがたく、女は夫にとってますます見知らぬもののようになっていく。でも、女から見れば夫は見知らぬものではなく、丸見えのものなのかもしれません。
最終的に陳腐な感想になっちゃって申し訳ないんですが、女の恨みは恐ろしい、というお話。


「幻影の都市」
主人公は、広告画に描かれた女性を見ては悶々としている冴えない男。彼は行き場のないリビドーを抱えながら、街をそぞろ歩きます。そして、通称「電気娘」と呼ばれる女を見かけ、魅かれていく。電気娘は、静電気体質ってことなのかな、体に「電気性」を帯びてるという不思議な女で、その容姿はこんな感じ。

かれの異常な、殆ど説明しがたい物好きはかの女に一瞥をあたえるごとに、その皮膚の蒼白さにぴたりと眼球を蓋(ふた)されたような悩ましさを感じるのであった。たとえば、その洋紙のような白みに何時もうっすりとあぶらぐんだ冷たそうな光は、形よく整った鼻を中心にして、鼻の両側から少しずつ蒼白さを強めて、最後の鼻のさきの方で、いつも一と光りつるりと往来の灯を反射しているのであった。ともあれ、これらの驚くべき、また多少気味悪い皮膚は、かの女の憑(つ)きもののように言われている電気性と一しょに、この界隈のひとびとから一種のふしぎな徴候として眺められていたのである。綺倆(きりょう)は決して悪くはない。ただ余りに鮮やかに白すぎる顔面に、あまりに生きのいい黒ずんだ目が翳(かげ)されていることで、なおよく見れば決して黒目が黒目ではなく、むしろ茶褐な瞳孔で、その奥の方に水の上に走るまいまい虫のような瞳が据(すわ)っていることが、なお彼女をえたいの分からない女としていた。 

この舐めるような描写! 彼の目が彼女の肌に鼻に瞳にぐぐーっと吸い寄せられているのがよくわかります。「うっすりとあぶらぐんだような」という言い回しや、「水の上に走るまいまい虫のような瞳」なんて比喩は、さすが犀星。見ている男の興奮した息遣いまでが伝わってきそうです。
それにしても「電気娘」って名前は、いいですね。「電気」というモダンなイメージが、都市化されていく東京のイメージと重なります。街並みに次々と街灯がともり出す。そして、そんな街の灯が彼女をいっそうなまめかしくさせる。
「電気娘」だけではありません。街で見るものすべてが彼のハートと下半身に火をつけてしまいます。見るもの見るものすべてが、彼のリビドーに拍車をかけるんですよ。

ひょいと見ると、かれの正面の××館の看板絵にもなまなましいペンキ絵の女の顔が、するどく光った短刀を咥(くわ)えて、みだれた髮のまま立っているのであった。その唇の紅さ、頬の蒼白さ、病的にばらばらに、かれの頬のあたりまで靡(なび)いてくるような髪の毛の煩(うるさ)さを感じながら、かれは飽くこともなく見つめたのである。かれは、そういう一切の光景のうちに、病みわずらうたかれの性的な発作がだんだんに平常のかれ以上のかれに惹き上げつつあるのであった。かれにとって、もはや一切の流旗や看板絵や、わずかに棄てられたアニタ・スチュワードや、鯉の胴体や、なやましげに紫紺の羽織をきた女や、下駄ずれの音や、しぶとく垂れている柳や、さてはそこにある交番の巡査のさびしげな赤い肩章まで、かれのからだに響き立てて、一種の花のようなむら咲きをはじめたのであった。それと反対にかれの顔面は荒んだような上乾きをしてゆき、悲しげな鼻翼の線を深めるばかりであった。

広告画、看板絵、女優の絵葉書のなどなど、現実で満たされない性衝動をメディアに託している。これは、都市化とリンクした感性のような気がします。江戸川乱歩の「押絵と旅する男」もそんな話だし、それが現代の「萌え」につながるのかも。ってところまでいくと、風呂敷広げすぎかな。ただ、この男の場合、巡査の肩章にまで悶々としてるわけで、かなり重症です。ムラムラしっぱなしで、もう大変。
この作品は、ストーリーよりもこうした当時の都市の風俗描写が魅力的です。まさに「都市の幻影」。そしてこの作品のクライマックスの舞台は、浅草十二階 ! 先ほどの「押絵と旅する男」にも登場する浅草にあった塔で、明治・大正期の東京を代表するランドスケープです。
浅草十二階と聞いただけで心踊るものがあるんですが、特に、主人公の男が十二階の段を降りながら自分の居場所を見失ってしまうシーンの、迷宮感にはゾクゾクさせられます。「三階の家」もそうでしたが、中途の階では現実と幻想の境界がぼやけてしまうのです。

かれはぎっしりしぎっしりと階段を下りながら思い悩んでいた。一つの階ごとに一人の番人がいて、卓子(テーブル)に向っていた。そのたびにかれは淋しい時計が静かな室内にときを刻んでいるのをきいた。(中略)ふしぎにこれらの階段の幾つつない入口から入口へと消えてゆくものが、昼となく夜となく打続くことで、誰も昇ったものがいないはずの階段を不意にきしませて、誰かがうしろから歩いてくるような気がして仕方がなかった。そうかと思うと、反対の階段からもぎしぎし昇ってくる足おとが微(かす)かにしてくるのであった。まるでそれは入れかわり立ちかわり、絶え間なく影燈籠のようにくるくると廻っているように思われるのであった。かれはしまいには幾つの階段を上ったり下りたりしているか分からなかったのであった。

今度は、「ぎっしりしぎっしり」ですか。こういう独特の擬音、巧いですね。階を下りるごとにくり返し現われる、番人・テーブル・時計は、まるでダンジョン! 同じ場所をぐるぐる回っているような、酩酊感があります。時計もテーブルも螺旋階段も円形・回転のイメージがあり、その環に囚われちゃったような気分というか。「ときを刻んでいる」なんて言ってますが、ここでは時間がループしてるんじゃないでしょうか。

三分の後かれは、とんと足の裏を小突かれたような気がした。気がつくとかれは、道路の上に立っていた。足のうらがしいんと脈打っていた。かれは、そのとき思わずふり仰ぐと、このふしぎな古い塔のドアがみな閉められはじめた。
その塔はあたかも四囲なる電燈の海にひたっているため、影というものがなく、呼吸(いき)をのんで立ちあがっていた。しかもかれが再び見あげたとき、ふらふら目まいがしそうになって一種の悪寒をさえ感じたのであった。

やっとのことで塔の外へ出る主人公。すると、止まってた時が動き出し、扉がいっせいに閉じられる。見上げる浅草十二階の描写が見事です。周囲の電燈に照らされ夜に濡れ濡れと立っている塔。今まで自分がいた建物が、あっという間に見知らぬものになるのです。


「しゃりこうべ」
これは、奇っ怪な短編。部屋の片隅、電燈の下に座っている人の話。この人物、家族を見守ってるような、支配下に置いているような、そんな存在のようです。そのうち骨になっちゃうんですが、それでも家族を見つめ続けている。
面白いのが、この人物はどうやら女性らしいということ。祖母が座って、家族の行く末をじーっと見ているわけです。古くからある日本の大家族の姿のようでもありますが、犀星はそれを「得体のしれないもの」として描いています。
このあたりに、犀星の女性観が出ているのかもしれませんね。女は謎であり異界と近しいものである。もっと簡単に言っちゃえば、「女はわからねえ」と、犀星は思っているフシがあります。実際、この作品集には、心の通い合っている男女は一組も出てこないんじゃないでしょうか。女が怪異を連れてくるか、この作品のように女そのものが怪異のように描かれる。
老婆でもしゃれこうべでも、生死の区別なく女は謎なんですよ。恐ろしいのは、死者が喋ることではなくて、女がしゃれこうべになっても変わらないということです。死んだんだから、そこでおしまいでいいじゃないですか。なのに生前と同じように喋り、君臨し続ける。
そしてその時は唐突に終わりを告げます。

いつの間にか其処に一本の電柱が建ったきり、あの世とこの世とを正確にしきりをしてしまった。

最後の一文。犀星の作品は、あの世とこの世の仕切りがあいまいなところが魅力だったわけです。どっちに属しているのかよくわからないというか。その仕切りが閉じられる。ちょんと拍子木が鳴って、これにておしまい。


ということで、『文豪怪談傑作選 室生犀星集 童子』、読了です。