『噂の娘』金井美恵子【6】


つづけます。

夜、電話があって、マダムが、二人ともおかあちゃまの電話に出なさい、と言い、お店まで歩ける? と訊くので、歩けると答え、足もとがフワフワしてなんだか変な感じだったけれど、内玄関を出て、通路に面しているお店の従業員専用の出入口から美容院に入って、表のガラス扉の近くのカウンターに、レジスターと並んで置いてある電話の受話器を耳にあてると、雑音の混った遠いよく聞きとれない声で、かあいそうだったねえ、大丈夫なの、もう痛みはないの、と母親が言っているのが聞こえはするのだが、咽喉全体が腫れあがったようにつまって、堅い塊が舌の付け根のあたりまでを押し上げるようにふくらみつづけ、そのせいで鼻の奥がつんと痛くなり、眼頭の奥というか眼球も痛み、もちろん、それは泣きはじめることの前兆で、次の瞬間には、口と咽喉から言葉でもないし声でもない嗚咽が、胃の中の胃液と混った未消化の内容物を戻す時のように、咽喉を奇妙な音で鳴らして迸るのだということがわかり、パジャマの上着の裾を手で握りしめて引っぱっている弟は、手を震わせて眼には涙を一杯浮かべているのだ。

主人公の少女は、どこか大人びていて静かに周りの大人たちを観察していたりするんですが、やっぱり、お母さんの声を聞くと泣いちゃうんだな。ふいに何かがこみ上げてきて、泣くまいと思うんだけどしゃくり上げちゃうことってあるでしょ。あの感じが、とてもていねいに描写されています。
これまでも何度か出てきてますが、「かあいそうだったねえ」というセリフがいいですね。「かわいそう」じゃなくて「かあいそう」ね。これ、東京弁かなあ。このあとには、「うで卵」なんて言葉も出てきます。「ゆで卵」じゃなくて「うで卵」。こういう、ちょっとしたローカルな言葉づかいがリアルなんですよ。
少女は母親と電話で話しますが、父親は何の病気なのか、両親はいつ帰ってくるかなど、肝心なことはやっぱりよくわからないままです。モナミ美容院のマダムも、「まだはっきりしたことはわかんないのよ」なんて言う。
その夜、寝ている少女の耳に、「いったいどうして、あの人が、そんなことをしたのか、わからない」と、大人たちが話す声が聞こえてくる。どうやら、浮気しそうもないどこかの夫が、よその女に手を出したらしい。

それから、私は再び眠り、ひそめ声で語られていた話しが、おそらく、というよりも、もちろん、父と母についてのことだと気づいて、かぁーっと顔の皮膚のすぐ下が燃えるように熱くなった頬と反対に、暗い地下の方に沈みこんでいくような感覚で体全体が冷たくなったことも含めて、あれは扁桃腺が腫れた高熱のせいで見た夢だったのだと考えようとする。そうに決っているし、そうでなくてはいけないのだ。

え、お父さんが浮気? ということは、ひょっとして、お父さん病気じゃないの? これはこれで大事件。いや、よくあることと言えばよくあることですけど、少女にとっては大事件。話しているのはマダムでしょうか。そりゃあ、少女への返事が曖昧になるわけです。でも、子供って、意外に大人の話を聞いてるんですよ。
それにしても、寝ているときに大人たちの話が聞こえてくるというシチュエーションは、どこか秘密めいていて、心をざわつかせるものがあります。僕にも覚えはあります。襖一枚隔てた向こうで両親が何か話している。戸の隙間から漏れてくる明かり、隣ですーすー寝ている弟の様子などを覚えています。さすがに話の内容までは記憶に残っていませんが、それでも何だかドキドキしたものです。
少女が、自分の聞いた話を「高熱のせいで見た夢」と思い込もうとしているのも、興味深いです。この「高熱のせいで見た夢」というのは、作品全体を貫く感覚でもあります。目に映るものやお喋りや妄想や読んだ本のイメージが、脳内で境界なく混じり合ってる感じ。そのせいで、細部はやけにはっきりしているのに、全体の輪郭がよくわからない…。
さて、次の日でしょうか、少女はだるい体をデッキチェアに横たえます。例の大事件については、一切触れられません。あれは、ほんとにあった出来事なんでしょうか? そのあたりも模糊としています。そんな少女の耳に、ラジオが聞こえてくる。

茶の間の奥の茶箪笥の上に置いてある真新しいベージュのプラスチック製のラジオは昼からつけっ放しになっていて、低くなめらかでふくらみのある声の女のアナウンサーが、次のリクエスト曲は映画『駅馬車』のテーマ・ミュージックです、と告げ「おたより」を読みあげる。長野県の高原にある療養所でカリエスの私を優しくはげましてくれたのが同室の彼女で、いつもあの哀愁に満ちた『駅馬車』のメロディーを口誦(くちずさ)んでいました。その夏、病室の庭に誰が植えたのか見事なヒマワリの花が咲き、丈の高いヒマワリの花は、ベッドで寝たきりの私にも窓越しに見えました。病状が悪化して、ヒマワリが咲きおわる頃には私も死ぬ、という予感がして、ふと、そのことを彼女に言うと、馬鹿なこと言わないで、ヒマワリは生命力の象徴なんだから、と、たしなめられ、彼女の描いた一枚のパステル画をベッドの横の壁に張ってくれました。ヒマワリは咲きはじめから夏の盛りには、見とれてしまうほど大きな花を咲かせますが、夏の終わり頃になると、だんだん花の大きさが小さくなり、しだいしだいに小さくなる花を、十月のはじめまで次々と咲かせつづけました。そんな事は珍しいことだそうです。

「おたより」はまだまだ続きますが、引用はこの辺で。アナウンサーの、しゃっきりとしたていねいな発音が聞こえてくるようです。それにしても、このラジオには、ついつい耳を傾けてしまうような魅力があります。今の番組とは、明らかに違う感触がある。何なんでしょう、これは?
ここで読まれる「おたより」は、今の僕から見ればまるで少女小説のように思えます。それがたとえ事実だとしても、どこかの誰かの出来事、という風にしか思えない。でも、このお伽話のような「おたより」にリアリティを感じることができた時代を思うと、なんだかそれがうらやましくなってくる。映画音楽というものが一つのジャンルとしてあった時代、ラジオが家庭の娯楽だった時代。
何て言ったらいいのかよくわからないんですが、それは、みんな同じ世界に生きているんだという感覚があるということじゃないかな。この感覚を共有しているからこそ、こういう「おたより」が書かれ、また読まれるんじゃないかな。そして、ラジオも映画も、そうした感覚の下にあるんじゃないかと。
駅馬車』はジョン・フォード監督の西部劇ですが、その西部の空が療養所の空とつながり、療養所のヒマワリがモナミ美容院の少女の夏とつながる。手の届かない遠くのものとつながっているという感覚に、クラクラします。

いきなり思い出したことを口に出さずに胸にしまっておくと、それはそのまま再び部厚く重ねた真綿のように柔らかで軽くなめらかな忘れられた時間の堆積に埋れてしまうのかもしれず、それは言葉にして語ってみなければ、二度と思い出すことがないかもしれないのであり、第一、あの洋館は何年か前に火事で焼けてしまったのだから――何かのはずみでこぼれた油絵具のついた筆を洗うテレピン油に煙草の火が引火したのが、出火の原因なのだった――あたかたもなく、庭の隅にあったユスラウメの木は、焼けた建物が取りこわされて片づけられた空地に残っているかもしれないにしても、多分、そこへもう行くことはないだろうし、いずれは誰かがあの空地になっている土地を買って家を建ててしまうだろうし、自分にしたところで結婚してしまえば、きっと、忙しくて昔のことを思い出す時間など無くなってしまうかもしれないのだ。

こちらは、モナミ美容院の末娘が語っているシーン。「記憶」というのは、この作品の大きなテーマでしょう。この作品は、まさに記憶の織り物というか、少し前の時代の記憶に充ち満ちています。さらに、登場人物たちも好き勝手に、様々な記憶をもとにしたお喋りを繰り広げる。『駅馬車のテーマ曲を口ずさんでいた友人の記憶、それがラジオの「おたより」として読み上げられるように、回想シーンの中で誰かがまた回想し、幾重にも記憶が重ねられてゆく。
そして、こうした描写のひとつひとつが僕の記憶を喚起して、今度は僕がまた違うお喋りを繰り広げる。胸にしまっておくと、すぐに忘れちゃうから、思い出したときに語っておかないと。ラジオに「おたより」を出すように、こうしてここに書いておかないと。
今、ここにないものを、どこまで言葉で詳細に語れるのか? それはほとんど創作と変わらないような気もしてきます。それは、例えばこんな本によく似ています。モナミ美容院の末娘が引っぱり出してきた、『人形ブック』という古い本。

二階の自分の部屋から、セロファン紙のカヴァーが何度も何度も開いたせいで、手の汗やなにかでふやけてベコベコしている古びた『人形ブック』を大事そうに持って来て、恋愛のヒロインというものについて説明する。世界の名作恋愛小説のヒロインのイメージで作った衣装人形の写真と、型紙付きで作り方もちゃんと書いてある、戦前の昭和十一年に出版された本で、あたしはまだ生まれていない時だけど、このヒロインのお人形たちが、どんな運命を生きたのかが良くわかるのだ、大切にていねいに扱うのなら、貸してやるから見てもいい、と、もったいぶってページをめくり、ピンクや白や薄水色や藤色の裾の長いふくらんだり、フリル飾りやリボンや造花の飾りのついたドレスを着てポーズをとった、絹糸で出来た金色や茶色のカールした髮に、ジョーゼットの肌の「夢見る瞳」や「憂いに沈む眼差し」や「情熱を秘めた眼差し」の衣装人形の写真を次々に開くので、すっかり魅了されてしまい、是非とも、この本をしばらく貸してくれと言うと、末の娘は、お人形も、ひとつひとつが全部きれいで素敵だけど、小節の荒筋も面白いのだ、と言い、この何体ものお人形のなかで自分が一番好きなのは、これだ、とページを開いて指さす。

いいですねえ。この描写だけで、とても魅力的な本だということが伝わってきます。人形の衣装の写真と型紙。ここには表層しかありません。すべてガワだけのもの。そのガワの中身は、恋愛小説のヒロインという、これまた架空の存在。いいですねえ、こういう本、好きですよ、僕は。男の子で言うと、ウルトラ怪獣の解剖図鑑みたいなものでしょうか。
ちなみに、末娘が一番魅かれる人形は、『若きウェルテルの悩み』のヒロイン、シャルロッテだとか。その理由は、「情景の細かさ」だと彼女は説明します。このように細部にこだわり、描かれていないことまでイメージすることで、架空のヒロインが活き活きとしてくる。この『人形ブック』の仕掛けは、少女の読むお話に出てくるメアリと相似形です。
素材や服装や髪型といった表面的なものを、金井美恵子はひたすら愛でている。最初にブックカバーの手触りから入るところが、その証拠です。それを撫でまわし、しゃぶりつくすように、ただただ細部の描写を書き連ねていく。架空のヒロインも、いつかの記憶も、そうやってイメージされることで、活き活きと甦るのです。


ということで、今日はここ(P160)まで。今回は、本筋では、父親の浮気というビッグニュースがあったんですが、それよりもラジオの「おたより」と『人形ブック』にやられてしまいました。