『噂の娘』金井美恵子【7】


現在形で綴られる息の長い文章は、まるでカメラの移動撮影のようにゆるゆると戦後のある夏の日を映し出していくわけですが、そこにカギカッコなしの誰かのお喋りやら入り組んだ回想やら本で読んだお話やらが混じり合い、境界線が曖昧なまますべては少女の脳内に浮かぶ出来事のように渾沌としています。そして、その渾沌具合に拍車がかかってくる。


ということ、つづきにいきましょう。

時間がどういう具合に過ぎたのか、というより、どう流れたのか、順序正しくそれを思い出すことも、再構成してみることも不可能だし、それが一日の出来事だったのか、三日だったのか、それとも一週間か十日だったのか、そうした時間の数え方の間から、実際におきた出来事ははみ出してしまって、何か決定的な、それなのに形にならない何かをあの小さな娘に刻みつけてしまいはしないだろうか、と、かつて詩人になることを夢見たことのある若い感じやすい士官は、横たわっている麻と絹の混ぜ織りのシーツのかかった船室のベッドが、と言うより、船そのものが、今でも覚えている自分の作った詩の一行を引用すれば、「夢のなかでの歩みのように、よるべなく絶え間なくさまよう」かのように揺れていると考えながら、噂話で聞いた小さな娘の経験したおそるべき出来事に思いをめぐらすのだったが、何を質問しても、返って来る話しの内容は一向に要領を得ない未開人と子供と女というものは彼を苛立たせる存在だったから、むろん、あえてその怖るべき経験をしたメアリという少女に会ってみるつもりはないし、もしデッキか食堂で見かけたとすれば、妻の話しによると、実際の年齢よりずっと小さく見えるばかりか、感じの悪いひねくれた顔付きで、それも、インドで生れて、年中どこかしら病気だったというのだからしかたがないにしても、栄養の悪そうな貧弱で白っちゃけた黄色の髮と、同じような黄色い顔をしているという娘は、一目でわかるだろうが、彼女に気付かれないようにやや距離を置いたところから観察はするだろうとしても、決して話しかけたりはしないだろう。

これは、例のメアリが出てくるお話のパート。詩人を夢みたことのある若い士官の視点で綴られています。何となくメアリは可愛らしい少女だと思ってたんですが、この士官の視点から見れば、「感じの悪いひねくれた顔付き」ということになるんですね。それに、「未開人と子供と女」という傲慢な言い方!
メアリはどうやら、両親がコレラで死んでしまったあともただひとり、インドのお屋敷の中にいたところを、助け出されたらしい。そして今、イギリスへ向かう船の上にいる。同じ船に、この士官も乗っているということのようです。でも、この士官はメアリに話しかける気はさらさらない。
その代わり、士官は、会ったこともないメアリの気持ちをあれこれと想像します。つまり、メアリ視点になるわけです。そして、ひとり屋敷に残された少女の様子が、こと細かに再現される。もちろん、冒頭で「再構成してみることも不可能だし」と言ってるわけで、正確なものではありません。あくまで、士官が思い描いた「メアリの記憶」です。こうなってくると、記憶と想像を区別するのは意味がないんじゃないか、っていう気がしてきます。
それにしても、この小説は、誰の視点で描かれているのかというのが非常にややこしいんですね。このメアリのお話を読んでいるのがモナミ美容院の少女だとすると、士官の視点が出てくるのはちょっと妙な気もします。さらにその士官が、メアリの視点に立ってみるとなると、もう視点の入れ子状態。それは、いったい誰の記憶なのか、境界線がはっきりしなくなってくる。

ロマンチックな詩の主題は、死と乙女ということになるわけだが、そこには異国趣味(エキゾチシズム)が、まさしく色彩という主題として加わるはずで、それはインドの河や神々のイメージ、西洋と東洋の対立と侵蝕、そしてそこに河と蛇とから当然導き出される輪廻の主題をも巧みに取り入れたなら――むろん、少しそのあたりの本を読んで研究しなければならないだろう――そして、さらにもちろん、虎も、どこかに登場させたいところだが、そうしたならば戦慄するに足る詩が書けるのではあるまいか、(中略)この詩は、おそらく『秘密の花園』と名づけられるはずなのだ。

え、士官が書こうとしている詩は『秘密の花園』で、ということは、モナミ美容院の少女が読んでいた本は『秘密の花園』ってこと? 僕は読んだことありませんが、ホントにこんな話なんでしょうか? よくわからなくなってきました。この小説に出てくる『秘密の花園』は、いかにも金井美恵子風の描写で描かれていて、どこまで元のお話に沿っているのか、よくわからない。
「色彩の主題」なんて言葉づかいは、いかにも金井美恵子が映画評を書くときに使いそうな感じですが、この小説で、「『秘密の花園』と名づけられるはずなのだ」と語っているのは誰なんでしょう? 士官? それとも、このお話を読んでいた少女? それとも、もっと大きな枠の外に語り手がいるってことでしょうか? だとしても、それが誰なのかも、今ひとつはっきりしないんですよ。
このあと、一行空きでこんな一文が挟まれます。

汽船はアラビア海で、大波に揺られた。

これは鮮やか。映画で言えば、それまで船のなかにいたカメラがふいに切り替わり、外観のショットが挿入される、という感じでしょうか。荒れる海原を進む汽船。

雷鳴も激しい雨も、なかなかとまらない。
どこかの山の上の湖――カコーゲンコというのだと、その時、誰かが説明してくれたのだが、それは誰だったのだろう?

汽船のショットのあとに出てくるのが、この文章。思わず、士官の話の続きだと思っちゃいますが、もうちょっと読むとモナミ美容院のパートだということがわかります。それにしても、「それは誰だったのだろう?」と、ここへ来て語り手はなんだか記憶に自信がなさそうです。というか、これは、誰の記憶なんでしょう?
さらに、まるで針飛びのように、前に出てきたのと同じシーンが登場する。「あれっ?」と思うんですが、この混乱はこのあとさらに激しくなってゆく。語り手の記憶は、ますます渾沌としてゆきます。
1〜2行空きで区切られた各パートの冒頭部分をまとめて引用します。

時間がどういう具合に過ぎたのか、というより、どう流れたのか、順序正しくそれを思い出して再構成してみることなどは、不可能というより、ほとんど無意味に等しいのだ。九時に友達が迎えに来るということは、と末娘は言う。

            それから、多分、雨はあがり、私はイスズ屋の娘と二人で肉屋へ夕食のおかずの、トンカツとスコッチ・エッグとマカロニ・サラダを買いに行ったのだろうか。

夕飯のおかずの、肉屋の店頭で揚げているトンカツとスコッチ・エッグとマカロニ・サラダを買いに行ったのは別の日だったかもしれない。

          それから、多分、雨はあがり、それとも雨など降ったりはしなくて、柏屋にあずけてある「タフガイ」の様子を見るために商店街を歩いていたのかもしれない。

挙げたのはすべてモナミ美容院のパートですが、「時間がどういう具合に〜」の部分は、先ほどの士官視点でも出てきた言い回しです。混ざってくる。もうね、どんどん混ざってくる。
ちなみに、引用部の頭に妙な空きがありますが、実際のページ上でもこのように表記されています。これは何なんでしょう? 「うーん」って、記憶をたどっている間みたいなものでしょうか。「多分」「だろうか」「かもしれない」と、記憶は揺れ動きます。夕飯のメニューといった細部はやけにくっきりしているのに、出来事の順序がわからない。物語の流れがわからない。
「タフガイ」は、猫の名前です。そこから、化け猫の話へ、オペラ・グラスの話へ、祖父の愛人の話へ、そして映画女優の話へと、物語はあちこちに飛び、つながったと思えばまた離れ、連想ゲームのように脱線してゆきます。
でも、記憶って、そういうものですよね。ちょっとしたことがきっかけになって、何かが呼び覚まされ、その記憶から、また新たな記憶が呼び起こされる。いちいち記憶にかかずらわってると話が進まないんですが、「言葉にして語ってみなければ、二度と思い出すことがないかもしれない」とモナミ美容院の娘も言っていました。だから、浮かんだときに言葉にするんです。そうやって、この小説は書かれている。
時間の流れを思い出して正確に順序立てて記述するのは、「不可能というより、ほとんど無意味に等しい」。だから、話はあちこちに飛び、同じシーンがくり返され、境界が曖昧なまま、目の前の出来事と記憶がなめらかにつながっていく。

女中? とききかえすと、母親は、大きな声で、違う、映画女優、と答え、こんなに凄く川の水が増えたのを見たのは、二十年ぶりのことだと興奮した声で言い、二十年という時間がどのくらいの長さなのか、むろん想像することなど出来はしないのだけれど、あの降りつづいた雨は、そう滅多にあるわけではない凄い大雨だったのであり、汽車の窓越の眼下にあふれてうねっている荒々しい灰色の川を見るのは、おそらく「今」の次に二十年先きのことなのだと考えると目まいのするような、興奮と緊張の混った変な気持ちになって、黙ったまま、汽車の窓ガラスに顔を押しつけるようにしてあふれる水を眺めつづけ、ほどなく汽車は鉄橋を渡りきり、空間を引き裂くような轟音の響きはおさまり、私はもう一度、女中? 映画女優? とききかえす。

記憶のテーマが迫り出してきてからは、どうしたって「時間」について言及される場面が目に留まります。これは、例のごとく現在形で綴られる回想シーン。回想の中で、少女は二十年前と二十年後を想像している。母親の二十年と少女の二十年が重なり合い、濁流のようにいくつもの時間が渦巻き流れていく。
カギカッコ付きで「今」と記されている今は、この回想の中での「今」ということでしょうが、じゃあ、誰がわざわざカギカッコをつけているんだろうと考えると、またしても、語り手は誰なんだ、という問題に突き当たります。
まあ、それを言い出せば、この小説はひたすら現在形で綴られているわけで、要するに、常に「今」なわけです。現在形で、「思い出す」こと。目の前で起きているかのように、次々と記憶を甦らせ続けること。思い出している私にとっての今と、記憶の中の私にとっての「今」、記憶の中の私が思い出している記憶の中の私の「今」、私以外の人の、例えば母親の「今」、メアリの今、士官の今、士官が想像するメアリにとっての今…。そうやって描かれる、いくつもの今。
くらくらします。少女が感じた「目まいのするような、興奮と緊張の混った変な気持ち」とは、そんないくつもの「今」の不思議のことかもしれません。


ということで、今日はここ(P200)まで。半分を折り返したあたりで、いよいよ、小説の構造が見えてきました。いや、構造って言うと硬いですね。もっと、かっちりした構成というよりも、ゆるゆると境界を曖昧にしながら広がっていく感じ。くらくらします。