『燃えるスカートの少女』エイミー・ベンダー


燃えるスカートの少女 (角川文庫)
予告なんてするもんじゃないですね。仕事が忙しかったり、体調を崩したりなんだりで、例によって4カ月の更新ストップ。
予告していた『燃えるスカートの少女』はとっくに読み終えちゃったんですが、予告した手前、『燃えるスカートの少女』の感想をまとめておこうと思います。
あ、申し遅れましたが、あけましておめでとうございます。


ということで、これ。角川文庫で読みました。
『燃えるスカートの少女』エイミー・ベンダー
です。
アメリカの女性作家の短編集です。初めて読む作家ですが、ガーリーでちょっと不思議なお話。日本でエイミー・ベンダーに近い作風のものを考えてみると、大島弓子萩尾望都の少女マンガが浮かびます。
ただ、これらの少女マンガは好きなんですが、エイミー・ベンダーのヒリヒリするようなナイーブな感覚は、ファンタスティックなのに生々しくって、僕としてはちょっとしんどいところがありました。僕はこの手の痛みに対して、鈍感なところがあるのかもしれないですね。
では、どんな風に不思議でどんな風に生々しいのか、見てみましょう。
例えば、「溝への忘れもの」という話。夫が戦争で唇を失いその代わりにプラスチックの円盤をくっつけてかえってくる。それを見た妻は、失われた唇とキスを思い、ショックを受ける。

あなたは生きてる、と彼女はいって、彼を抱きしめた。あなたはスティーヴン。彼は円盤を彼女の頬にきつく押しあて、キスした、===、彼女はじっと我慢して、泣き出さないようにした。

「あなたはスティーヴン」とわざわざ確認しなければならないほど、彼女にとって夫は別物になってしまっている。この痛ましさ。「===」は、このプラスチックの円盤が触れ合う間とかカタカタという音を表しているようです。文章にも、唇の欠如が刻まれているわけです。
例えば、「マジパン」という話。父親のお腹にドーナッツ状の穴があいてしまう。ただし、それ以外はいたって普通に暮らしている。そして、娘もそのことに驚きながらも受け入れてしまう。

どこに行っちゃったんだと思う? 私はたずねた。
何が、皮膚かい? と父はいった。
ぜんぶ、と私はいった。皮膚とか、ここにあったあばら骨とか、胃液とか、ぜんぶ。
まだぜんぶあるんだと思うよ、と父はいった。ただ脇に押されてるだけだろう。
かっこいいじゃない、と私はいった。父のまわりでおこなわれる、ちょっとバスケットボールみたいな新しいスポーツを想像していたのだ。
父はシャツを下ろし、幕が下りた。おれはそうは思わないな、と父はいった。でも死にはしなかったからね、といった。それには感謝してるよ。

お腹の穴をめぐるジョークは、この作品のあちこちに出てきます。中でも、この「新しいスポーツ」ってのは可笑しい。そんな不謹慎なユーモアに、親密な父娘関係を感じさせます。でも、それでも父と娘の間には微妙な齟齬がある。
どの作品も、不思議なことが起きていながら、とても静かで淡々としています。その淡泊な文章が、僕を立ち止まらせます。愛する相手や肉親の体の一部が欠けてしまう。そのとき、僕はどうするだろう、そんなことをたびたび考えさせられる。その人でありながら別物になってしまった人を、どうやって受け止めればいいのか。
「思い出す人」という話では、恋人が人から猿へ猿から海亀へと逆進化していきます。そして、その逆進化は、やがて恋人が小さくなって消えてしまうであろうことを意味しています。

いま私が仕事から帰ってきて、もともとの大きさの彼が歩いたり悩んだりしている姿を探すたび、あの人は行ってしまったのだということを、何度も何度も思い知らされる。私は廊下を行ったり来たりする。ほんの数分のうちに、ガムを一パックぜんぶ噛んでしまう。記憶を点検し、まだ記憶が失われていないことを確認する。なぜなら彼がいないのであれば、覚えているのは私の仕事だから。

愛する相手が、別のものに変異していく。それでも変わらないものがあるなんていう、中途半端なきれいごとは通用しません。それでも、主人公の女性はそれを取り乱すことなく受け止めています。
おそらく、彼が消えてしまうと気づいたとき、彼女は決意したのでしょう。「思い出す人」というタイトルには、記憶の中で甦るあの人、という意味のほかに、思い出す役割を負った人、という意味がこめられています。その静かな決意が、淡々とした文章から伝わってきます。
失われたものはもう戻らない、それでも日常は続いていくという残酷さと滑稽さ。この作品集に収められている作品の登場人物達は、他者を強く求めながら、その運命の残酷さや滑稽さに晒されています。相手とのどうにもならない溝がそこには横たわっている。そして、静かにそれを受け止めている。ほとんどの作品が、中途でぷっつり途切れるように終わっていますが、それはまるでその溝の前で佇んでいるかのようです。静かな決意とは、佇む決意ということなのかもしれません。
「癒す人」という話には、突然変異により炎の手を持つ少女と氷の手を持つ少女が出てきます。彼女達は、二人で手をつなぐときだけ、普通の少女に戻ります。しかし、ある時期から彼女達はお互い距離を置くようになる。そしてある痛ましい出来事をきっかけにして、最後には、二人の少女は離れ離れになって生きることを決意します。
そう、ここにも静かな決意がある。二人でいなけれ均衡状態を保てないにも関わらず、二人はそれぞれに欠如を抱えることを選びます。そして彼女達は「癒す人」になる。欠如が贈与へと変わるこのラストは、痛ましさと隣り合わせの深い愛を感じさせます。


あと、ささいなことですが、「Hey」というのを「へい」とか「へーい」とひらがなで表記する、菅啓次郎さんの訳はすごくよかったです。。

へい、と若者はいった。いい感じ。

軽やかでやわらかく、どこか親しげな手触りもあって、へーい、いい感じ。


ということで、『燃えるスカートの少女』はおしまい。
実は、更新を休んでいる間に、他にもいろいろと読んだので、それについても書いちゃおうかな。ミルハウザーとかも読んじゃったし。
なんてことを言うと、また予告みたいになっちゃうので、まあ「余裕があったら」くらいに思っておいてください。
では、今年もよろしく。