『噂の娘』金井美恵子【8】


さすがにここまで来たら、ストーリーを紹介してもほとんど意味がない小説だということがわかってきたので、もう、気になったところを飛び飛びに引用するんでいいかなという気がします。


では、いきましょう。

だから、箱根で従兄の運転するジープで自動車事故にあって、橋爪のおばさんが死んだ、ということが「悲劇」だというのは、まだ若くてきれいな人なのに事故で早死したという意味なのはわかったけれど、でも「悲劇」というのは、「恋愛」があって、恋人同士がいて、そのどっちかに「夫」や「妻」がいて、そのうちの誰かが死ぬとか殺されるとか自殺する話しのことなんだから、と、金魚の娘に説明すると、うん、うん、と真面目な顔で頷くので、私は、さらに、「だから」と強調する。だから、あたしとしては、橋爪のおばさんとジープを運転したいた従兄というのは「恋人同士」だったんじゃないかと思う、だから「悲劇」なんでしょう?

「金魚の娘」とは、モナミ美容院の見習いの女の子。モナミ美容院にあずけられている主人公の少女は彼女に、スキャンダラスな事故についての自分の見解を伝えているシーンです。
ませてますね。たぶん、同い年の男の子よりもずっと大人びている。彼女は、おそらく両親などの大人たちが話しているのを、何食わぬ顔で聞いていたんでしょう。そして、そこに出てきた「悲劇」という言葉に、何か秘密の匂いを感じたのでしょう。近親相姦という言葉はまだ知らないかもしれませんが、イケナイコトだというのは、何となく嗅ぎつけている。
この小説には、こんな噂話が次々と出てきます。恋愛絡みだけじゃありません。美容整形の話、麻薬中毒の話など、どぎつい話が、女たちのにぎやかなお喋りに乗って、ふわふわと流れていく。少女にとっては、それは『秘密の花園』と同じように、ドラマチックだけどどこかお伽話のようなものなのかもしれません。

金魚の娘の群青色のスカートは、銭湯の壁にペンキで描かれた富士山の色とか、夏休みの「ワーク・ブック」の表紙に毒々しく印刷された海の、広重の描いた泡立ち弾じけ散る波頭を真似て白いワラビの頭のように弾じける波をいただく青さのわざとらしさや、みゆきダンス・ホールの入口に置かれて、誰もが魅惑されずにはいられない「ハワイアンの夕べ」の看板に描かれた海の色を、それは連想させるのだし、天然色映画やカラー印刷や、化学染料によって作られた「ブルー」の鮮やかさで、しかし、多分、少し薄汚れた、けれどもオフセットの明かるさと「富士カラー天然色」の色調をおびて輝いているのだ。ネオンと豆電球が点滅するみゆきダンス・ホールの入口に置かれた「ハワイアンの夕べ」にすっかり「アメリカの植民地化された」若い客たちを誘う看板は、とても良く出来ていて、旧の七夕の商店街の飾りよりもずっと人気があるのだが、それもおそらく、ここでは無い、どこか外国の群青色の海と空へのあこがれを語っているのであり、ペンキで描かれた空と海と白い砂浜をバックに、ベニヤ板とプリント地のブラジャーと造花のレイと本物の腰みので出来た「南洋の美人」が腰を振ってフラ・ダンスを踊るのだった。

列挙癖にテクスチャー趣味。このあたりは、金井美恵子の真骨頂です。わくわくします。スカートの人工的な青色から、次々と色の連想ゲームが始まり、やがてダンスホールの看板の海の色へとたどり着く。この看板、「ハワイアンの夕べ」っていうのが、いいですね。
金魚の娘のスカートが、海のような青色、じゃないところがミソです。あくまで「描かれた海」に似た色だと。でもそれは、要するに「青いペンキの具の色」って言ってるようなもので、結局、例えたつもりがよくわからないことになっている。
なっているんですが、これはとても面白いです。おそらく、金井美恵子は、ニセモノの魅力をよく知っている人なんでしょう。自然物よりも、人の手で作られた人工物に興味が行っちゃうというか。わざわざ、「南洋の美人」の造りを細かく説明するところからも、それが窺えます。
実際のハワイの映像よりも、ペラペラのベニヤの看板が、ここではないどこかへの憧れをかき立てたりするもんなんですよ。こういうところに、僕はスティーヴン・ミルハウザーに似たものを感じてしまうんですが…。
次も、そんな場面です。

もちろん、紙の表面のところどころに小さなひび割れと皺の出来ている表紙のきらきらと透きとおるルビーの色は、氷イチゴのシロップの色を思い出させて、夏のはじめに、緑色の柔らかなちりめん紙を敷いた小さな木の箱にきちんと並べられて(柔らかな緑色のちりめん紙は、赤いイチゴの果汁のしみでところどころ染まって絞り染めの三尺のきれはしのように見える)透明なセロファン紙を被せて売っている、甘い香りの粒々をあたりに漂わせているイチゴとも、八百屋の定休日の前の夕方、まとめて安く買ったイチゴを、母親がホーローの鍋でジャムに煮詰めている時に、二階の部屋まで充満する、蜜状に溶けた砂糖と混りあった果実の柔らかく甘美な匂いとも、むろん、色とも、氷イチゴのシロップの味も香りも、まるで別の物で、それは甘さと酸味に微かな苦味が混り、食べた後、赤紫色に、ざらざらした舌の表面を染め、舌の周囲と、奥の付根のあたりから滲み出す唾液にしつこい香料の匂いと甘さと食紅の苦味をいつまでも残し、かき氷で冷えた口の中の冷たさが、それ以前のあたたかさに戻ると、唾液をねばねばさせてしまうから、むしろ、嫌いと言ってもいいのにもかかわらず――後になって、イチゴ・シロップ色でシロップ臭い匂いのする酸っぱい胃液を吐いてしまう――つい、イチゴを注文してしまい、カンロやミルクを注文した時には、いつでも、ひどく後悔をするのだったが、

外国の雑誌の表紙の赤色から、かき氷のイチゴシロップへと連想が移り、それが実際のイチゴとは似ても似つかないということが、延々語られます。それに、実際のイチゴの描写は、イチゴの描写というよりも箱の底に敷かれた紙の描写であり、それを包むセロファンの描写です。やっぱり、どうしてもそっちに目が行ってしまうんでしょうね。
イチゴとは名ばかりのシロップは、甘くておいしいと言うには甘すぎて、「むしろ、嫌いと言ってもいい」んだけど、つい「注文してしまう」。嫌なら食べなきゃいいのに、と思いますが、あの色に魅かれてしまう気持ちもよくわかる。例えば、『秘密の花園』のような少女小説の世界も、そういうものかもしれません。小説だって、人工物です。作りものめいた異国のお話が、ここではないどこかへの憧れをかき立てる。
このあと、モナミ美容院でかき氷を注文するシーンになり、イチゴシロップのことを思い出しただけで、主人公の少女は胃液を戻してしまいます。ワンピースを汚してしまった少女は、そこから、かつてそれを着てサーカスに行ったことを思い出し、そこで出会ったサーカスの少女が歌っていた歌を思い出し、母親がその歌を歌っていた別の記憶を呼び覚ます。
記憶が次々と連想ゲームのようにつながっていくところが、とても面白いです。それが現在形で綴られているせいで、どこで回想シーンに入ったのかがすぐには掴めず、時間軸がよくわからなくなる。「これはいつの記憶なんだ?」と、くらくらしてくる。そしてふいに、いやあれはワンピースではなくサマー・ドレスだったのかもしれない、と少女の記憶が揺らぐ。金井美恵子、やりたい放題です。

               それから、思い出すのだ。いや、そうではなく、思い出すのではなく、それを虚しく生きてみる、何度でも、何度でも、何度でも。

記憶が甦るというのは、そういうことなんだと思います。「思い出すのではなく、それを虚しく生きてみる」。だからこそ、現在形で綴られるわけです。目の前で起こっているかのように、記憶の中を生きてみる。生きてみるけど、それはもはやもはや実体がなくなってしまったものだという認識が、「虚しく」という表現になっているのかもしれません。
記憶を生きてみるけど、その当時のようには進まないのは、記憶が不確かだからです。針飛びや脱線をくり返し、うねうねと曲がりくねって思いもよらぬことがふいにつながる。イチゴとイチゴシロップが別物であるように、実際の生と記憶の中の生は別物なんですよ。
では、何故、「何度でも、何度でも、何度でも」記憶に立ち返るんでしょう? 僕はそこに、何か切実なものを感じてしまいます。これはもう少女の目線じゃないですね。少女時代を思い出している目線です。いや、「思い出す」のではなく、「虚しく生きてみる」んでした。うーん、やっぱり、この「虚しく」が気になりますね。


ということで、今日はここ(P276)まで。記憶というテーマがはっきり見えてきたおかげで、この小説のうねる文体はそれに基づいたものだということがわかってきました。
いよいよ佳境です、というほど変化がある小説じゃありませんが、あとは、一気に読んじゃうつもり。