『噂の娘』金井美恵子【9】


読み終えました。ふう。なんて心地いい読書だったんでしょう。最後は一気に読んじゃったんですが、ラストシーンでは、読み終えちゃうのがもったいないような、ふうっと遠くを見つめるような気持ちになりました。


では、最後の100ページ分です。

それから、あの時、床の上を静かに音もたてずに這っていたルビーのように赤い眼をした小さな蛇と自分だけが、この世界で生きている生命なのだと、ぞっとするような、しーんとした沈黙のなかで思った時から、「孤児」という言葉が自分にむかって、あわれむようにささやかれるのを何度も耳にしたのだが、それがどういうことを意味しているのかは、よく理解出来なかったものの、奥方様(メム・サーイブ)のようには美しい人は一人もいない女の人たちが、良くも悪くも、あの娘(こ)は今までとは違った環境に慣れなくてはいけませんわ、と言っていることから考えても、いい事とは思えなかったのだが、

メアリのお話、つまり『秘密の花園』のパートです。ああ「孤児」か、とようやく気づきました。モナミ美容院にあずけられている主人公の少女が、このお話に共鳴しちゃってるのは、「孤児」の心細さに自らを重ね合わせているのかもしれませんね。
孤児となったメアリは、大人たちの話す言葉に耳をすませます。「良くも悪くも」という言葉から、メアリが悪いニュアンスを感じとるように、たとえ大人にしかわからないような言い方をしていても、聞いている子供は何となくニュアンスでわかっちゃうもんなんですよ。
モナミ美容院の主人公の少女もまた、そんな風にして大人たちの会話に耳をすませ、あれこれ思いをめぐらせています。そこには、スキャンダラスな噂話もあれば、ファッションや映画の話もある。この小説に溢れる女たちのお喋りは、活き活きとしてとても魅力的です。

雑誌で読んだけれど、花嫁衣装が白いのは、処女の純潔さの象徴であるのと同時に、何にも染っていない純白のまま、嫁いだ先の色にどのようにも染りますって意味なんですって、ぜんぜん封建的な考え方ですよねえ、男女同権の時代に、

おかみさんたちは聞きたがり屋だもの、そりゃあ、言うわよ、お宅なんか商売柄どうしたっていろんな話しを聞くでしょう、お喋りが楽しみでパーマかけに行く人だっているしさ、なんて言うから、まあねえ、ってあたりさわりなく笑ってりゃあいいの、そいで、でも、ちゃんと耳は澄ましておくの、噂話だってね、知ってて損はないんだからね、

ちょいと気の利いた今時の「不良」だったら、トニー・カーチスじゃなくて、プレスリーのモミアゲとリージェントのヘア・スタイルを真似るのが普通だと思うけど、そこがタハラヤの馬鹿息子の限界というか可愛いところだけど、あれはとっぽい奴でしょう、

あたしなんかは、子供の頃の遊びと言ったら、いつだって、半紙をこう筆にくるくる巻いたのをぎゅっとしぼって皺を寄せた紙で、姉様人形の髷をこさえることだった、島田や結錦や銀杏がえし、丸髷、なんでも結えたものだ、習いたいのなら、いつだって教えてやるよ、

順に、モナミ美容院の見習いの娘、モナミ美容院のマダム、モナミ美容院の長女、モナミ美容院のおばあちゃんのセリフ。それぞれの口調の違いを、繊細に描き分けているあたり、さすがです。「ぜんぜん〜ですよねえ」「そいで」「ちょいと」「こさえる」といった口語のおかげで、まるで、すぐそばでお喋りを聞いているような気分になる。たいしたことは言ってないんですが、なんだかとても心地いい。
金井美恵子は映画評も書いているくらいですから、映画についてのお喋りも楽しいです。

あたしは、『巨象の道』の時のリズの方が、もともと好きな女優ではないけれど、よかったと思う、ロンドンの本屋の娘で、セイロンの大紅茶農園主のワガママで、ちょっと異常なところのあるバカ殿様みたいなピーター・フィンチに見染められて結婚して、ロマンチックな夢見心地で新婚旅行をかねた船旅でセイロンへ行くんだけれど、ピーター・フィンチの家は、まるでマハラジャの御殿のような豪華で壮麗な白い石造りの大邸宅で、セイロンの紅茶農園主と言えば、金持だとは思っていたものの、本屋のつつましい娘の想像を超えた規模だし、ロンドンでも船の上でも優しく繊細だけれども、少し強引に見えるのは、自分に対する恋の情熱のせいで、そうしう男の情熱的な強引さに、ことに本屋の娘などは、小説や詩をたくさん読んでいるからロマンチックに感じやすくて、それが異常さのせいだということを見抜けずに、コロッとのぼせてしまうというのは、よくあることで、だんだん、ピーター・フィンチの、父親コンプレックスでバカ殿様的に横暴で支配的な異常さに気づくことになるし、フィンチの父親の代からいるセイロン人の執事も不気味だし、王様のようにセイロン人から怖れられて尊敬されていたらしい死んだ父親の影にフィンチはいつも怯えているし、セイロンの支配階級のイギリスの馬鹿青年たちにリズを紹介するために招待しても、とても溶け込めない排他的な男同士の集団という雰囲気で、ウイスキーをがぶ飲みして、白い熱帯地方風に乗ってポロ試合をはじめるものだから、エリザベス・テイラーは、あの特徴のある太い眉をひそめて――(中略)――リズが眉をひそめると、なんだか虫歯の奥の神経がツーンと響いたのを我慢しているように見えるのだけど、どっちにしても、夫が自分勝手で頼りにならない男だということに気がついて、がっくりするわけで、結局、最後には、男らしい農園技師のダナ・アンドリュースと結ばれてハッピー・エンドということになって、『巨象の道』の方がずっと面白かった、と語り、

これはモナミ美容院の次女のセリフ。まあ、ひとりでよく喋ります。もうすっかり慣れましたが、長い長い一文はこのあともまだ続きます。
それにしても、僕はこの映画をよく知らないんですが、ホントにこんな話なんでしょうか? どうも怪しい気がするのは、次女の主観がたっぷり入ったこの語り口のせい。「バカ殿様みたいな」というのも可笑しいし、「虫歯の奥の神経がツーンと響いたのを我慢しているように見える」という言い方は、金井美恵子そのもの。「コロッとのぼせてしまうというのは、よくあることで」とか、「とても溶け込めない排他的な男同士の集団」というあたりも、辛辣です。
セイロンが舞台になっているというあたりは、『秘密の花園』をちょっと連想させます。ということは、これはやっぱり『秘密の花園』同様、書き換えられた『巨象の道』じゃないかと。わかりませんよ。わかりませんが、そうであってもおかしくない。何故なら、これが記憶をめぐる物語だからです。記憶のなかで、物語はいつしか再構成され改竄されていく。
さて、この小説もこのあたりまでくると、もう、いろんな記憶が入り混じり、覚えているはずのないことが語られたり、前に出てきた回想がふと甦るようにまた現われ、でも微妙に違っていたりして、どんどん入り組んでいきます。でも、思い出すっていうのは、そういうことですよね。どこかで聞いた話を我がことのように記憶しちゃったり、思い出すたびに細部がちょっとずつ変わっていったり。そうして、物語はほとんど展開しないまま、意識はふらふらとあちこちへ飛びまた戻りをくり返す。

いろんなことが映画とか本とか人に聞いた話しとか夢で見たことなどが、ゴチャゴチャになって、あんたのオモチャ箱とか机の引き出しの中とか、小鳥の巣のようにゴタゴタと混りあうことがあるのだ、と母親は言うのだが、

主人公の少女の母親のセリフです。もはや言わずもがなですが、この小説『噂の娘』は、そんな風にして書かれている。思い出すとき、記憶は混ざり合い、揺らぎ、事実と想像の境界を溶かしてしまう。
そして、長い長い回想の果て、長い長いお喋りの果て、最後の見開きで、見覚えのあるシーンが再度くり返されます。これまで読んできたあれこれが甦り、ふうっと意識が宙に浮かぶような気分になる。
ただし、このシーン、例によって前に出てきたものとはちょっとだけ違う。単純なくり返しであれば円環構造になるんですが、時間の輪は閉じず外へと流れ出す。このちょっとの違いが、長い長い夏休みの終わりを予感させるんですよ。これは見事です。グッとくるなあ。
そして、外へ流れ出した時間を受けて、最後の4行。ふっと途切れるようにラストが訪れます。深い余韻を感じさせるこのラストは、とても素晴らしいです。ふいに訪れるラストですが、ピリオドが打たれたような感じはありません。ここからまた、記憶がとめどなく溢れ出ていくような終わり方です。読み終えた僕も、宙に溶けていく記憶を追って、思わず遠くを眺めてしまう。


『噂の娘』、読了です。